台所のハーブ
コンロの上では艶やかな黒い取っ手のやかんが口笛を鳴らしていた。深鍋や平鍋が掛かったラックは、新しくはないが丁寧に使い込まれている。
窓台で太陽の光を浴びるハーブの鉢のそばで、彼はフライパンに油を薄く塗っていた。
「おはよう」
彼はこちらを見ない。怒っているのかとも思ったが、火から目を離すわけにいかないのだと気づいた。
「あ…おはよう、ございます」
ぴんと張ったワイシャツに、しわひとつない黒のロングパンツ。僕よりもかなり背が高い。清潔感が服を着ているみたいな人だ。
「よく眠れた?」
こんこん。卵を2つ手に取り、慣れた手つきでフライパンの上に落としていく。食欲を誘う深みのある音がして、黄身と白身が鮮やかに色づく。
「はい」
薄黄色の棚には整頓された食器がたくさん入っている。茶碗からティーカップまで種類はさまざまだ。核家族なら3日皿洗いをしなくても済みそうな量。一人で使いきれるとは到底思えない。
「よかった」
やかんを囃し立てるスイッチを切り、予め用意してあった二つの湯飲みにとぽとぽとお湯を入れた。ピンクの桜柄が可愛らしい。男の人でもこういうの好きなんだな、なんてぼんやりと思った。
「朝ごはんにしよう。そこに座って」
温かみのある木材で作られた椅子に勧められるがまま腰を下ろす。想像よりも柔らかく全身を受け止めてくれたそれも、長い間使われているようだった。
半熟の目玉焼きと白湯、ご飯と箸が僕の前に置かれる。
彼は僕と対面する位置に朝食を並べ座った。漂う湯気が白い太陽光と混ざり合う。窓が多いせいか、この部屋はやけに橙色の日光が差し込む。目の前の彼の顔もよく見えないほどに。
「いただきます」
胸の前で手を合わせて、一言。
間違いなく自分の唇から洩れたその言葉に、一番うろたえたのは僕だった。
「相変わらず君は真面目だね」
ふふ、と笑った声が晴れ渡った空気に溶けていく。低く、けれど優しい声。
耳になじんで心地いい。昔からずっと聞いていたみたいだ。
…昔?
「どうかしたの?」
手を合わせたまま動かない僕を不思議に思ったのか、彼が言った。
「…あの、あなたは誰ですか?」
満ちていたオレンジが少しずつ薄れていき、代わりに寂しげなパールブルーが彼のまわりを覆っていく。
コンロのやかんも、使い込まれたラックも、大事に育てられているだろうハーブも、誰一人として口を開かない。
彼らは、この空間に長くいたはずなのに、沈黙を決め込んでいる。
「僕、朝起きたらここにいて…。今まで何をしてたとか、自分の名前とか、何も覚えていないんです」
肌で感じていた清涼感の面影はもうない。息が詰まるような圧迫感だけが残されている。
「やっと成功した」
彼は突然立ち上がると、自分の顔を思いきり抑えた。嬉しくてたまらないというように、両掌で頬をぎりぎりと押しつぶしていく。
僕はひどく恐ろしくなって、着替えた覚えのない白いシャツをぎゅっと掴んだ。
「どういう…?」
「君は何も知らなくていいんだよ」
僕の声にかぶせるようにして彼は言った。
どす黒い紫の中で部屋がうずくまっている。もうここから出たくない、そう言って深淵へとその身をうずめていく。彼のシルエットがかろうじてわかるぐらいで、ほかはもう何も見えない。
彼が歩みを進める。二人の距離は狭まっていく。一歩踏み出すたびに、重すぎる振動が僕を何度も揺さぶった。
どうしていいかわからずに座ったままでいると、目と鼻の先にいる彼は僕の背中に両腕を回した。
割れ物を壊さないようかのように優しく、それでいて逃がしたくないかのように厳しく、僕は彼自身に拘束された。
彼の吐息が耳元まで迫っている。鼓動も匂いもすべて感じ取れてしまいそうで、僕はぎゅっと目をつぶった。
「全部世話してあげる。してほしいことはなんでもするし、嫌なことは何もしなくていいからね」
綺麗で深みのある声が脳髄を溶かしていく。逃げたほうがいいはずなのに、この声をずっと聞いていたいという想いが動くことを許してくれない。
両腕により一層力が込められる。骨が鈍い音を立てて限界だと言っている。
「だからもう――ほかの男のところに行ったりしないでね?」
重ねられる唇。
台所のハーブだけが、2つの抜け殻を無気力に見つめていた。




