第一夜
こんな夢を見た。
寝間着をだらしなくはだけさせたまま、何をするでもなくただ布団の上で胡坐をかいていた。
床の間に飾られた山鳥の掛け軸で、ここが高台寺下なる常宿と知れた。枕元で行灯が、ぼんやりと灯っている。
ひたひたと打ち寄せる波音に誘われて窓から身を乗り出すと、一階の軒の高さまでもう潮が満ちていた。今の時期、汀線はこのあたりなのだ。この宿よりも低地に属する家々は、みな潮が満ちると水面下である。宿へと至る石畳の路地も、年季の入った板塀も、レトロな街灯もしばしの眠りにつく。
両手にも収まりきらぬ大きな月が絹のように白く清らかな光を放ち、さらさらと水面に反射するさまは螺鈿の如くであった。遠くに見える赤い瞬きは、灯台か。
これは困ったな、寝過ごしたかもしれぬぞ、と思った。
いったいいま何時であるか。置時計を見やれば、針は少しも仕事をしておらぬ。
いよいよ弱ったところで、
ちりん
と鈴の音がした。約束の刻限である。迎えが来たのだ。
軒先にそっと着けられた小舟には、既に女が乗っていた。浴衣に描かれた桔梗の絵柄が、月光を浴びて生花のようであった。そして、透き通ったうなじにひとつ、形見のように黒子のあるのが見えた。
小舟は水面を滑るように進んでいく。船頭も居らぬのに時折行き足をとめ進路を変えていたが、そういうものなのだろう。そして、そんな処では決まって水の下に明かりが見えた。
もうどのぐらい乗っているのであろう。相変わらず船べりからは、底に敷き詰められた甍の波がゆらゆらと見えている。このあたりは水底の灯がいちだんと多い。長い尾びれをひらつかせ、ひと抱えほどもある金魚が何匹も泳いでいる。
祗園白川のあたりだろう、と思った。人の姿こそ絶えて久しいものの、華やかさは往時のままである。
すっ、とかすかな余韻を残して小舟は止まった。
てん、てん、とん。てと、とん、とん。
風に乗って地歌端唄の調子がいずこからか聞こえてくる。
「こんな時節というのに宴とは。異なこと」
女が言った。
「こんな時節だからこそ、かもしれませぬ」
私の応えを聞いてか聞かずか、女は懐から一柄の扇を取り出した。か細い指で楚々と開くと、白檀のかすかな香りが漂った。その清らかさはあたかも女そのものから薫っているようであった。
波間に覗く華燭は絶ゆるところを知らず、三味の音は水を伝い小舟を震わせ鼓の音が耳朶を打つ。そして音曲に合わせ、女のはかなげな腕が舞うようにのびていく。女は大海の一滴を汲むように、盃を押し戴くように、静かに扇を水面に浮かべた。
扇はしばらく波にその身を委ね、そしてくるくるとらせんを描き沈んでいった。
女は別れを告げるかの如くつぶやいた。
「波の下にも都の候ぞ」
白河夜船とはこういうことを云うのだ、と私は思った。