好みじゃない作品を駄作と理屈付ける理由
ツイッターで、「「自分は楽しめなかった」「自分は苦手だった」ってだけのものをなんで後付で理由にもなってない理由で『ダメなものだ』と主張するのか?」みたいな話題があったので考えてみる。
しばしば、人って共感を得るために会話をしますよね。
そういう会話をする時は、根底に『否定されたくない』って感情があるんだと思います。
だから、『共感』してほしい感情について『共感してもらえるかどうか自信が持てない』ときにこういう事が起こる。
ところで、映像作品とかを見て惹起される感情って、『見聞きしたとき』には、もうすでに起こってますよね。
自分の過去の経験や思想などと作品を照らし合わせたから(原因)、『楽しめない、苦手』(結果)って失望してるの。
ところが、発言主さんは、『楽しめない、苦手』っていう感情(結果)から、『楽しめない、苦手』のもっともらしい理屈(原因)をでっちあげようとしてるんだよね。
アプローチの仕方が間違ってるんだ。
実際のところは、「ぼくは過去にこういう経験をしたことがあるから、(あるいは、こんな思想を持っているから等)、この話は『楽しめない、苦手』」なんだよね。
だけれども、これだと個人的なことすぎて、共感を得られないんじゃないかって不安が生じてしまう。
つまり、経験を共有してない人から共感を得たいがために『後付で理由にもなってない理由で『ダメなものだ』と主張する』ことになるってわけ。
客観的に見たら発言者の評価を下げるだけで、その行為にメリットなんかないんだけどね。
今回はそんなお話。




