05 流離の旅へ
四人のエルフたちが、残骸となった小屋のあった地面を踏みしめる。夜明けを迎え、朝陽に照らされ始めたそこには、何も残ってはいない。灰や炭と化したものは全て、風の精霊たちが塵に変えて散らしていった。それは僅かに燃やされた森の、新たな養分となるのである。
「……やはり、痕跡は何も無いな。あの半裸の人間も、小娘のものも」
一人のエルフの言葉に、他の三人が同意のうなずきを返す。
「死体すら、残さぬほどに……いや、違うな」
ざり、と剥き出しになった地面を足で弄り、別のエルフが言った。そのエルフは長い耳をひくりと動かし、トントンと地面を何度か蹴る。
「……地を掘って、抜け出した後に埋めた跡。木々だけではなく、森の大地まで穢していたとはな」
エルフの行っていたのは、精霊との交信である。森と共に生きる彼らには、森のあらゆる事を知る精霊たちとの交信が、可能なのだ。エルフは優れた忍者であると同時に、精霊の友でもある。
「足取りは、追えるか?」
問いかけに、エルフの首が横へと振られる。
「今しがた、半裸の男が森を出た。森の南東端から、人間の造った道が邪魔をして、精霊たちにはそれ以上は追えなかったそうだ」
「只人の脚力では無いな。奇妙ないで立ちといい、やはり、あれは忍者か」
「間違いはあるまい。森の中で我らと相対し、なお生きて逃げることが出来るのだから」
「……あやつが忍者であるかどうかは、関係ない。問題は、これより後のことだ」
端正な顔を陰鬱に歪め、一人のエルフが言った。
「我らの忍務は、小娘を取り戻し、長の元へと届けること。忍務を果たすまでは、里に帰ることは許されてはいない」
「人間にしてやられ、手ぶらでおめおめと戻れば、掟により我らは始末されよう。それに」
「何より、我らの矜持があの人間をこの世にのさばらせておくことを、許しはしない」
「……森を離れることになる。慣れ親しんだ、精霊の術も、森の外では弱まることとなる」
「それでも、我らにはまだ、忍びの業がある。奴の技量は、我らよりも下だ。此度のように油断と不意を衝かれなければ、忍務は容易い」
「なれば、行くか」
「他に道は、あるまいよ」
「うむ」
「異存は無い」
四人のエルフはうなずき合い、疾風を伴い駆け出した。各々の表情には、揺るぎない自信と報復に燃える憎悪があった。生きている、と知れた以上、エルフたちは半裸の人間を決して許しはしないだろう。森に火を放つという禁忌を犯した人間に、制裁を加えるために。四人のエルフの猛追が、始まった。
街道からほどほどに離れた草原の中を、一組の男女が歩いていた。男は素裸に下帯と覆面姿、女は長い耳を揺らし起伏豊かな体型を短衣で覆っている。ハンラと、カボスの二人であった。陽は中天に差し掛かり、眼前に広がるのは丈の短い草の生い茂る平原で、遠く二人の行く手には岩肌を剥き出しにした山々が見える。
「ほえ、半裸様」
気を練る際のような、奇妙な呼吸法と一緒にカボスが声をかけてくる。
「何だ」
「その、ボクたち、のんびり歩いていて、いいんですか? 森に火なんか放ったんですし、里の人たち、たぶん追ってきてると思うんですけれど」
短く応じたハンラに、カボスが問うた。朝早くに森を抜け、街道を横切って草原へと入るまで、カボスはハンラに俵のように担ぎ上げられていた。ハンラの脚力は凄まじく、カボスが全力で疾走するよりも遥かに速い。
「……二つ、ある」
「ほえ?」
ぼそり、と呟くように言ったハンラに、カボスが首をこてん、と傾げる。ぴょこり、と長い耳が揺れた。
「……悠々と、歩いていられる、その理由、だ」
「ほえ」
ハンラの声はとても静かだったが、カボスの耳にはよく響く。うなずきを返すカボスを顧みることなく、ハンラは続ける。
「ひとつ。追っ手は、すぐには動けない。森を出れば、精霊の加護は弱まる。街道を横切ってきたのも、土の精霊の追捕の目を眩ます為でもある」
「そういえば、精霊様の気配が、遠いような気がしますね」
きょろきょろと首を巡らせ、カボスが周囲を見回して言う。ハーフエルフではあるが、カボスにも精霊との交信の力は、備わっているようだった。
「足跡にも、細工をしておいた。何かを追跡する、ということは、決して容易なことでは無い。時は、充分に稼げる」
「ほえ、そんなことまで……さすがは、半裸様です!」
きらきらとした尊敬の眼差しで、カボスはハンラを見上げて言った。
「……相手は手練れの忍者だ。油断は出来ないが、な」
慣れぬ種類の視線に、ハンラはそっけなく答える。胸の中に僅かに浮かぶ感情は、それまでの無味乾燥し擦り切れた人生の中には、見当たらないものだった。
「それで、もうひとつは何なんですか?」
問いかけに、ハンラは足を止めカボスに体を向ける。カボスも合わせて立ち止まり、草原の只中でハンラとカボスは向かい合う形を取ることになった。
「ふたつ。俺は、人攫いでは、無い」
「ほえ……?」
短いハンラの言葉に、意味を測りかねたカボスが首を傾げた。構わず、ハンラは覆面の下で口を開く。
「追っ手に捕捉されれば、俺は殺されるだろう。だが、お前は、違う。あの四人のエルフたちは、お前を、連れ戻しにやって来た。この先、ずっと彼らは追ってくるだろう。お前が想像するよりも、執念深くに、だ。だから、俺は……お前に、選ぶ権利を、与えたい。先も知れぬ、逃避行を続けるか、生きて里へ、戻るのか。いずれを選んでも、俺は手出しは、しない。お前の命は、お前のものだから、だ」
ハンラの掠れた、だがしっかりと耳に届いてくる声は、カボスを俯かせる。さらりとした緑色の前髪に遮られ、その表情は見えない。だが、体内の気の見えるハンラには、カボスの中に強い逡巡が見えた。
「迷いの中で、行ける道では無い、ぞ」
だからこそ、告げた。迷いは隙を生み、それに相手は乗じてくるのだ。ずっと、そうした生業をしてきたハンラには、それがよく解っている。
「……っ、ボクは、ボク、はっ」
己の中での葛藤が、決着したのだろう。顔を上げて見つめて来るカボスの目には、強い決意があった。奴隷として里で生きるのか、それとも明日も知れぬ旅路に踏み出すのか。彼女の中で打ち勝った結論を、ハンラは腕組みをして待った。
「ボクは、半裸様について行きます! 半裸様の一党の末席に、ボクを加えて下さいっ!」
高らかな宣言と共に、カボスが自分の短衣の襟に手をかける。うむ、とうなずきかけたハンラは、突然の動きに呆気に取られた。
「こ、これが、ボクの決意ですっ!」
顔を真っ赤にしながら、カボスが短衣を引きむしるように脱ぎ捨てた。ふるん、と柔らかなものが、動きに合わせて震える。下履きひとつのみの、見事な裸身が露わとなった。
「……何の、つもり、だ?」
言いつつ、ハンラは一瞬、カボスの裸の胸へと目を滑らせる。男女のことについて、ハンラは無知である。だが、長い暗殺業の中で、そういう営みを目にすることもあった。かといって、劣情が兆したわけではない。形良く張り出した、陽に灼けていない白く豊かな胸乳。心臓を刺すのであれば、脇の少し下あたりから骨の間を通せば良いか。そのような思考に囚われ、瞬時にそれを追い払うために目を背けたのである。命を奪うことは、もう止めた。ハンラは、己の心にそう言い聞かせた。
「は、半裸様の、一党になるのでしたら、その……ボクも、脱がなきゃいけないんですよね?」
「……別に、そのような決まりは、無い。何をしようと、何を着ようと、お前の自由、だ」
「ほぇ?」
羞恥に頬を染め、胸を両手で隠すように押さえながらカボスが鳴いた。ハンラがひとつ、うなずいて見せる。
「ほぇ? ほぇ?」
その場へしゃがみ込み、投げ捨てた短衣を拾い上げたカボスが問いかけるように鳴く。再びハンラはうなずいて、カボスに背を向けた。ごそごそと、慌てた衣擦れの音を耳にしつつ、ハンラは遠く山の頂に目を向ける。しばらくして振り返れば、襟留めを失い破れた短衣を恥ずかしそうに合わせてもじもじとしているカボスの姿が目に映った。長い耳の先まで見事に真っ赤に染めて、目じりには涙が少し浮かんでいるようだった。
「……これも、羽織る、か?」
下帯の中から、ハンラは血で汚れたマントを取り出した。脱出のどさくさに紛れ、収納の中へ仕舞ったそれはカボスの身に付けていたフード付きのマントである。
「ほえ……ありがとう、ございます。けれど、どこから出してるんですか、もう」
受け取ったカボスが、僅かな躊躇いの後にマントを着てフードを被る。つん、と微かな血の臭いが、辺りに漂い始めた。
「俺は、気にしない、が……嫌ならば、自分でも覚えること、だ。収納の術は、初歩のものならば、習得は容易い」
言いながら、ハンラは続いて下帯の中から焼いたピピ豆をふたつ、取り出した。
「ほ、ほえ? 半裸様、それ、もしかして……」
「昼飯、だ。お前も自分で歩くからには、腹ごしらえは必要だろう。少し、余計な時間を、喰った。歩きながら、食べろ」
差し出された豆と、ハンラの股間へ交互に胡乱な視線を向けていたカボスであったが、やがて諦めたように豆を受け取った。
「な、慣れれば、いいんですよね。別に、変な臭いとか、しませんし……」
「空間が独立している。問題は無い、ぞ」
「ほえ、出所気にしなければ、味はおいひいれす」
豆を齧りつつ、フードの下でカボスが微笑む。うなずいて、ハンラも豆に一口、かぶりついた。森で食べていたものと、同じ豆である。しかしそれは、何故かほんの少し、違うもののようにハンラには感じられた。
「……確かに、旨い、な」
「はひっ!」
手のひら大の焼き豆を齧りつつ、二人は歩き出す。
「それで、どこへ向かっているんです、半裸様?」
問いかけに、ハンラは遠い山の中腹あたりを指差した。
「あちらの、山だ。ドワーフが、集落を作っている」
「ほえ、ドワーフですか! 確かに、ドワーフの人たちに混じっていれば、里の人たちも手出しはしにくいかもですね!」
感心しきりのカボスに、ハンラは首を横へ振る。
「集落へ、踏み入れるつもりは、無い。彼らの領域の中で、小屋を作り密やかに、暮らす」
「ほえ? 集落があるなら、そっちへ行ったほうが便利なのではないですか? もしかして……ボクがいるから、ドワーフの人たちとは、仲良くできないとか、ですか? ボク、出来るだけ頑張って、仲良くしてみせますけれど」
首を傾げるカボスの横で、ハンラは大きく息を吐いた。
「……俺が、そうしたいから、だ」
密かでしめやかな、悠々自適の自給自足の生活。ハンラが目指すのは、ただそれだけだった。
「お前が、そうしたいのであれば、集落へ行っても、構わん。ハーフならば、エルフでも、受け容れるやも知れん、ぞ」
「ほえ、ボクは、半裸様にずっと付いて行きます! 何があろうとも、ずっと!」
「そう、か……」
眩しいくらいの笑顔で言うカボスに、ハンラは呟きを漏らす。覆面の下で、口の端が緩やかに曲がる。己に起きている微かな変化に、ハンラは気づくことなく行く手を見据える。遠く山々の頂を越えて、空には雲一つない青空が広がっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
これで、この物語は一区切りとなります。続きは出来次第、また上げていければと思います。どうぞよろしくお願いします。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。では。