『民度が高い』のウラオモテ
一旦できた構造って、みんな基本的に変えたくないんじゃないかなぁ、みたいなことを最近実感しています。
偏見やら『思い込み』なんかも、ひとたび考え方が結晶化されてしまったがゆえに、簡単には変えられなくなるんだろうなぁ、って。
そんな『思い込み』のなかの一つに、『世界を均質だと思う』ような思い込みって、ありますよね。
例えば、日本は『貧富の格差が少ない、均質的な社会主義国家である』とかね。
聞いたことがありませんか?
『日本は単一民族国家である』とかさ。
真偽や実態はどうでもいいんです。
ぼくは、みんなが世の中を『均質と思いこむ』ことで、『公正世界の誤謬』がより強く働くと、そんなふうに考えてます。
良いことをすれば報われる。
悪いこともまた報われる。
目には目を! 歯には歯を!
因果応報!
大好きでしょ? みなさん。そういう考え。
ぼくも物語のスパイスとしてなら結構好きです。
例えば、『ぼくが新人の時分には山程苦労をしたのだから、若者も新人の時分には同じように苦労をしなければならない』とかさ。
あるいは、『私が出産のときにとっても痛い思いをしたのだから、お隣の奥さんも痛い思いをして出産を経験すべきだわ』とかね。
リアルにやったら不健全な考え方だと思うんだけどさ。
繰り返しますが、事実実態が均質である必要はなく、その『均質さ』はマスコミが作った虚像とかでも良いの。
みんなが思い込みさえすればいい。
誰しも同じような苦労、喜びを抱えている、とかね。
『均質だという思い込み』が担保されれば、一億総中流社会とか、衰退国日本! とかね。お題目はどうでもいい。
そういう思い込みが強く働く条件下では、均質幻想が強固であればこそ、『一切の倫理違反を許容しない』ような不寛容な思想が展開されることでしょう。
『均質』って思い込みが、実態と異なってる場合なんかは、そこにさらにマウント合戦も加わって、地獄の様相を呈しますよね。
実際、今の日本ってそんな生きづらい世の中になってると思うんです。
さて。最近、ツイッターでこんなご意見を目にしました。
『倫理上の善悪って「同じ条件下でその行為をやろうとする人がみんな無制限に実行した場合に世の中どうなるか」って想定もとに判断されてる気がする。』と。
言ってることは正しいと思うんだけど、倫理上における善悪って、全然本質じゃないよね?
善悪なんて、実はどうでもいいんですよ。
倫理について言うならば、さ。
みんなそんなところを問題にしているわけじゃないの。
行為の『実行者』と『後始末をする人(不利益を被る人)』が異なるとき、『公正さが毀損されること』が問題なんであってね。
例えば、『芸人と女優』の夫婦の不倫問題とかさ。
お前のせいで、なんで〇〇ちゃんが貶められるんだ! みたいな思いが働くんだ。
あるいは、アイドルグループや、vtuberやらの同棲発覚疑惑とかだと、お前のせいでおれの推しまで軽く見られるだろ! とかね。
倫理的な善悪じゃなく、公正さ(あるいは、そうあるべき均質性)が毀損されたことに怒ってんのさ。
だからこそ、自分たちには関係ないことなのに、めっちゃヒートアップする人達が出てくる。
繰り返すけど、彼らは、行為の倫理的善悪について怒ってるんじゃなくて、『公正さが毀損されている』ことに怒ってるんだよ。
こんなふうに、『公正世界の誤謬』が強く働くような状況だと、『倫理規範がめちゃくちゃ強い効力を持ち』、一方では『民度が高く』、かつ他方では『誤ちが許されない』社会が実現する。
結局、何がいいたいのかって?
『民度が高い』は、必ずしもいい意味じゃないんだぜ? みたいな感じでしょうかね。
常にセットで、(倫理上の)『誤ちが許されない社会』っていう側面を持っているんですよ、と。
しかして、この2つを切り離して考えることは無理なんだ。
『均質幻想』とそこに由来する『強い倫理観』を介して、『民度が高い』と(倫理上の)『誤ちが許されない社会』は表裏だからね。
今回はそんなお話。




