「主語が大きい」はアホの思考か?
「主語が大きい」という考え方について、『一般化が雑という批判は良いが、一般化そのものを悪とみなして被害感を抱くのはアホの思考だ』という指摘をツイッターで見かけたので考えてみた。
一般化そのものは、生後11ヶ月にもなれば自動的に習得してるスキル(アルバート坊やの実験による)だと思われるから、それを悪とみなしてもしょうがないというのは同意します。
でもね、『一般化そのものを悪とみなして被害感を抱く』なんてあると思いますか?
そもそも意味がないじゃない? 『一般化そのものを悪とみなす』意味がさ。
『結果的にそういうふうに見えているだけ』というふうに解釈できませんか?
実のところ、「主語が大きい」って指摘をおこなう人は『権威をでっちあげるな!』って怒ってるのであって、『一般化の雑さ』そのものを怒ってるわけじゃないんです。
例えば、『クラスのAちゃんとBちゃんがプラモデルを持ってる』という事実に対し、『学校のみんな』がプラモデル持ってるから買って! と子供が主張したとします。
それに対し、
『みんなって誰よ! 全員あげてみなさい! 主語を大きくしないで!』と親がいうとき、親は『一般化そのものを悪とみなして被害感を抱いている』のでしょうか?
主語を大きくして、買ってもらうって目的のために『権威をでっちあげてる』から怒ってるんですよ。
『「主語が大きい」なる批判、高等教育を受けた人々から出て来得ない思考様式なので基本的に見下している.』とのことですが、別の捉え方もありますよってことで。
ここからは余談になりますが、『主語が小さい!』って指摘は通常見ませんけれど、ぼくはそっちもあると思っています。
例えばSDGsの文脈で、『国家の成長こそ大事!』みたいに『国家の成長』を主語(主題)に持ってきたら、その主語は不適に小さいですよね?
そうして文脈と主語の間で、モノサシの方向があべこべです。
一般化の雑さ、とばかりも言えないんじゃないのかな。
『文脈と主語間のサイズ(多様性)のミスマッチ』が問題の根底にあるように思います。
高等教育で習わないって?
そりゃそうだよ、まだ誰も言ってないことを言ってるんだもの。
今回はそんなお話。




