渾身のトリック 最高の騙しの手口
「誰もが騙される。最高のトリックとは何だと思う?」まずは彼が口火を切った。
ミステリーマニアが集まると、こんな会話が自然に始まる。これは二人にとって、いつものことだった。彼とは十年来の付き合いになる。
「密室トリック?」こうして僕が答え、彼が反論する。それも、いつものことだ。
「わかりやすさは認めるよ。だが、もう使い古されている。そもそも密室にする意味のない作品が多すぎる」
「アリバイトリック?」時間的に犯行が不可能だったと偽装するトリック。死亡時刻の誤認や、時刻表トリックなどが代表的だ。
「もっと陳腐だね。ある作家だと、列車の乗車だけで犯人が特定できてしまう」
途中、彼の奥さんが議論の邪魔をしない様に無言で、お酒とツマミのチーズを持って来た。僕達は目配せだけで軽く挨拶をする。これも、いつものこと。
「心理トリック?」女性のはずが実は……美男子、別人のはずが同一人物、またはその逆。そんな心理的盲点を利用したトリックだ。
「デビュー当初は脚光を浴びたが……酷使がすぎたな。すでに見飽きてしまった。双子が出て来たら、このトリックで間違いないぐらいだ」
彼は、慣れた手つきで水割りを作ると僕に差し出した。
「死体破損トリック」死体に細工を施して騙すトリック。バラバラ死体で別の死人を作り出したり、顔を剥ぎ取って死亡者を誤認させたりする。
「ビジュアル的に派手にできるのはいいね。だが、科学鑑定が発展した時代に合っていない。警察の鑑定が行われるまでしか騙せないからな。もう古典だよ」
「叙述トリック」作中の舞台ではなく、文章に仕掛けを行うトリックだ。ミステリーマニアからは議論を呼ぶ作品が多い。
「確かに騙されることは多いよ。しかし、フェア・アンフェアの論争になりやすく、騙されるのはアンフェアな作品ばかりだ」
宵も更けて、少し眠気がしてきたが議論は続いていた。
「じゃあ、君が思う最高のトリックは何なんだい?」今度は攻守逆転し、彼が答え、僕が反論する番だ。
「……信頼だよ」彼らしくない答えだった。
「信頼? 信頼できそうな人物から疑うのは、ミステリーマニアの常だろ。そんなもので騙せるとは思えないけどね」それは哀しい習性なのかもしれない。
「それは、まだ信頼が足りてないのさ。推理小説に出てくる信頼できそうな人物というのは、そんな肩書きだけの見ず知らずの他人でしかない」
僕は軽く欠伸をした。議論に熱中して頭は冴えていても睡魔はやってくる。
「そして推理作家は騙しのプロ。いわば詐欺師だ。詐欺師に、この人は信頼できる人ですと紹介されて誰が信じる?」確かに彼の言う通りだが……。
「じゃあ、どうすれば読者を完全に信頼させることが出来るんだい?」
「それは積み重ねだよ。この前、貸した海外小説があっただろ?」
「ああ、あのアメリカの大ベストセラー。全米が騙されたって評判ほどでは無かったね」半月ほど前に借りた作品だったが、特に面白いとは思えなかった。
「俺たち他所者が、あまり騙されなかったのは無理もないさ。あの作品は作家に秘密があるんだよ」彼は海外のミステリー事情にも詳しかった。
「どんな秘密が?」眠気のためか芸もなく聞き返した。
「その作家は、ずっと何のトリックもない作品ばかりを書いていた。十年以上もね。そうして読者の信頼を積み重ねたのさ。この作家は騙さないと」
彼は話しながらチーズを積み重ねて見せた。
「そして……初めて読者を騙した。どんな陳腐なトリックだろうと騙されるよ」
「……なるほど。積み重ねた信頼に勝るトリックはないわけか……」
――少し眠っていた様だ。気がつくと床に突っ伏していた。
まだ意識がはっきりとしない……。少しだけ右手に痛みを感じる。見ると手首から止めなく血が滴り落ちていた。
そして、僕の側には、彼の奥さんが血濡れで倒れていた。
驚きで意識は覚醒したが、体の方が反応しなかった。起き上がることができない。声も出せない。しばらくもがいていると彼がやってきた。
「目が覚めてしまったか? せめて楽に死なせてあげたかったが……」その声は弱々しく聞こえた。
「言っておくけど、先に裏切ったのは君なんだぞ。妻との関係、気づいてないと思っていたのかい?」僕はなんとか取り繕うとしたが、もう言葉が出せなかった……。
「気がついたのは最近だ。何しろ十年も積み重ねられたトリックだったからね」
……遠のく意識で思うのは、彼があんな話をしたのは暗に責めていたのか、それとも僕に見破って欲しかったのか……。
彼は、ひどく寂しい顔をしていた。




