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うるわし女子大生とパイナップルケーキ

 天使は存在する。ヒロはひそかにそう信じている。

 いわく、聖書の中には天使の翼に関する記述がないらしい。つまり、天使に翼があるとは限らない。まるっきり人間と同じ姿で、そばにいても不思議はないわけだ。例えば秋の静かな午後、コーヒーのにおいに包まれたクラシックなカフェにだって、天使がいても何も不思議はないのである。

「なーにやってんの」

「うわっ!……なんだ、店長か」

 危うく口から飛び出しかけた心臓をなんとか飲み込んで、ヒロは大きく息を吐いた。すぐ後ろには、化粧っけのない女性がにやにやと笑って立っている。

「おとなしく皿洗いしてるかと思えば、ストーカーかよ」

 駅前の大通りからひとつ路地に入った、カフェ・エリオット。ヒロがアルバイトとして働くこのカフェは、この口の悪い女店長が切り盛りする店である。

「す、ストーカーなんて失礼な!」

「声をかけずに女性を見守る男なんて、父親じゃない限り、たいていはストーカーに分類されるね」

「お、おれはただ」

「ただ?」

「天使が」

「天使?」

「いえ、何でも。ちょっと考え事をしていただけです」

「明日のシフト、誰かに代わってもらおうか」

「すみません、負けました」

 ヒロは大人しく白旗をあげた。文字通り、皿洗いの泡で真っ白になった両手を肩の上まで持ち上げる。

「まったくあんたも単純だよね。一回ミスをかばってもらっただけで恋しちゃうなんて」

 鼻がぶつかるほど近かった店長の顔が、やっと離れた。

「別にいいじゃないですか」

「おかげで毎日のようにシフト入ってくれて助かるけどさ。そのわりに全然進展してないじゃん。もう二か月だよ、二か月」

「みはるさんはそんなに簡単に声かけていい人じゃないんですよ」

 このカフェの常連、小野みはる。

 彼女こそは、ヒロが天使を信じる唯一無二の理由だ。

 近くの大学に通う女子大生のみはるは、いつもコーヒーと読書を楽しんで帰っていく、それはそれは清楚で可愛らしい令嬢である。今日もひとり、窓際の席で本を読んでいる。さらさらとした髪、伏せられた長いまつげ、ページをめくる細い指先。一度見てしまったら最後、いつまででも目が吸い寄せられてしまう。

 有り体に言えば、憧れの女性なのだ。

「あーなんだっけ、フレンチトーストだっけ?」

 ヒロに白旗を下げる指示を出しながら、店長が適当なことを言う。

「パウンドケーキですよ。忘れたんですか。夏限定の、一日十食パイナップルのパウンドケーキ」

 話は二か月前にさかのぼる。



「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 窓際の席で本を開いていたみはるに、そっとコーヒーとパイナップルのパウンドケーキを差し出す。季節ごとに変わる店長考案のデザートは、この店の売りのひとつだ。

 夏真っ盛りの八月半ば、大学が夏休みなのをいいことに、ヒロは毎日のようにカフェのアルバイトに明け暮れていた。というのも、春に行った自動車免許の合宿のせいでおそろしく貯金がすっからかんだったのである。

 その日も朝から一日ホールをしていて、狭い店の中を行ったりきたりだった。一番混み合うお昼どきを乗り越えると、午後には常連客のみはる、そして通りすがりのカップルだけになった。

「ご注文はお決まりですか」

 営業スマイルでカップルに声をかける。

「はい、アイスコーヒーとパイナップルのパウンドケーキですね。はい、大丈夫です。実は残りひとつだったんですよ……あはは、すぐお持ちしますね」

 適度なフレンドリーさで場をなごませ、カウンターへ引っ込む。すばやくアイスコーヒーとパウンドケーキを用意して、慣れた手つきでトレイを片手にのせる。

 いわずもかな完璧な手順である。

 その後の展開がなければ。

 そのとき、カウンターの机から少しばかりはみ出すようにして、椅子が置かれていた。前の客が帰るときに戻さなかったのだ。その椅子に、ヒロの足は見事に引っかかった。

 漫画のように宙を舞うトレイ。

 噴水のように飛び出すアイスコーヒー。

 皿からすべり落ちるパウンドケーキ。

 グラスと皿の割れる音。

 そして、蛙のように床にへばりつくヒロ自身。

「……いってぇ」

 正面衝突した床から顔を引きはがし、目の前の惨状を目にする。しばし凍結。

「あ、うわ、し、失礼しました! すぐに新しいものを……」

 勢いで言ってから気づく。

 一日限定十食のパイナップルのパウンドケーキ。数分前に、最後のひとつだったんですよーと笑っていた自分。

 やばい、これはやばい。

「も、申し訳ございません、あの、本日の分のパウンドケーキがもうなくて、それで、その」

 驚きとドン引きのカップルの視線がヒロを突き刺す。痛すぎる。

 ユウレカ(われ、発見せり)!

 絶体絶命のピンチとは、このことである!

 脳みそが偉そうに叫んでいる。

「あの」

 そのときだった。背後からおずおずと声がかかった。

「よかったら、私の注文した分、そちらの方に差し上げてください」

 振り向くと、手をつけていないパウンドケーキの皿を持ったみはるが、ヒロを見下ろしていた。

「いや、でも」

「おいしそうでつい注文したんですけど、実はこのあと友達と食事の約束があるのをすっかり忘れてて。せっかくの食事の前にお腹いっぱいになっちゃうのももったいないし、そちらの方に食べていただいたほうがパウンドケーキも喜びます」

 ふわりと微笑んで、みはるが皿を差し出す。窓から差し込む光が、後光のように彼女を照らす。その笑顔を見た脳みそがまた叫んだ。

 ユウレカ!

 彼女こそは天使である!



「そうして単純なヒロはみはるさんに心奪われたのであった、ちゃんちゃん」

「普通自分の注文したもの、他のお客さんに譲ったりしないですよ。しかも『そちらの方に食べていただいたほうがパウンドケーキも喜びます』って……優しすぎる。これぞ清らかな心の表れですよ。権化ですよ」

「暑いんだけど」

「あ、すみません」

 ヒロが、熱弁をふるうあまり二十センチまで迫っていた顔をどける。

 それから二か月、こうしてヒロは奥ゆかしく憧れのみはる嬢を見守っているのである。もちろん、ふたりの仲に一切の進捗はない。

 ヒロの話を聞いていた店長はカウンターの内側をごそごそと探り、ほい、と何かをヒロの手にのせた。

「じゃあそんな君には、愛しのみはるさんにサービスのクッキーをお渡しする役目を与えよう」

「何のサービスですか?」

「知らないの、みはるさん、もうすぐ誕生日だよ」

「え!」

 誕生日とは、人が誕生した日のことである。誰もが気軽にその人をお祝いできる、大事なイベントである。もちろん、好きな人の誕生日なんてお祝いしたいランキングナンバーワンだ。

 驚くヒロに店長が、新種の生物でも目撃したような顔を向ける。

「好きな人の誕生日も知らないなんて、ヘタレとか草食男子とかいうレベルを通り越してもはや草だね、草」

「それは言い過ぎじゃないですか」

「ほら、さっさと行ってきな。どうせ今日も注文以外話しかけてないんでしょ」

 押し出されるよにうして、ヒロはカウンターを出る。早く行け、と顎で示して、店長は携帯で誰かに電話をかけながら奥へ引っ込んでしまった。

 これは、行くしかない。

「あ、あのう」

 意を決して、みはるにおずおずと声をかける。ヒロの姿を認めたみはるは、マシュマロのようにふわっと微笑んだ。それだけでヒロの脳みそは溶解寸前だ。

「あ、こんにちは、広瀬さん」

「名前、覚えてくださったんですか」

「いつも働いていらっしゃるから、覚えちゃいました。ヒロさんってお呼びしたほうがいいですか」

「やめてくださいよ、あんな呼び方するの店長だけです」

「素敵だと思いますけど」

 苗字の広瀬をそのまま略してヒロである。名前がヒロシとかヒロカズならまだしも、なぜ苗字をそう略すのか、よくわからないセンスだ。

「あの、もしよろしければ、これ!」

 ヒロは深呼吸をひとつすると、勢いをつけて可愛らしくラッピングされたクッキーを差し出した。

「え?」

「うちの店からサービスです。もうすぐお誕生日だとのことなので」

「わあ、いいんですか。ありがとうございます。美味しそう」

 心底嬉しそうに、みはるがクッキーを受け取ってくれる。

「お、お誕生日はいつなんですか」

 よし、頑張った、おれ。

「次の金曜日です」

「あと少しですね」

「はい。金曜日は午前で授業が終わるから、誕生日の午後は絶対このお店で過ごすって決めてるんです」

「おれ、金曜日にもシフト入ってるので、またお願いしますね」

「はい、嬉しいです」

 そしてまた極上の笑顔。これは、これはチャンスじゃないのか。今こそお近づきになれるタイミングではないのか。

「み、みはるさ……」

 そのとき、ベルの音が響いた。


コメディは苦手なんですが、楽しい連載になるように頑張ってみようと思います。ヒロくんに幸あれ。

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