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ここのか!

作者: 黒木猫人

 学校の下駄箱を開けると、中に二つ折りにされた紙切れが入っていた。

「何だこれ?」

 ラヴレターにしては色気の欠片もない、二つ折りの状態で縦6センチ横9センチの小さな紙切れ。

 数秒悩んだ後に、辺りの登校してきた学生達を見回し、俺は下駄箱に顔を突っ込むようして紙切れをそっと開く。

 それは一行だけ、奇妙な雰囲気を持って書かれていた。


『9日を忘れるな』


 ……は?

「何のこっちゃ」

 いや、別にラヴレターなんて期待してなかったよ、俺は? ……本当だってば。

 だけれども、これは一体何? 新手の嫌がらせ?

「今月は5月……5月の9日……? う〜ん、5月9日……5月9日

「下駄箱に顔なんか突っ込んで何唸ってんだ、れき! キモイぞ!」

「あ痛ッ!!?」

 後頭部を思いっきり叩かれて、死ぬかと思った。いや、比喩でも何でもなく。

 振り返ると、そこにスポーツバッグを肩に下げた茶髪(地毛)でベリーショートヘアーの少女が立っていた。

 彼女は顔の横で両手を開くと、

「おっはー♪」

 殺してやろうかと思った。

「おっはー、じゃねぇよバカ! 古いんだよ! ていうか、人の後頭部を殴んなキックボクシング部! お前の拳は凶器なの! 俺を殺す気か!?」

「失礼な! 私はキックボクシング部じゃない! ムエタイ部だ!」

「知らねぇよ! つーか、どっちでもいいわそんなもん!」

「ごめん……」

 すると、急にしゅんとなる彼女。

 ……あれ? 今日はやけに素直――

「今度から拳じゃなくて、蹴りにするね」

 ――じゃねぇぇぇ!!!

「そんなことしたら死ぬわ、マジで!」

 朝っぱらから早々に強烈な後頭部打撃を喰らわしてくれたコイツは『高瀬たかせよもぎ』という。

 不服ながら俺の幼馴染みで、しかも家が隣で、とどめに家族ぐるみで仲が良いという、「コレ何てギャルゲ!?」と思わず空に向かって叫びたくなるような恐怖の3連コンボが見事に決まって常時フィーバー状態である。うん、自分でも何を言ってるのかよく分からない。

「で、よもぎはキックボクシング部――」

「ムエタイ部」

 めきり、と俺のすぐ横で音がした。

 見ると、よもぎの拳があら不思議、俺の下駄箱の蓋に深々と突き刺さっているではあ〜りませんか。ちなみに下駄箱の蓋は鉄製なんですが。

「……ムエタイ部の朝練が終わったところでございますか?」

「うん、そうだよ」

 よもぎとは去年、中学三年生の頃まで登下校を共にしていたが、高校に入り、彼女がキックボクシ――ムエタイ部に所属するようになってからは、それも全くなくなった。

 だから顔を合わすのは大抵教室か、今のように2年生玄関である。

 ふと、よもぎが俺の手元に目をやった。

「なぁ、歴。その紙切れ何?」

「ああ、これか? ラヴレター」

「……」

 ずばりむべきぼぐわっしゅわぁ! とこの世のものとは思えない音がして、気付くとよもぎの掌にグレーというかシルバーというか、ピンポン玉くらいの大きさの球体が乗っかっていた。

……あれ? 俺の下駄箱の蓋がない。

「嘘です冗談ですごめんなさい調子に乗ってどうも申し訳ございませんでしたっ!」

「で、その紙切れは何?」

「……何て言ったらいいんだろうね、これ」

 仕方なくよもぎに紙切れを見せる。書いてある文字を眺めて、「ふーん」と彼女は微妙な返事をし、

「今月の9日って何かあったっけ?」

 ちなみに今日が5月4日の月曜日だから、9日は今週の土曜日である。

 しかしながら、5月9日……思い当たる節がない。

「……ひょっとすると、今月の9日とは限らないんじゃないか?」

「え」

 何故か目を丸くするよもぎ。

「考えてみれば、何月なのかは書いてない」

「け、けど、このタイミングで下駄箱に入ってたんだから、5月9日だろ」

「いや、それだとどうにも安直過ぎる」

 う〜ん、何かの暗号なのだろうか?




「……ひょっとすると今月の9日とは限らないんじゃないか?」

「え」

 順調だったはずの私――高瀬よもぎの作戦は、『北村きたむら歴』の一言によって一転、窮地に追い込まれてしまった。

「考えてみれば、何月なのかは書いてない」

 ちょっ……何深読みしてんの!? 5月でいいんだよ! 5月の9日で合ってるから!

「け、けど、このタイミングで下駄箱に入ってたんだから、5月9日だろ」と私は半ば強引に話の方向修正を図ろうとするが、歴は顎を擦りつつ、

「いや、それだとどうにも安直過ぎる」

 ああ! こんなことなら、ちゃんと5月9日と書いておくべきだった!

 私は心の中で深く後悔する。

 歴の下駄箱に入れたのは、何てことはない、5月9日が私の誕生日であると思い出してもらう為のよくあるメッセージだった。

 人付き合いに不器用な私は、初めて会った時から歴のことが好きであるのにも関わらず、男勝りな性格もあって、彼の前に立つと素直になれず、殴ったり、殴ったり、半殺しにしたりで上手く想いを伝えられずにいた。

 なので昨年の高校一年生時はそんな状況を打開すべく、ムエタイ部に入って距離を置くことで歴からのアプローチ待ちを狙ったのだが、放った弓は見事に的を外れて、どこか空の彼方へと飛んでいった。

 何とかならないものかと私が思案している内に、歴の方は一年かけてどんどんと格好良くなっていった。それが身内贔屓でない証拠に、最近は友人からの歴を紹介してくれという頼み事が絶えない。

 ぶっちゃけた話、私も我慢の限界だ。歴の格好良さにもはや理性が耐え切れない。いや、マジで。

 そして、そんな時にチャンスは舞い込んで来た。今週の週末、両親が旅行に出掛けるというのである。

「ごめんね、帰って来たら誕生日のお祝いするから」と両親は申し訳なさそうにしていたが、私としてはむしろ旅行に行ってくれてありがとうと言いたい。

 思い付いた作戦は簡単だ。私の誕生日を歴に匂わせて、家に呼び、露出度の高い服装で彼を出迎え、ムードを作り上げた所で告白、あわよくばそのまま私の部屋で……むふふふふ♪

 ――という寸法のはずであった。はずであったのだが。

「試しに『9日を忘れるな』を一度、全部ひらがなに戻してみるか。並べ替えると何か別の文章になるかもしれない」

 何故か事態はクラス全体を巻き込んでのものへと発展しつつあった。

 2年2組の皆が皆、歴の周りに集まって、やたら真剣な顔で私の書いた何の種も仕掛けもないメッセージを解読しようと試行錯誤している。

「違うな……それっぽい文章にはならない……」

 眉根に皺を寄せ、口元を押さえる歴。その周りでは、クラスメイト達が男子女子問わず口々にあーだこーだと激論を交わしている。

 ……ごめんね、皆。どんだけ話し合っても、私の誕生日以外に答え出ないんだ、それ。

 私が教室の自分の席からクラスの動向を眺めていると、「あ、ひょっとして!」と一人の女子が声を上げた。

 見れば、その女子はなんと……我が親友『林原歩美はやしはら あゆみ』ではないか!

「……よし、よくやった歩美っ」

 思わず小声でガッツポーズ。

 さすがジャイアン的に言う心の友。5月9日が私の誕生日であることを思い出してくれたか!

 後は横目でちらちらと歴に視線を送り、思わせぶりな態度をとれば万事OK! ろすとばーじんは近いぞ私!

「むふふふふ……」

 い、いかん、笑いが止まらない。駄目だ、この場は耐えなければ。

「うん、やっぱりそうだ。北村君、5月9日は――」

 せめて歩美が答えを言うまで――

「世界が破滅する日だよ!」


 どんがらがっしゃーん!!!


 自分でもどうやったか分からないくらいに、壮大に転けた。

 机と椅子が吹っ飛び、床に後頭部を打ちつける。

 こちらを見た歴が、怪訝そうな顔をした。

「何やってんだ、よもぎ?」

「い、いや、別に……」

 あ、歩美ぃぃぃ! あんた私の誕生日知ってんでしょうがぁぁぁ!

「ふふっ、よもぎちゃんたら、変なの」

 無邪気に微笑む歩美……って、あんた思いっきり私の誕生日忘れてんじゃん!

 何だかもう、泣きたくなってきた。

 そんな私を尻目に、暦は歩美に尋ねる。

「で、林原。世界が破滅するってどういうことだ?」

「うん、一月くらい前だったかな? テレビで『7つの予言』っていう特番をやっててね。そこで今年の5月9日に世界が滅びるっていう予言が出てきたの。予言されてる日がやけに近かったから、凄く印象に残ってるよ」

「あ、それ、俺も見た」

 クラスメイトの男子の一人が手を挙げる。

「ヒトラーの予言が何だとか、モナリザの背景が云々とかいうやつだろ?」

「そう、それ!」

 仲間見っけと言わんばかりに、ぱぁっと花のような笑顔を咲かせる歩美。あ、何人かの男子が見惚れてる。歴は……良かった、特に関心無しか。

 林原歩美は、私とは正反対の、素直で可愛らしい女の子である。黒いセミロングの髪はいつも艶々で、同性の私が見て驚く程に美しい。校内での人気も高く、私には男子からの歩美を紹介してくれという頼み事が絶えない。

 ……ていうか、私の周り、そんな奴等ばっかだな。

「ふ〜む、世界の破滅する日ねぇ……」

 歴は頬杖を付き、トントンと机を人差し指で叩く。

 歩美が「あ、でも」と両手を前にして振った。

「たまたまそういう番組を見たってだけで、そのメッセージとは何の関係もないかもしれないよ?」

「いや、参考になったよ。ありがとうな、林原」

 にこっと笑い掛ける歴。歩美はほんのりと頬を染める。

「えへへ……照れるな」

 ズキリと胸の奥が疼いた。

 本当、何なんだろうな、私って。




 放課後、ムエタイ部の練習が終わり、帰り道につこうとしていると、

「よもぎ」

 後ろから声を掛けられた。

 振り向くと、そこにいたのは歴。夕焼けで赤く染まった中庭を駆けてくる。

「部活、今終わったところか?」

「うん、そうだけど」

「一緒に帰らないか?」

「え」

 突然の誘いにドキッとした。

歴と一緒に帰るのは、そう珍しいことではない。しかしながら、言い出すのはいつも私の方からで、歴の方から誘われるなんて、ここ数年、一度たりともなかった。

「……い、いいけど」

 言いながらそっぽを向いてしまったのは、演技でも何でもなく、純粋に照れてしまったからだ。少し自己嫌悪。

 不思議なことに、歴に誘われたというだけで、帰り道はいつもと全く違って見えた。つくづく恋って凄いと思う。

「るんたった、るんたった♪」

「おい、よもぎ。何でスキップなんだ?」

「うるせー、ばっきゃろー!」

「テンション高ぇなオイ……」

 朝に感じた胸の疼きはどこへやら、今はとにかく嬉しくて仕方がない。

 見よ、この華麗なスキップ捌き(?)を!

しかしながら、疑問が一つ。部活に入っているわけでもなし、歴はどうしてこんな遅くまで学校に残っていたのだろう?

 ……はっ! ま、まさか!

 歴の奴、5月9日が私の誕生日だって気付いた!?




「ごめん、よもぎ。すぐに5月9日がお前の誕生日だって気付いてやれなくて……」

「お、遅いんだよ、バカ……」

「よもぎ、あのさ、俺――」

「待って、歴。その言葉は……9日に聞かせて欲しい」

「嫌だ」

「え?」

「俺はよもぎに、今聞いて欲しいんだ」

「れ、歴……」

「俺の家、今日、両親共いないんだ。良かったら……来ないか?」

「……うん」




 そして二人はベッドの上で指を絡め合い――

「ぐへへへへへ♪」

「ちょっ……よもぎ!? 鼻血出てるぞ、鼻血!」

「はっ、やっぱり駄目だ歴! 私は今日、危険な日なんだ!」

「何の話!?」

 我に返ると、私達はまだ帰り道の途中であった。何だ、残念。

 しかし、あながち妄想というわけではないかもしれない。歴の出方によっては、実現する可能性も――

「よもぎ」

「は、はい!」

 ……き、キタ――ッ!!!

 慌てて振り返ると、歴が真剣な瞳で私を見つめていた。

 今更ながら、心臓がフルスロットルで回り始める。ばっくんばっくんと音が聞こえた。いかん、私、心臓が破裂して死ぬかも。

「今朝、俺の下駄箱に入ってた『9日を忘れるな』って紙切れの話なんだけどさ――」

「う、うん」

「お前、俺の下駄箱に近づいた奴の姿、見なかったか?」

 心臓が急激に収縮してゆくのが分かった。

「……どうして?」

「ほら、朝のホームルーム前に、林原が5月9日は世界が破滅する日だとかどうとか言ってたろ。紙切れに書いてあったことって、やっぱりそのことが関係してると思うんだ。で、何故か俺だけにメッセージが届いた。……これってちょっとしたミステリーじゃね? 俺、何だか楽しくなってきちゃってさ。だから、紙切れを入れた奴を見つけ出そうと思って」

 ……歴。あの紙切れは、ミステリーなんて大層なものじゃないんだよ。

「そこで俺、考えたんだけど、下駄箱に紙切れが入ってた以上、誰かが俺の下駄箱を開けたはず。で、もしかしたら、その瞬間を目撃した人がいるかもしれない。捜査の基本は聞き込みだからな。そんなわけで、昨日の放課後遅くまで残っていて、かつ朝早く学校に来ている連中――部活組に話を聞いて回ってたんだが、おかげで気付いたら部活が終わる時間になってた。いやはや、時が経つのは早いね」

 後ろ頭を掻きながら笑う歴。

「……歴はさ」

 気付けば、私は口を開いていた。

「きっと毎日が、楽しくて仕方がないんだろうね」

「よもぎ?」

「教室の席に座ってるだけで、自然と皆寄ってくる。一声掛ければ、誰とでも友達になれる。その気になれば、一日で彼女だって作ることが出来るんだろうさ」

 口が止まらない。

「それに比べて私は――」

 道端のコンクリートの隙間に咲く、小さな、黄色い花が目に入る。

 歴にとっての私は所詮――


 ――道端の、タンポポ。


「お、おい、よもぎ……」

 顔を上げると、目の前に歴の手があった。

 私はどうしてもそれに触れられたくなくて、無我夢中になってしまったんだと思う。

 歴の手を跳ね退けようとした私は、勢い余って手の甲で歴の右頬を強く張っていた。

「あ……」

 数秒の沈黙が、私にとっては悠久の刻に感じられた。

 歴が右頬を押さえ、驚きと困惑の入り混じった瞳を私に向ける。

 この時、私は「ごめん」と一言謝っていれば良かったのかもしれない。

 けれど、感情の昂りが抑えられずに、

「歴の……バカッ!!!」

 腹の底から怒鳴っていた。バカは私だ、と思った。

 残された選択肢は、その場から逃げ出すことだけ。

「よもぎ!」

 背中に掛かる歴の声に、どうしようもなく胸が痛かった。




 あれから大分時間が経っているはずなのに、よもぎに叩かれた頬はまだ熱かった。

 ベッドの上で仰向けになって見上げる自室の天井は、今日に限って何だか優しい。

 ……そういえば、まだ制服から着替えてない。

「ひとまず着替えるか……」

 俺はベッドから起き上がり、学ランを脱いで、部屋の隅のハンガーに引っ掛ける。

 夕飯は……食べる気にはなれないな。

 こんな時に運が良いのか悪いのか、今日は両親共に仕事で帰りが遅くなると、携帯にメールが届いていた。

 時計を見ると、午後の10時だった。帰って来たのが6時くらいだったから、かれこれ4時間近く天井を見つめていたということになる。

 私服に着替え終わったところで、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だ?」

 自室から出て、階段を降りて、玄関の鍵を開ける。

 立っていたのは、隣人であるよもぎのお母さんだった。

「夜遅くにごめんなさいね」

「あっ、いえ。どうかしたんですか?」

「それがね……」

 お母さんの話によると、午後7時頃によもぎが一旦外に出掛けて、すぐにまた両手一杯のビニール袋を提げて帰って来たらしいのだが、それ以降、夕飯も食べずに自室に引き籠っているのだという。

「よもぎの部屋には鍵が掛かってて、外から呼んでも放って置いてくれって……私、何だか心配になっちゃって……」

 確実に俺が原因だろう。

「……分かりました。俺が窓側から声を掛けてみます」

「お願いね、歴くん」

 俺は再び、2階の自室に戻った。

 部屋の西側にあるベッドの脇の窓を開ける。間隔はおよそ80センチ。目の前に、よもぎの部屋の窓があった。

 未だに毎日のごとく窓越しに会話をしている。幼馴染み同士のお約束というか、「コレ何てギャルゲ!?」と思わず叫びたくなる要因の一つである。

「おい、よもぎ!」

 窓枠から身を乗り出して、よもぎの部屋の窓をノックする。返事はない。

「聞こえてるか! お母さんが心配してんぞ! 返事くらいしろ!」

 それから間を空けて、何度か挑戦するが、いずれも返事はない。

「駄目か……」

 どうしたものかとベッドの上で胡坐を掻いていると、

「れ〜き〜」

 唐突に若葉色のカーテンが開き、よもぎが顔を覗かせた。ガラリと窓を開け、じーっと俺を睨みつける。

「よ、よもぎ」

 しまった。出て来てくれたはいいが、喧嘩別れみたいな状態だったのをすっかり忘れてた。

「あー……えっと、その……」

 何も言葉が思いつかない。

 と、よもぎが窓の向こうでおもむろに立ちあがった。何をするのかと思いきや、

「とぅっ!」

 いきなり俺の部屋目がけてダイブした。

「ちょっ……よもぎぃぃぃ!?」

飛び込んで来たよもぎは俺を巻き込み、ベッドから転がり落ちる。

「痛ってぇ……!」

 おかげで俺は床に後頭部強打、って……うわっ!?

 次の瞬間、俺の頭は痛みを忘れる程にフリーズした。

 仰向けになった俺の胸に、よもぎが顔を埋めていた。密着した服越しに、よもぎの温もりと柔らかさが伝わってくる。

「ん〜」

 顔を上げたよもぎの頬は赤く染まって、彼女からほのかに漂う匂いが鼻をくすぐる――

「って、酒臭ッ!!!」

 あまりのキツさに我に返る。ほのかでも何でもない。

よもぎが俺の上でからからと笑った。

「うはは、歴が二人いるぅ〜♪ ねぇ、片方貰っていい〜?」

「ま、まさか……」

 よもぎを押し退け、窓際に向かう。

「あ〜ん、逃げちゃらめぇ〜」

 腰に纏わりつくよもぎを意に介さず、窓越しに彼女の部屋の中を覗く。そこには、予想通りの光景が広がっていた。

「や、やっぱし……!」

 部屋に散乱した無数のビール缶、ビール缶、ビール缶。

 間違いない――

「分身歴も一緒におしゃけ飲もぉ〜?」

 ――こいつ、ヤケ酒だ!

「よもぎ! お前、一体どんだけ飲んで――」

「よっこらしょ〜」

 千鳥足で立ち上がったよもぎが、自らの服の裾を広げると、盛大な音を立てて、ビール缶が山のように転がり出る。

「どこに隠してたんだそんな量!? お前の服は四次元ポケットか!」

「これぞぉ、女体の神秘ぃ〜!」

 よもぎは再び床に座り込み、俺の部屋に散らばったビール缶を一つ手に取る。プルトップを引っ張って開けると、ぐいっと躊躇なく飲み始めた。

「って、何やってんだよ、よもぎ!」

「うるしゃいっ!」

 思いっきり頭を叩かれて、俺はその場でのた打ち回る。ムエタイ部の強烈な一撃だ。

 何とか起き上がった時には、既によもぎは一缶飲み終えていて、新しい缶のプルトップに指を掛けていた。

「今日は徹底的に飲むんら! そうすれば、明日には全部忘れられるんら!」

 顔の赤さは増し、呂律はどんどん回らなくなってゆく。

「おい! もう、それ以上は――」

「歴に私の何が分かるんらッ!!!」

 額によもぎの投げた空き缶が当たる。

「今まで何も気付からかった癖に! こういう時らけ優しくすんなッ!」

 カチンときた。

このヤロウ……こっちが黙って下手に出てりゃあ、調子に乗りやがって!

「よもぎ、お前はいつもそうだよな……! いっつも思わせぶりで、他人任せ! 仕方ないから、こっちから手を差し伸べてみりゃあ、今度はこういう時だけ優しくすんなだと? 何様だお前ッ!」

「ほら、やっぱり歴はらんにも分かってない! それは歴みたいな勝ち組の理屈ら! 歴は何でもストレートにこらせるからそんなことが言えるんら! 私みたいなのは思わせぶりでも何でもしなきゃ生きていけないんら!」

「お前のそういうのが気に入らないんだよ! 勝手に決め付けんな! 俺が勝ち組だと? 勝ち組だったらお前みたいな酔っ払いの相手なんてするかバカ!」

「ふん、歴はそうやって誰の相手でもするんらな! どうせ女なんて皆同じだと思ってるんらろ? だったら、私なんかじゃらく可愛い歩美の相手でもしてればいいんら!」

「何でそこで林原が出てくるんだよ!」

「やっぱり気付いてないんら。端から見ると、歴と歩美は――」

「ふざけんなッ!!!」

 それだけは許せなかった。よもぎがそう思っていることよりも、よもぎにそう思われている自分が許せなかった。

「俺はッ――」

 見知らぬ土地に引っ越して来たばかりで、まだ友達のいなかった俺に、手を差し伸べてくれたあの日から。


「お前以外の女なんて、アウトオブ眼中なんだよッ!!!」


 よもぎは目を丸くする。

「う、嘘ら……!」

「嘘でこんな恥ずかしい台詞が言えるかよ」

「嘘に決まってるら……そう、きっと歴は酔ってるんら! でなきゃ歴が私のことを好きなはずがらい!」

「俺はビールを一口たりとも飲んでない。シラフだ」

「あ、分かった! これは夢なんら! 何ら、また私の妄想――」

「夢じゃない!」

 俺は両手でよもぎの頭を押さえ、こちらを見させ、

「俺はここにいる」

 俺とよもぎはしばらく、真正面から見つめ合う。

 随分長い付き合いだが、こんなに近くから彼女を見たことはなかった。

 よもぎの女らしく長い睫毛が、瞬きをして何度か上下に動く。

 やがて、彼女は言った。

「歴……手、離せ」

 俺は少し迷って、それでも手を離す。

 次の瞬間、よもぎはバネ仕掛けのように俺の部屋のドアを開け放って、廊下へと飛び出した。

「よもぎ!」

 慌てて追い駆ける俺。放って置くとよもぎがどこかに行ってしまいそうで、追い駆けずにはいられなかった。

 一階に駆け降りるが、彼女の姿を見失う。リビングの明かりを付け、和室を見、玄関は……鍵が閉まってる。

 と、洗面室の方から水音がした。

 洗面室に隣接する、風呂場の明かりが付いていた。

 駆け付けると、よもぎは風呂場の水道から、プラスチック製の風呂桶に水を注いでいた。

「よもぎ……?」

「……」

 風呂桶が満杯になったところで水道を止め、彼女はそれを持って立ち上がると――


 ざっぱぁーん!


 ――頭から、水を被った。

「なっ……!?」

 ぽたぽたと全身から水滴を落とし、よもぎは言葉を発する。

「これで……忘れない。酔って、歴の言葉を忘れたりしない。だってやっと……」

 彼女は背を向けたまま、

「……やっと、私の願いが叶ったんだから」

「よもぎ……」

 何だろう。今まで抱いたことのない気持ちで、胸が満たされてゆくのを感じた。

「歴……」

「え」

 不意に、よもぎが身体を預けてくる。

 改めて知る小さな身体。互いの気持ちが通じ合った今となっては、どうしても意識せずにはいられない。心臓がバクバク言っている。

「よ、よもぎ。あんまり引っ付かれると、俺……」

 背中に手を回し、そっと抱き締める。ところが、いつまで経っても何の反応も返って来ない。

「よもぎ?」

 おかしいな、と思っていると、風呂場の鏡が目に入る。

 ……ああ、何だ。

「寝ちゃったのか……」

 安心したような、少し残念なような。

 俺の肩に顎を乗せた彼女は、小さな寝息を立て、幸せそうに眠っていた。




 目覚めると、そこは私の部屋で、私はベッドの上に寝かされていた。

「……あれ?」

 私はいつ寝ちゃったんだっけ? 帰り道で歴を叩いて、家で泣き腫らして、ビールを買いに行って、部屋でひたすら飲んで。そう、途中で歴に呼ばれて、彼の部屋にダイブしたんだった。……うん、覚えてる。

 それから――

「ああ、よもぎ。起きたのか」

 あまりの驚きに、身体が飛び跳ねた。見ると、私の勉強机の前に腰掛け、シャーペン片手に作業している。

「な、何で……」

「あっ、悪い。机借りてるぞ。お前が起きるのを待つついでに、宿題を済ませちゃおうと思って。ほら、今日、古典の授業でノート提出だろ?」

「そういうことじゃなくて! 何で歴が私の部屋にいるんだよ!? ま、まさか、私が寝ている隙にあんなことやこんなことを……!」

 気付けば、着てる服もいつの間にかパジャマだし!

「勝手に妄想を膨らますなっつーの! 俺は今朝方、お前の両親に許可を貰った上で、ここに来たの! パジャマは知らん! そ、それに……初めてはその……ちゃんと両者の合意の上でだな……」

 人差し指で頬を掻き、ごにょごにょと口籠る歴。

「ごめん、歴。最後の方がよく聞き取れなかったんだけど」

「……な、何でもねぇよ! とにかく、昨日散々ビールを飲んでたから、俺なりに心配になったの!」

 あっ、歴、心配してくれたんだ……。

 胸が熱くなる。改めて、やっぱり私は歴のことが好きなんだなぁ、と実感した。

 ……昨日のこと、謝らなくちゃ。

「歴、昨日はその……叩いてごめん。決してそういうつもりじゃなくて……」

 歴は一度、何のことか分からないというような顔をしてから、

「ああ、昨日の帰り道のことか。……もういいって、別に。あれは俺の方も悪かったしな」

「歴……」

「それに――」

 歴は恥ずかしげにそっぽを向いて、言った。

「今更、そういうことを気にする仲でもないだろ」

 ……うん、そうだよね、歴。

「幼馴染み、だもんねっ!」

「ん?」

 奇妙な間が空いた。歴が何故か首を傾げている。

 ……あれ? 私、何かマズイこと言った?

「よもぎ。俺達ってさ」

「幼馴染みだよね?」

「うん、そりゃまぁそうなんだけど」

「え? 何? 何か間違ってる?」

「よもぎ」

「ん?」

「ダイブ」

「うん」

「アウトオブ眼中」

「……」

「風呂場」

「何それ?」

「忘れてんのかぁぁぁい!!!」

 スコーン! とビールの空き缶が私の額に直撃した。

「な、何すんだ歴!? 痛いだろ!」

「うっさいバカ! いっその事死ね! 死んでしまえ!」

 歴は手当たり次第に私の部屋の物を掴むと、とにかく私に投げ付けてくる。

「ちょっ……歴、それは広辞苑! ノートパソコンはヤバいから! ぎゃー、私の下着はらめぇぇぇ!」

 地味なんです! 地味な白色しか持ってないんです!

 やがて、投げる物がなくなったところで、歴は古典のノートを鞄に押し込む。

「もう知らん! 俺は先に学校行く!」

 ぷんすか怒りながら部屋のドアを蹴り開ける……が、そこで足を止める。

「……言い忘れてけど」

 緊急避難していた毛布の中から様子を伺っていた私は、亀のように顔を出す。

 歴は私に、びしっと人差し指を向けた。

「5月9日、お前の誕生日! たとえ世界が滅びようともお前ん家来るから、覚悟しとけ!」

 バタン! とドアが閉じる。

 それから最初に私が考えたことはというと。

「……勝負下着、買いに行って来なくちゃ」

突発ネタは恐ろしい。何が飛び出すか分からない。その結果がコレ。妄想癖を持つヒロインに萌えられるか否かが勝負です。

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