優劣をつけない介入は差別主義者を生み出す
多様性って、『結果』なんですよ。
『生物の多様性』なんていいますけど、生物はなにか目的を持って多様になってるわけではない。
じゃあ、多様性の『原因』に当たるものは何かって考えると、多様な客観的な尺度による『競争』なんですよね。
例えば、鼻が長かったから大飢饉の中、木の上の方の果物がとれたぜー、とかさ。
おれは首が長かったから取れたぜー、とかさ。
私は木登りが得意だから取れたよ、とかさ。
泳げるから水中の海藻が取れた、とか。
そういうことでしょ?
生物の世界では生存競争がいろいろな部分で起こっていて、適者が『結果的に』生存すると。
翻って人間の方ではどうか。
『均質幻想』が強すぎるがゆえか、とくに日本では、『優劣をつけない介入』=『多様性の尊重』みたいな考え方をする人が現れがちです。
優劣をつけない介入っていうのは『結果』へのアプローチなんですよ。
前の話で書いたとおり、『結果』に目的をもって介入しても、大勢には影響を及ぼせないんだよね。
対症療法的といいますか、根本的な解決にならないの。
しかも、『競争』もまた『相手の選択』の『結果』だから、学校の中だけで優劣をつけることを避けられたとしても、社会に出れば他者が選択権を持ってる限り競争は起きるし優劣はつく。
一時しのぎの対症療法でしか無いってわけ。
ところが、教育者でも『優劣をつけない介入』=『多様性の尊重』みたいな馬鹿な考え方をする人をちょくちょく目にします。
本来は、めいめいがポテンシャルを発揮して、例えば『柔道が得意な人も音楽が得意な人も工作が得意な人もみんな等しく素晴らしいよね』っていう結果論が多様性なんですよ。
つまり、『多種多様かつ客観的な評価軸を選択の場にもってくる』ことで、達成されることなんだよね、多様性って。
もっと言っちゃうと、競争が悪いんじゃなくて、評価の基準が非客観的で少なすぎることが問題なんです。
これを、みんな一緒にゴールテープを切る教育(優劣はつけませんぞー!)とかやっちゃうとさ。
そういう教育を受けた人は、『みんな均質』って幻想が強くなる。
そういう育て方をされた人は、『均質』を求め、『不当に利益を受けていると思う人』あるいは『倫理に反していると思う人』を『過激に攻撃したり、叩きまくって自殺者を生み出したり』し、自らは平等を求め謳いつつも、『自分は今まで堪えてきたのだから『特別扱いをしろ!』』などと自分勝手な要求をするようになる。
平等を謳っているのに、よくよく話を聞いてみると『自分を特別扱いしろ』って言ってる人周りにいませんか?
彼らは『世の中は均質であるべき』って、自分の中でしか通用しない歪んだ幻想的な均質さでもって世の中を見てるから、均質が達成された『後』に『自分は今まで苦労してきたのだから』などと勝手な理屈をつけて、特別扱いを求めてくるんですよ。
せっかく成し得た客観的均質が、『均質』じゃなくなるじゃんね?
だから周囲から見ると、「ダブスタやめろや!」って話になります。
でも理屈を言ってる本人は『自分はこんなに耐え忍んで苦労してきたのに、周りの理解が足りない。もっと主張しなきゃ!』ってなる。
ノイジーマイノリティーの出来上がりだ。
んで、彼らは叩き棒をもって、『非均質』を作ってるもの探しにやっきになるから、陰謀論にもハマりやすい。
自分の中でのみ通用する非均質幻想の原因をね、外部にでっちあげちゃうんですよね。
そんで加虐の叩き棒で、自分が非均質を作ってると思いこんでいるものを激しく叩く。
昔なら魔女裁判とかね。今なら、生活保護とかさ、重病人とかさ、そういう人たちが過激に叩かれてたりする。
最近、こういう均質大好きな人、増えたような気がしません?
たまたま、ぼくが目にした人たちだけだといいんだけどな。
今回はそんなお話。




