完全無欠の王子様とハインライン
少し背をかがめるようにして、長身の男がカフェの玄関をくぐってくる。すらっとした体躯に、細身のスーツ。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
律儀に返事をした声は、やわらかく甘い。
ヒロの視線を追うように振り向いたみはるの手元から、しおりが滑り落ちた。とっさに拾おうと同時に伸ばしたみはると男の手が、つ、と触れ合う。
「あ」
「あ」
「どうぞ」
男の長い指がしおりを拾い上げ、みはるに差し出す。整った顔の中で、子犬のような大きな瞳が笑みをたたえている。
「……ありがとうございます」
「ハインラインの『夏の扉』ですか」
ちらりと本に目を向けた男が、何気なくみはるに尋ねた。
「あ、そうなんです。すごい、よくわかりましたね」
「ぼくもその作品大好きなんです」
その言葉を聞いたとたん、みはるの顔がぱっと明るくなった。
「私もです!」
「いいですよね、この間原書で読んだんですが、やっぱり素晴らしかった」
「へえ、英語の原書が楽しめるなんてすごいですね」
「そんなことないですよ」
あ、ここ、いいですか。男がみはるの向かいの席を示すと、みはるは嬉しそうに「もちろんです」と答えた。
「あの、ブレンドをひとつお願いします」
男が席からにこりと笑って、ヒロを見上げる。
事態の一部始終を呆然と見守っていたヒロは、その声に、え、あ、はい、とさえない返事をしてぎくしゃくとカウンターの後ろへ引っ込んだ。コーヒーカップを用意するヒロの耳に、ふたりの声が届いてくる。
「知ってますか、アメリカじゃ『夏の扉』はたいして有名じゃないって」
「そうなんですか」
「この作品が人気なのは日本だけの話だそうです」
「もったいない、こんなに素敵な話なのに。わたし、ピートみたいな猫が飼いたくて、ペット可のマンションに引っ越そうかと本気で考えたんです」
「うちには今二匹の猫がいるんですよ。名前はベンとマキュっていうんです」
「……もしかして、ベンヴォーリオとマキューシオ?」
「すごい、一発で気づいた人は初めてだ!」
「シェイクスピアは全部読みましたから」
「読書がお好きなんですね」
「そちらこそ……えっと……」
「あ、失礼しました。名前も名乗らずべらべらと話してしまって。ぼく、里見修一といいます」
男が胸元から名刺を取り出す。その名刺を受け取ったみはるが、目を大きく見開いた。
「RMジャパンって外資系企業の中でもトップじゃないですか!」
「ええ、まあ会社全体としては」
「すごい、尊敬します」
みはるの瞳の中に、今まで見たこともない星がきらきらし始める。
「あなたは」
「あ、ごめんなさい。小野みはると申します」
「素敵なお名前ですね」
その言葉に、みはるが恥ずかしそうに微笑み、ふたりはまた楽しげに話を続けた。
「さて、突然現れた王子様について百字以内で述べよ」
「まずはイケメン、次に爽やか、有名外資系企業のエリートでおれよりも大人だし背も高いし、その上読書家で、あくまでナチュラルな押しの強さ! みはるさんの向かいなんておれも座ったことないのに!」
「はい、そこまでで百文字」
いつの間にか戻ってきた店長が、息継ぎなしのヒロの解答をすっぱりと遮る。肩で息をしながら、ヒロは死んだ魚の目で店長をにらみつけた。
「店長、何ですかこれは」
「何ですかって言われてもねぇ、完璧なカップル誕生の予感としかいいようがないよね」
「あんな人、常連にいないですよね」
「最近来るようになったの、いかしてるでしょ」
「いかしすぎて、もうどうしたらいいかわかりませんよ……」
「うーん」
にやりと笑って、店長がヒロの手元を指差す。
「とりあえずブレンド出してきたら?」
「……お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
ヒロは男もとい里見の前へ、コーヒーカップを差し出す。すると、そのまま去ろうとしたヒロの腕に、なぜかすっと手が伸びてきた。
「大丈夫ですか、少しお顔が青いですが」
「本当だ。広瀬さん、体調が悪いんじゃないですか」
いたって真剣な顔で里見が言うと、みはるまで不安げに見上げてくる。
「飲食店は立ち仕事も多いし、無理しないでくださいね」
「あはは、ありがとうございます」
必死の営業スマイルで返事をする。そしてカウンターに戻るなり、無言で店長の胸ぐらに掴みかかった。
「君の言いたいことはよくわかるけど、とりあえず苦しいから離してくれない?」
「おれにまで気を使ってくれるとかただのいい人なんですけど。もはや何も勝てるポイントがないんですけど!」
「それはあたしのせいじゃないしー」
ヒロの手を引きはがしながら、店長はごもっともなことを言う。もちろん、そんなことはヒロにもわかっていて、ただ謎の怒りを向ける先が他になかっただけである。
そのとき、里見がおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、ぼくはそろそろ。取引先との顔合わせがあるので」
その言葉を聞いて、みはるが慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、せっかくの休憩時間だったのに」
「まさか。こちらこそ楽しい時間をありがとう」
お会計お願いします。カウンターのヒロに向かって告げると、里見はさりげなくふたり分のレシートを取り上げた。
「え、あの、里見さん」
みはるの声に振り返って、里見がいたずらっぽく笑った。
「お願いですから、止めないでくださいね。一緒にお話してくれたお礼です」
「でも」
「みはるさんは、よくこのお店にいらっしゃるんですか」
「ええ。時間のある日はいつもお邪魔しています」
「じゃあ投資だと思ってください。ぼくは、これからもみはるさんと楽しくお話ができる未来に投資したんです。それなら、おかしくないでしょ。また、ここでお会いしましょう」
カウンター越しに支払いを済ませ、「ごちそうさまでした」と里見はそのまま店を出ていく。その背中を見送りかけていたみはるが、突然立ち上がった。
「あの!」
里見が驚いたように振り向く。
「その投資に融資させてください」
みはるは鞄の中から一冊の本を取り出した。先ほど持っていた『夏の扉』とは別の本。
「これ、私のお気に入りのひとつです。里見さんと次にお会いしたときに、感想を聞かせていただけたら、すごく、嬉しいです」
そう言って、里見に本を差し出す。手に取った本をじっくりと眺めて、里見はまっすぐにみはるを見つめた。
「今夜中に絶対読みます」
本を抱きしめたまま里見は店を出ていく。みはるはしばし、店の入口を呆然と見つめていた。
「みはるちゃん、大丈夫?」
「え、あ、はい! やだ、私、ぼーっとしちゃって」
店長の声に我に返ったように、みはるの肩がぴょんと跳ねる。
「顔赤いけど。クーラー調節しようか」
「いえ、大丈夫です」
「もしかして、さっきの人に惚れちゃった?」
何気ない口調で、突然意地悪い店長が爆弾を投下した。
「ほ、惚れ……!?」
「うるさいヒロ」
「い、いえまさか。さっき会ったばかりの人だし」
みはるの答えにヒロは安堵の息を吐く。
「でもすごく素敵な方でした」
吐いた息が吸えない。
「運命の出会いってのはどこに転がってるかわかんないからね」
「あんなに趣味の合う人、いるとは思わなくて」
「本貸しちゃったもんねえ」
「うわあ、恥ずかしい。図々しかったですよね。どうしよう」
いまさら自分のしたことを思い出したのか、みはるがおろおろと辺りを見回す。その様子を見ながら、店長がにっこりと笑う。ヒロには決して向けられない、営業用の優しい笑顔である。
「待ってるだけが乙女じゃないよ」
「ありがとうございます」
私も失礼します、と言い残したみはるは、ふらふらと店を去っていった。
それにあわせて、ヒロの体もへたりと床にしゃがみこむ。
「目の前で起こったことは現実でしょうか、店長」
「まぎれもない現実でございますよ」
「投資とか融資とか、経済のオハナシですよね」
「さて、そう聞こえたなら耳鼻科に行った方がいいかもしれない」
「嘘ですよわかってますよ! あれはお互いの好意を上品に表現する彼らの高等テクニックですよ!」
「みはるちゃんの目に、完全にハートが飛んでたねえ」
冷静な分析で傷をえぐられたヒロが、完全に生ける屍になって床にころがる。
「あーもう邪魔くさいな」
「てんちょぉー……」
「そんなんじゃ、あんたは一生好きな人を見つめるだけのヘタレ男子だよ。みはるさんにとってはアウトオブ眼中、恋人なんてもってのほか。それでいいわけ?」
「よくないです……」
「じゃあいつまでも粗大ごみみたいに転がってないで、動く!」
「でもおれ、あんな完全無欠の王子に勝てないですよ」
「勝たせてあげようか」
「え?」
床に転がるヒロの顔の上に何かがどさり、と落ちてきた。驚いて拾い上げてみると、うすい文庫本。
「ロミオとジュリエット?」
「それでも読みながら、おべんきょーしなさい」
「おべんきょー?」
「世の中は何事も勉強なのだよ、草男子くん」
「草やめてください」
「勝ちたいんでしょ?」
「そりゃそうですよ」
「だったら短期決戦。ふたりが両思いになってからじゃ遅いのよ」
「はあ」
にやり、と店長が意地悪いチェシャ猫スマイルを浮かべる。
そして、真上からびしりとヒロの目前に指を突き出した。
「おべんきょーした上で、来週のみはるさんの誕生日までに王子と決着つけること。これ、宿題ね」
「はあ?」
みはるの誕生日は、わずか6日後だ。それまでに、あの完全無欠の王子様と決着をつけろというのか。
「それが無理なら、永遠に草として生きるしかないだろうなあ」
「だから草はやめてくださいって」
「その代わり、勝てたらみはるさんとの甘い毎日が待っている」
その言葉に、ヒロはぴく、と動きを止めた。もし、みはると恋仲になったら、毎日みはるを眺めていられるのだ。一緒にご飯を食べ、デートをして、そしてあわよくば手を……それは、良い。とても良い。
「どう、宿題やる?」
答えがわかりきった顔で、店長が言う。その顔に、自分は彼女の手のひらで遊ばされているに違いないと思いながら、ヒロはやっと立ち上がった。
「やります」
完全無欠にかっこいい(かわいい)くせにむかつく、でもかっこいい(かわいい)という絶妙なラインを突いてくる人物が大好きなんです。