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夢十夜  作者: 高野 真
7/7

第七夜

 こんな夢を見た。


 巨大な堂宇の中で坐している。

 如何ほどの広さを持っているやら、とんと見当もつかぬ。天井も壁も、あらゆる辺縁は知覚の及ばぬ彼方にあって、ひと抱えでは済まぬほどの朱塗りの巨柱が四本、空間を垂直に貫くばかりである。

 ほのかな燈明だけが頼りなく揺らめく、ひとつの宇宙がそこにはあった。


 この宇宙の中心に御座すは、身丈十丈はあろうかという不動明王像である。

 青藍色の坐像は岩肌に鑿を振るったが如く隆々とし、表皮をうねうねと這い回る血脈は大樹に絡みつく藤かづらのようであった。

 巨岩を思わせるその顔には憤怒の形相を浮かべ、右手には天を貫かんばかりの剣、左手にはとぐろを巻く大蛇にも似た羂索が収められていた。

 風も立たぬに揺れる燭光が、像に陰影の波紋を広げていく。

 その威容に、私はただ畏れるほかなかった。


 百万由旬の宇宙を構成する一点の粒子となった私は、果てなき無の中に針先ほどのゆらぎが生まれたのを知覚した。

 さらさらという衣擦れの音が、水底から噴き上がる砂のようである。法会が始まるのであろう、暗闇の彼方から姿を現した僧侶が、十人二十人と私の眼前で方陣を描いていく。

 身に纏うは紫衣に緋色の五條袈裟、五体投地を繰り返す様は日の出間近の東海の波浪を思わせた。

 その向こう、蓬莱島のあり得べき場所に炎が上がる。

 組まれた護摩壇は破魔調伏の三角形、ただ独り、真紅の袍裳に金襴の七條を掛け、五色の修多羅で彩った老僧が次から次へ護摩木をくべる。

 赤黒く轟轟と湧き起こる火炎は不動の背負いし迦楼羅焔に似て、我らが煩悩を熱に光に姿を変えて昇華せしめるのである。

 脇侍の僧侶は法楽太鼓を呑怒呂と打ち鳴らし、堂宇に響くは般若心経、声明、和讃、御真言。

 唱えて曰く、是が諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。


 純白の襲に正絹生成りの五條袈裟、私は学侶の装束を纏っていた。左右後方遥か果てまで、同じ身なりの者どもが居るのだ。

 皆がおもむろに立ち上がり、私も一拍遅れて付き従った。何が始まるのか見当もつかぬが、唯一点、血染めの如き真朱の足袋が異彩を放つ。

 懺悔唱文―――。誰かが号令を発した。

 唱えて曰く、生まれてより造りし所の諸悪業、我が身口意より生ずる三業なれば、大日大聖不動明王の大御前にて、一切是れ今、懺悔し奉る。懺悔懺悔六根清浄、南無帰命頂礼。

 身中に埋もれた懺悔の種々を、一念込めて発芽させる。

 口々から発せられた言の葉は宇宙に満ち満ち、噴き上げられた護摩の火の粉は幾千万もの星の如くに降り注ぐ。


 こおおおん、と鏧子けいすが打ち鳴らされた。

 金気を帯びているのに、丸く暖かい、御仏の手に包まれような音色であった。

 それをきっかけにして辺りに満ち満ちていた空気の震えはぷっつり途絶え、駆け回っていた言霊は諭されたようにその身を潜めた。

 溶鉱炉を思わせる護摩の火だけが、原始からそうしていたかの如くに揺らぐ。

 最後の一音が裾を引いて消えていくと、宇宙はかつての静寂を取り戻した。


「ひっ」

 私の小さな悲鳴を、隣の同輩が慌ててその手で押し隠した。

 堂々と構えておれば仔細ない。あれは心の揺らぎを見抜くゆえ。声ならぬ声が耳を打つ。

 しかしこれを目の前にして冷静に居られる訳があるまい。

 降魔坐の姿勢を取っていたはずの不動明王が、大見得を切る歌舞伎役者を思わせる立ち姿でそこに聳えているのであるから。護摩の炎の揺らぎを浴びて、脈動しているかのようにさえ見える。

 こんなことがあろうはずがない。

 何が起きているのか、これから何が始まるのか。己の鼓動だけが、煩いほどに身中に響く。周囲の静謐が耳に痛い。

 動揺を見抜かれると、どうなると言うのか。


 じりじりと時間が過ぎていく。

 背中を、厭な汗がぬらりと伝う。

 何事か口に出さねば精神を保てそうにない。

 ちらりと隣を盗み見て、瞑目し悠然と立つ姿に安堵し、そして如何に口火を切るかを寸考した刹那。


 絹を引き裂くような音。

 目の前を横切る影。

 顔に掛かる飛沫。

 そして、耳孔の奥に突き刺さる、気が狂ったような雄叫び。

 見れば、あの同輩が、下半身を真紅に染めているではないか。

 その目は焦点を結ばず、口の端から泡を噴きつつ奇声を上げ、下腹部にこさえた襲の裂け目からびたびたびたと床に血をぶち撒いて、そして突っ伏して果てた。


 不邪淫――

 前方で方陣を描いていた僧たちが、口をそろえ野太い声でそう発した。

 太郎坊め、女犯の悪癖がまだ抜けておらなんだか。後ろで誰かが囁いた。


 不偸盗――

 鼻腔の奥から口へと滲む、嗅ぎ覚えのある金気臭さ。

 血染めの袖に、その先を無くした者どもが、体を支えられ連れ出された。

 ざわめきが、波紋のように広がっていく。

 彼らは盗みを働いたというのか。

 数間先に、何かを訴えるように人差し指を天に向けて、右腕が転がっていた。


 空を切り裂き、剣が舞う。

 うなりを上げて、羂索が猛る。

 叫びが上がる。苦悶に満ちた呻きが渦巻く。

 硬い何かがぶつかる音が、湿った何かを引きずる音が、ごりごり、ずびずび堂宇に響く。

 不慳貪――、不邪見――。

 羂索に腕を搦められ、首を吊られた学侶どもが、数珠のように連なり揺れる。


 私は何もすること能わず、ただ半眼合掌で嵐が過ぎるのを待つばかりである。

 不動明王の海より蒼いその肌にはうっすら赤みが差し、小山の連なれるを思わせるその肉体はますます奮い立つ。


 ぎりり。

 そう聞こえた気すらした。

 あらゆる罪業を映し出す浄玻璃鏡が如きその眼が、我が身を捉えていることを私は悟った。


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