『大衆敵視』ってなんぞや?
今回は、ゆるーいよ。
コメントで『思想家、哲学者、芸術家の中に少なからず大衆を(蔑視ではなく)敵視している人が存在する』という話題を頂いたのでちょろっと考えてみます。
実際に『敵視してる人が少なからずいる』って前提で考えるけどね?
まず、どんな場面で『大衆敵視』が起こるか?
大衆を『ボリューム層(偏差プラマイ2σ)』と定義するならば、はみ出した人は、大衆を『敵視しそう』ではあるよね。
イメージとしてね。
ほら、不利益を被ることが多くなるじゃん?
福祉分野に十分なお金が回ってないとかさ。
不満を抱くことは、十分に考えられる。
ただ、『敵視』までするかなぁ? と。
あるいは、ボリューム層を外れた上の方の人が、大衆に足を引っ張られることを良しとしない、みたいな?
それか、下の方の人が、ルサンチマンによって、とか?
たださ。
まともな考え方をしたら『敵視』なんてしないと思うんですよ。
マーケティングにしても、ディベートにしても、自分の意見を押し通すときでもさ。
大衆を相手にするなら、『どう味方につけるか?』じゃないですか?
そもそも『敵視』する意味がないし、『敵視』したところで、得なんてなんにもない。
ぼくが思うに、ホントのところは、糞でか主語の別の話なんじゃないですかね。
例えば、『民主主義がうまく機能しないことへの愚痴』だったりとかさ。
『官僚主義を批難したいのに、のってくれない大衆への愚痴』とかね。
そういうのならわかります。
実際は単なる『愚痴』なんじゃないの?
芸術家タイプ、だとすると……。
『自分の作品の良さが一般に受け入れてもらえないことへの愚痴』だとか?
そうだったら、共感せざるをえないw
みんな、もっと、いたもんを読めー!
(そんなことより続き書け!)
今回はそんなお話。




