貴方がどうか、無事でありますように
「いいのか、本当に俺で。」
「うん、こんなこと頼めるのダニエルくらいだもの…私の方こそごめんね。」
そう言って差し出した手をダニエルは優しく包み込んでくれた。
働き者で力持ちの彼のしっかりとした掌は安心感を与えてくれる。
今にも逃げ出したい気持ちは少しばかりの落ち着きを見せ、私にしっかりしろとエールを送って来た。
(アルを忘れる第一歩の肝心な日だもの…)
水色のドレスがふんわりと揺れた。
馬車から降り、歩き出した私たちは人並みに乗り、会場へと足を踏み入れる。
今日から私も社交界の人間として歩んでいかねばならない。
夜会服に身を包んだ紳士淑女はどこまでも幻想的で華やかで想像以上の世界が広がっている。
ふと横を見やればいつもはおろしている黒い髪をオールバックに纏めたダニエルがいる。
整った顔立ちの彼に若い女性はもちろん母達と近い年齢の女性もちらちらと彼を見ていた。
アルフォンスを儚さのある美青年とするならば、ダニエルは男らしさ溢れるハンサムという分類だろう。
どちらも女性ウケがいいのは間違いなかったが、二人とも夜会で特定の女性をエスコートしたことはない。
それが今回はデビューしたての少女を連れているのだから多少騒つくのは母達の予想の範囲内であり、エミリアもまた事前に聞かされていた話である。
ダニエルとエミリアはパーティが始まるまでにいくらか挨拶回りを済ませ、その時が来るのを待っていた。
「いいか、エミリア。上は見なくていい、俺だけを見てろ。」
初めこそダニエルの言葉が理解出来なかったエミリアだが、その答えはすぐにわかった。
(アルがいるのね…)
上、というのは二階席、三階席の貴賓席のことだった。
ドクドクと脈打つ心臓を自覚しながらも私は上を見てしまった。
ちらりと見えたアルフォンスは姫君の手を取り、エスコートをしていた。
話に聞くのと目の当たりにするのはやはり違う。
正装で決めたアルフォンスを初めて見るのがこんな形だとは思わなかった。
なんでこんなことになったのだろう。
姫様と寄り添い話すアルフォンスは優しく微笑んでいる。
あそこは確かに私の居場所だったのに。
(…好き、)
彼への想いが溢れた瞬間に目頭は熱くなりせっかく施した化粧に支障をきたす寸前でさっと俯いた。
父から聞かされてわかってはいたはずなのに、今初めて本当の意味で理解した気がした。
(忘れなきゃ、アルとは何の関係もない…私は、アルのなんでもない…)
キュッとダニエルの腕を掴むとダニエルは反対の手で頭をぽんと撫でてくれた。
さり気なく上の席が見えないよう遮ってくれているところも流石と言える。
「泣くなよ?」
「大丈夫よ、子供じゃないんだから。」
「はいはい。」
頭を撫でられておいて子供じゃないなんて私はやっぱりダニエルに甘えている。
いや、甘えられるからこそ今日のエスコートを頼んだのかもしれない。
ダニエルは頭から退けた手を滑らせそのまま私の髪に伸ばした。
ハーフアップにされた私の髪をひとつ掬ってキスを落とす。不意打ちのことに私は出かけていた涙も引っ込み目を丸くした。
「じゃあ、大人なお姫様。一曲踊っていただけますか?」
ダニエルがそう言ってニヤリといつものように笑ったかと思うとホール内に曲が流れ出した。
悪戯っ子のように私の手を取って駆け出し、ダンスの輪に連れ込まれた私は慌てて周りとぶつからないようにステップを確認する。
曲を把握して落ち着いて踊れるようになった頃にやっと私はダニエルに顔を向けた。
「もう!!」
「楽しい思い出になったろう?エミリアはやっぱ笑ってなきゃな。」
「そんなこと言ったって誤魔化されやしないわよ?ダニエルじゃなかったら足を踏んづけてやる所なんだから。」
「そうかそうか、それは頼もしいことだな。」
ククッと笑う彼につられて私も呆れたように微笑む。
これが彼なりの優しさだということは聞かずともわかっていた。
気をしっかり持たねば。
私が落ち込んでいてはいけないということは父にも母にも言われたことだ。
アルのこと忘れる、アルのことは忘れる、と私は心の中で何度も念じた。
「その髪飾り、よく似合っているよ。」
ふいにダニエルが言う。
まだ曲は中盤だというのに彼は余裕綽々としている。
それに比べて私はダメだ。
先ほどダニエルにぷつんと切られた緊張の糸のせいでもう疲れが出始めていた。
「ありがとう。まさかダニエルがプレゼントしてくれるとは思わなかったけれど。」
「エスコートする相手に何も贈らないなんて男がすたるだろ?」
真珠のあしらわれた花をモチーフとしたヘッドアクセは少し大ぶりではあるが清楚なイメージのエミリアにはとても良く似合っていた。
「別に気を使わなくたって良かったのに…」
「冗談だよ、そんなんじゃないさ。エミリアの優しい金色の髪に真珠は良く映えると思っていたからな、大事にしろよ?」
ダニエルは良い意味で相手に気を使わせないのが上手い。
大きく包み込むような優しさは彼の強みであると言っていい。
曲の終盤、くるりと優雅なターンを決めて私の初めてのダンスは終わりを迎えた。
「エミリア、この後はどうしたい?」
「え?この後…?」
ダニエルは私の手を引きながら少しばかりダンスの輪から離れた場所に連れて来た。
「まだ踊りたいか?それとも休憩?」
「それなら少し休憩したいわ。でも流石に一曲だけというのも…」
「いや、それならいい。周りに君を誘いたそうな男が何人かいたから聞いてみただけだ。ほら、カウンターに行こう。」
え?そんな方いたかしら?
腰に手を添えてエスコートしてくれるダニエルに身を任せながらきょろきょろと視線を向けると何人かの男性と目があった。
(あの方達のこと…?)
エミリアにはまだイマイチそう言った類のアイコンタクトがわからなかった。
初の社交界とはいえ、この初心さはまずいということもアルフォンスのことで手一杯だった彼女には理解出来ていない。
今までは社交界デビューの時点で自分にはアルフォンスがいるというのが大前提だった。
でも今は違う。
エミリアは自嘲気味に笑う。
一つひとつ経験するごとにアルフォンスの存在が消えたことを証明しているようでなんだかおかしい気分になってきた。
(そうよね…もうアルはいないって思わなくちゃいけないのよね…)
エミリアは上の階を見たくなるのを必死に抑えた。
アルフォンスの姿は見たい。けれど今は姫様も一緒だ。
迂闊なことは避けたかった。
その日の夜会は、アルフォンスのことを除けば楽しいものだった。
ダニエルは私がアルのことを考えそうになるたびに上手く気をそらしてくれていたし、そのおかげで泣くことも無理に会いに行こうとすることもなかった。
それは本当にダニエルのおかげだと言える。
途中兄とは一曲踊ったが、この日は最後にもう一曲ダニエルと踊った他は誰と踊ることもなく帰路につくこととなった。
お風呂に入り、ベッドにたどり着く。
私はもうヘトヘトだった。
下の階ではまだ兄とダニエルがお酒を飲んでいるようで時折笑い声が聞こえるが両親たちは未だに屋敷にすら帰ってきてはいなかった。
一人になるとダメだ。
(アル、かっこよかったなぁ…)
ちらりとだけだが、久々に見たアルは以前よりも凛々しくて、目が合ったりはしなかったが私が来ていることは知っていたはずだ。
アルフォンスの贈ってくれたドレスはどうしても着る気にはなれなかった。
だからお父様に新しいものを用意してもらったが、それを見たダニエルが成人祝いにと今日の髪飾りを贈ってくれたのだ。
(姫様とアルは踊ったのかしら…)
降りて来た様子は見受けられなかった。
かといって踊っていないとも限らない。
涙が頬をつたう。
強がってみても辛いものは辛く、ショックなものはショックだった。
初めてはアルだと思ったのに、それからもきっとずっと私たちは一緒にいれるはずだったのに。
声も聞こえない距離が今の私たちを表しているかのようだった。
(眠ろう…)
アルのため、アルのため。
私は自分を落ち着かせるように何度もそう心で唱えた。