感情に理由を求めるのはナンセンス(そんなことより……)
なろうのエッセイでこんなのを見つけた。
『区議会議員の同性愛についての発言「区が滅ぶ」によって、自身の同性愛への嫌悪感に気がついた。
人類の半分が殺人をするより人類の半分が同性愛者になる方が人口が減ることがある。
同性愛が殺人よりも不利益である。私はこの事実に気付いてしまった。同性愛が、どうしよも無い屑に見える。悲しい事に。
同性愛が良い理由が知りたい、この本能を納得する為に』
だいぶ丸めたし、ちょっと悪意を込めたけどこんな感じ。
まだエッセイのランキングの50位以内に入ってると思うので気になる方は探してみてね。
さて、本題。
まずね。
嫌悪感という感情に理由を求めている時点で間違いなんだよな。
・水場で石鹸を踏んだら滑った。(因果)
これは多分多くの人が納得してくれると思う。ぼくの家のお風呂場でやっても滑るし、温泉でやっても滑る。ぼくがやっても滑るし、君がやっても滑る。水場の床が軽石のような材質ぅ? おのれ、リッチマンめ。でも、理屈としては納得できるでしょう?
因果は別の場所に持っていっても通用する理屈だ。だからこそ、例示したときに共感を得られる。
・花瓶を割ったら担任の先生に怒られた。(因果ではない)
これは因果じゃない。
たまたま怒った人が機嫌が悪いだけかもしれないし、その花瓶を後で使う予定があったかもしれない。
繰り返しやって同じ結果が得られることもあるでしょう。
同じように怒られることもあるでしょう。
でも、他の人のところに持っていった場合再現しない。
花瓶を割ったのが、いたずらっ子の太郎君の場合は怒られるけど、真面目な次郎くんの場合は怒られない。
担任の先生が、怒りっぽい花子先生の場合は怒られるけど、優しい百合子先生の場合は怒られない。
そんなことが往々にしてあるのさ。
つまり、再現される場合でも、あくまで同じカップリングにおいて状況が再現してるだけ。
花瓶を割ったことは、あくまで感情を呼び起こすきっかけに過ぎないんだよ。因果じゃなくてさ。
そうであるがゆえに、感情について理由をつけるような例をあげても共感は得られない。
例示として無駄なのだ。
感情は理由で起こっているもんじゃない。記憶のよーなものによって起こっている。
だから、感情に理由を求めるのはナンセンスだし、例として持ってくるのは無駄だ。
そもそも持ってきた例も不適切だしツッコミどころ満載。
感想欄で、多くの人が既に大いにやってるからぼくはあえて指摘しないけどさ。
結局の所、あのエッセイからそういうおかしなところを取り除いていくと、偏見しか残らない。分厚い衣を剥がしてみたら中身も小麦粉だった感じ。
評価に値しない。
そんなことよりね。
以前エッセイでも取り上げたけどさ。
いっとき理不尽によって手折られた『王妃レオノ○ラ』が復活してるんですよ。
復帰おめでとう!
ぼくはこっちを称賛したいね。
純文学ランキングに返り咲いているよ。




