さよならも言えない
「婚約が、無効…?」
「そうだ。わかったら行きなさい。私もまだオリバー邸に行かねばならない。」
行きなさい、と言われながらそれでもまだ書斎の真ん中で立ち尽くす私に父は目を合わせることもなく出て行った。
同じ言葉が頭をぐるりと巡る。
「近々、お前の婚約が無効となる。」
今しがた父の言った言葉が飲み込めないまま私はいつの間にか自室のベッドに座り込んでいた。
子供の頃から使い古された馴染みのあるベッドがギシっと軋んだ音で我にかえる。
私の名はエミリア・ハート。
父はロナルド・ハートと言い、末端の貴族ながらも学院主席となった父のおかげで財力としては国の中でも中規模を誇る勢いになりつつある。
未だに裕福に慣れない家族は昔ながらの屋敷、昔ながらの使用人たちに囲まれてひっそりと暮らしていた。
そんな私には婚約者がいる。
いや、いたと言った方がいいのか。
父と同じく才に恵まれ、同じく末端の貴族出身の彼とは昔から何度も顔を合わせ憎からず想い合っていると思い込んでいたというのに一体何が起こったというのか。
父親同士が不仲になったという話は聞いていない。むしろ先週には新たな事業を共同で始めた所だと聞いている。
では、何故?
震える手でランプを消した。
今日はもう何をする気にもならない。
何も目に入れたくない。
しばらくして侍女が食事だと教えてくれたがその声も無視した。
何事か聞いているのだろう、侍女は三度目の催促はすることなく部屋の前から去っていった。
「アル…」
零れ落ちる愛しい人の名は悲しいくらい耳に残った。
翌朝。
開け放たれたカーテンから差し込んだ朝日に嫌が応にも起こされる。
(ああ、昨日は…)
夕食もとらずに眠りについたため、いつもなら食後、寝る前に侍女がカーテンを閉めてくれるが、その工程がなかった。
入室を拒んだのは自分なのにすっかり忘れていた。
「夢であったらいいのに…」
しかし、昨晩味わった抉れるようなあの気持ちは朝になった今でも同じであった。
昨日はランプを消すことで見ることを拒んだ室内は明るくて嫌になる。
この部屋はあまりにも彼で溢れ過ぎているのだ。
元来、ここは殺風景な部屋だった。
家具こそ我が家の物だが、その家具ですら物欲の薄い我が家では大抵必要最低限の物しかない。
そんな中、シンプルな家具の中に一つだけ、丁寧で繊細な彫りが施されたアンティーク調の宝石箱は浮くほどに目立つ存在だった。
宝石箱の中には彼から贈られた品が並び、髪飾りやイヤリングもあればネックレスもある。
これらは全て誕生日を迎える度に彼から貰った物だ。
それだけならまだいい。
箱を開けなければいいのだから。
問題は壁だ。
婚約してからというもの、宝石などとは別に彼はいつも花束をくれた。
エミリアは愛する彼から貰った花束が枯れていく様を見るのが嫌でそれらを全て押し花にした。
そうして額に飾られた押し花達はまるで花束であった時を忘れないかのような一つの作品として生まれ変わり壁に飾られることとなった。
一年目は小さな花束だった。
二年目はそれより少し大きく。
三年目はさらに少しばかり大きな花束だった。
そうこうして十年。
花束は誕生日以外にも、律儀な事に婚約記念日にも贈られていたため、今や壁は花束の額でいっぱいなのだ。
顔を上げれば嫌でも目につく。
私はゆっくりと立ち上がり、クローゼットを開けた。
そこには普段着とは別に埃除けの布を被せられたドレスが入っていた。
布を少しめくると、サーモンピンク地に白い花柄の刺繍がふんだんにあしらわれた華やかで可愛らしいドレス。
背中は編み上げで腰元には少しばかり大きめのリボンがついている。
大人っぽさというよりは可愛らしさが目立つドレスではあったが私は何よりもこのドレスを着る日をこの一年ずっと待ち望んでいた。
あの人が、贈ってくれたドレス。
今年16歳になった私のために彼が用意してくれたドレスだった。
社交デビューとあって彼の家も気合いを入れてくれたと聞いたのはいつだったか。
だがそれも、昨日の父の話が本当ならば…
パタリと閉められたクローゼットの扉に頭を預ける。
嘘だ。
きっと何かの間違いだ。
だって彼はそんなことは言わなかった。
三ヶ月前にあった私の誕生日にだって、あのドレスに合うようにと真珠のネックレスを贈ってくれたばかりだと言うのに。
年々会える回数が減っていく中、それでも私達は上手くやっていた。
二人きりの時には包み込むような優しい抱擁をし、遠慮がちながらも頬や額にキスをしてくれる事もあった。
あれらが全て私の勘違いだったというのか。
「嘘だと言って…」
ぐしゃり。
心の中で何かが壊れてしまいそうだった。
歯をくいしばって耐えた。
泣くのはまだ早い。
そうだ。
だって、私はまだ彼から何も聞いたりしてはいないのだから。
それからしばらくして、またもや父の書斎に呼ばれた。
「彼との縁談は初めから何もなかった事にせねばならなくなった。」
意味がわからない。
父は私の十年をなかった事にしろとおっしゃるのか。
「何故でしょう。」
私はもはや虚ろに質問をしていた。
父が言葉を吐くにつれて彼との思い出がか一つひとつ掻き消されて行くかのような感覚だった。
「姫君が、彼を婚約者としてご所望だ。」
父は苛立っているように見える。
溜息をはさんで父は続けた。
「婚約者の存在などあってはならないそうだ。王族が我が家から婚約者を奪い取ったなどとなるとスキャンダルとして扱われ、約束を違えたなどで向こうの家名にも傷がつきかねない。幸いまだ口約束の段階で私達は名のある貴族とは言い難い。だが、向こうの家が王族と婚姻となればあちらの出世は間違いないし今後注目も集めてしまう。同じ事業をしている今、あちらの出世は我が家としても悪くない話だ。どちらにせよ…王族が相手では…エミリア、エミリア…泣かないでくれ…」
視界が滲んでいる。
ただじっと聞いているつもりだったのに、私の身体は正直だ。
そっと触ると頬が濡れ、服には水滴のシミがじんわりと広がっていた。
「彼には、もう会えないのですか…?」
自分でわかっているくせに。
私はなんて白々しい質問をしたのだろう。
父は眉間に皺を寄せ、苦しそうだ。
ごめんなさい、お父様。
子供想いな父に私はなんてことを聞いたのだろうか。
「婚約者としては会えない。お前が社交界に出た後、夜会で誰かにもし聞かれても、我が家とは事業だけの関係だと言いなさい。彼のためにも…お前のためにもそうせねばならない…すまない…お前が泣いていると言うのに…私は…」
「ごめんなさい、お父様。違うの、ごめんなさい…大丈夫よ、私まだ社交界にだってデビュー前ですもの…大丈夫…ただちょっと驚いただけ、それだけ…。」
私が泣いてしまったばかりに父も泣きそうになっていた。
父を責めても仕方のない事だとわかっているのに、理性が感情に負けそう。
慌てて取り繕った言葉も余計に父には辛かったらしい。
「お父様、今回のことを水に流す代わりにお願いがあるの。」
私はまだ自分が泣いているくせに父を宥めるように言う。
後日、私の部屋のクローゼットには新しい水色のドレスが届けられた。