陰謀論の成り立ちについて
まず前提。
論理的な思考は因果性を積み重ねることによっておこなわれる。
因果性があるからこそ、『出発点が同じなら誰もが似たような結論になり』意思の疎通が成立するんだよ。
さて本題。
今回は、陰謀論の成り立ちについて考えてみた。
ツイッターがネタ元なので話半分で聞いてね。
『わからないから聞く』というときに、『わからない』と『聞く』の間には、おおよそ教育によって生じる相関関係があるだけなのだけれども、『わからない』と『聞く』の間に因果性があるものだと思ってしまう人がいる。
『わからないときは聞きなさい!』と教え込まれることで、『わからないときは誰しも聞くものなのだ』とか、『わからないゆえに聞くのだ』とか思ってしまうのだ。
ところがどっこい、『わからない』と『聞く』の間に因果性はない。
わからないことを放置する人は多いし、自分で調べる人だっている。
ググる人もいればwikiる人もいる。
古本屋に行く人もいれば図書館に行く人もいる。
様々なのだ。
例えば、精神科患者の子の付き添いに来た親に対し、医者が『お子さんは何の病気で通院しているかを知ってますか?』と親に訊ねたとする。
その際に、
「えっ? 先生は知らないんですか?」
と聞くような例がこれにあたる。
『わからないときは誰しも聞くものなのだ』、あるいは、『聞くってことはわからないってことだ!』とか親が思い込んでいるわけだよ。
ぼくは、その『親こそが患者』なんじゃないか? と思うんだけどさ、この例をつぶやいた人曰く、定型発達症とかなんとか。
皮肉がすぎるだろw
親がこうだと、その子の症状にいちいち親が感情的に大騒ぎして予後が悪いらしい。
つまり、この質問では、医者は例えば、『入院させるか否か』を判断しているわけだね。
ロジカルに考えるのならば。
また、「ロックフェスの中止に際し、五輪に触れないアーティストのコメントを読むたびに、政治的だなと感じる」みたいなつぶやきも見た。
書いてるご本人様が政治的な考え方をしているのだけれど、それを他人に『投影』しているわけだ。
よくいますでしょ。こういう人。
周りは馬鹿ばっかりだー、とかって自己紹介してる人。
『政治的圧力が、ロックアーティストの五輪批判の発言を封じている』とでもいいたいのでしょうね。
言うまでもないけれど、もちろん政治的な圧力とアーティストが五輪に触れないことに因果性はないよ。そう言い切れる。
なぜなら、日本では言論の自由は憲法で保証されてるから。
そもそも、みんながみんな五輪に興味あるわけ無いじゃん。
だいたいロックと政治って、おおよそ考えられる両極ぐらいにめっちゃ遠くね?
陰謀論ってこうやって出来あがるんだね。
『因果と相関への無理解』と『投影』によって。
みんな最低限ロジカルに物事を考えてるって思うじゃん?
実のところロジカル以前の例は多いのだ。




