脳が因果を判定しないことの応用法(不安を和らげる方法)
『脳は、因果と相関と等価を判定していない』というお話を以前書いたのだけれど、今回はそれを掘りさげてみようと思います。
ここでいう、『因果などを判定するかしないか』は、(意識的に)『評価するしない』とは別です。
脳が無意識下で判定してくれないからこそ、毎回理路を組み立てて、(意識的に因果があるか、などを)評価してあげないといけない。
例えば、ぼくらが大怪我をした場合を想像してみてください。
『大怪我をしたから痛い』んですよね?
世界中の誰が大怪我をしても、大抵は『痛い』。
『大怪我をしたら痛い』が因果性を持つことは、多くの人がご納得していただけるんじゃないでしょうか?
『ああ、そりゃ誰だって、大怪我をしたら痛いよな』と。
逆は、必ずしも成立しません。
『痛いから大怪我をしている』とは言えない。
例えば、『関節技をかけられても痛い』ですよね。
『頭痛』とか『生理痛』とかそういうのを思い浮かべてもらってもいい。
痛いのは大怪我によって、とは限らないわけです。
こっち方向では因果は成立しない。
ところで、脳の中では『大怪我をしているから痛い』と『痛いから大怪我をしている』は区別されていないんじゃないか、とぼくは思っています。
『大怪我をしているから痛い』、だから繰り返さないために未来において大怪我をするような行動を避ける。
『痛いから大怪我をしている』、だから痛みがおさまるまでは怪我がひどくならないようにかばうような行動を取る。
これらは特に意識せずとも、脳が勝手にやってくれます。
そう、考えることなく、脳が勝手にやってくれるんですよ。
もし、脳が因果を正しく判定しているのならば、かばうような行動って意識的にしか生じないんじゃないかなぁ? って思うんです。
『痛いから大怪我をしている』は因果関係じゃないですから。
これは人間だけでなく動物も一緒ですよね。
怪我をしていたら、動物もびっこをひいたりするでしょう?
中には飼い主の怪我を自分の痛みのように感じて、びっこをひくような犬がいたりもする。
脳の中で因果って、判定されていないのでは?
たとえば『幻肢痛』というものがあるじゃないですか?
以前に腕を失った人が、腕のあった位置に痛みを感じるようなものをいいます。
因果を考えるなら、ない場所が痛むはずがない。
やけどをしていると強く思い込んだ部位が実際にやけどのように炎症を起こすとか、因果を考えれば効くはずのない偽薬が効いちゃったりとか。
そういう例はいくらでもあるわけです。
みなさんは、『脳は因果を判定している』と思われますか?
ぼくは、こういう理由で、そうは思わないのです。
で、今日は、脳が因果を判定しないことの応用を考えてみようかなぁと思ってます。
たとえば、『不安なことがあった』としましょう。
通常一般的に説明される機序だと、不安を強く感じていると、ノルアドレナリンが放出されて交感神経が優位になって平滑筋が緊張して抹消の血流が悪くなる。
こんな感じですよね。
僕は医者でも薬剤師でもないので、与太話として聞いてください。
前提として『脳は因果を判定していない』ので、いくつか逆の条件を満たしてやれば、不安って解けるんじゃないの? って思ったんです。
例えば、末梢の血流を良くするとか、あるいは平滑筋の緊張をほぐすとか、副交感神経を優位にするとか。
実際、抗不安作用を持っている薬って、そういう副作用を持ってたりするんです。
副作用によって本来因果がないはずの主作用を引き起こせたとしたら面白いと思いませんか?
例えば、温泉に入ったりさ。
冷え切った手を握ってあげたりさ。
運動をしたりさ。
極端な話、携帯式カイロを持ってるだけでも、不安って和らぐのかも知れない。
今回はそんなお話です。




