プロローグ
昼休みを告げるチャイムが教室に響く。
誰が放ったかも分からない「やっと終わった」という声を皮切りにがやがやと騒ぎ出すクラスメイト達。
やれ「腹減った」だ、やれ「眠かった」だとか。平和な会話が繰り広げられる中、俺はさっさと机の上の教材を片づけ終えていた。
窓越しに見える他クラスの生徒達がグラウンドからぞろぞろと解散して行く様子から視線を外し席を立つ。
今朝寝坊して朝飯を抜いている俺にとって、最優先するべくは食事である。
「おーい、くりきーん今日飯どうする?」
さて、今日は学食に行くか。いや、ただあそこは人でごった返すし……
「くりきんってばー?」
後ろから聞こえる男子生徒の声はいわば幻聴。我の歩みを止めることはできん。
早足で教室を去り、廊下を往く。
なるべく他人と目を合わせずに歩き、ラウンジで開いている購買の列へ並んだ。
「悪いことしたかな」
なんて事を口にしてみても、反省はしない。
無視やシカトはここ最近よく使うようになった。後で何か言われれば「気づかなかった」で済むから、気にならない。そもそもクリキン?誰だそれ。
ちなみに言うと、彼が一緒に飯を食べようと誘おうとしていたのは明白で、俺も当然分かっている。
ただ、コッチにはその気がないんだから、迷惑でしかない。
…… ハッキリ言おう。俺は人付き合いが苦手だ。友達といえる人間もいないし、心のどこかで他人を信じることができない。
しかし、困ったことに周りの人間は今の俺を放っておいてくれない。廊下を歩いてきた時も、こうして購買で並んでる時も多くの視線が注がれるのを感じる。
視線からは好奇心の様な感情がひしひしと伝わってくる。思わず喉元まで出かかったため息を呑み込み、無理やり口角を上げて笑顔を作った。
「ごめん、なにか用かな?」
それだけ言うと、大抵の生徒は目を背ける。興味はあるけど、話しかける勇気は無いってところか。
やっとこ順番が回ってきて、適当な惣菜パンと野菜ジュースを買い、その場を後にした。
……とはいえ、目的地はない。
ただ、歩みを緩めれば誰かしらに声をかけられることは目に見えている。
そのまま会話に付き合って時間を浪費し、飯を食う時間がなくなる事はなんとしても避けたい。まあ、無視するって手もあるけど、この手の使いすぎも問題だ。
なるべく誰も傷付けず、自分も守る。それが大事だ。
ゆっくりと飯にありつくためにも、人気がない場所を探す。
挙動不審と思われない程度に視線をめぐらせて、廊下を歩く内に良いことを思いついた。
そうだ、屋上へ行こう。
二月を迎えたばかりの外はまだまだ寒い。春秋は大人気の屋上だが、この季節に好き好んでわざわざ外で食事する強者はそうそういないだろう。
向かう先が決まれば、必然的に足は早まる。
廊下を行く生徒達が俺に気付き目を向けるが、決してこちらからは目を合わせてはいけない。
気付いていないフリをして、声をかけられるより前に傍を過ぎ去っていく。
人気者ってのも大変だ。
四階分の階段を駆け上がり、屋上へと繋がる扉の前まで来たところでため息が出た。想像以上に疲れがきている。
意識して引き締めていた表情が崩れた。せっかくのイケメンが台無しだけど気にしない……が、その油断がまずかった。
カツカツッと靴音を響かせ、少女が階段を駆け上ってきた。
少女は息を切らせ、振り返った俺の目の前に立つ。
「はぁはぁ、よかった。やっと見つけた」
頬を赤らめてそう口にする彼女には見覚えがあった。というか、記憶に誤りがなければクラスメイトだったはず。
たしか名前は芹沢 優紀音。特徴を挙げるとすれば、とにかく小柄だということだろう。赤みがかったボブヘアに、どことなくあどけない顔つき。
俺と同じ一年生とはいえ、とても高校生とは思えないほど幼く見える彼女。だけど、かなり可愛い。
好みの問題を除いて言えば、誰が見ても美少女だと答えるだろう。
そんな彼女が、息を切らしてまで俺を追ってきた理由。それは、すぐに予想できた。
「あの、その……く、栗木君に聞いてほしいことがあるの。時間いいかな?」
上目遣いで俺を見上げる芹沢。しかし、決して目を合わそうとはしない。
もじもじと体をよじり、忙しく視線を彷徨わせながら、時折俺から顔を背けている
これは間違いなくアレだ。口にするのも恥ずかしい、『こ』から始まり『く』で終わる、秘めた想いを伝える儀式。
やばい、色々な意味で緊張してきた。
とはいえ、オロオロとうろたえている訳にもいかない。崩れた表情をキュッと引き締める。
「お、俺……じゃなくて、僕に? えっと、それは今じゃなきゃ駄目かな?」
そう聞くと、芹沢はぶんぶんと首を振る。身長の割に豊かな胸の前で両こぶしを握り、小さな身体を突き出して口を開いた。
「今お願いします!! 少しでいいんです、私に時間をください!!」
勢い激しく芹沢が言う。あまりの迫力に、怯みそうになった。
本当はなんとか上手くはぐらかし、この場から逃げてしまいたい。
でも、それでいいのだろうか。ここまで本気の姿を見せ、勇気を振り絞った少女相手に、そんな応え方ができるのか。
……いや、自分でいうのもなんだが、俺はそこまで腐っちゃいない。
「分かった。ここじゃなんだから、外へ出ようか?」
――屋上には予想通り、人っ子一人いなかった。
それもそのはず。吹きすさぶ風があまりにも冷たい。
まったく、こんな場所で飯を食おうなんて思っていた馬鹿はどこのどいつだ。
しかし、後ろをついて歩く芹沢は寒さなどまるで感じていないように見える。
恋は盲目とはよく言うが、人間、恋をすると周りを見る視力だけでなく、体感まで奪ってしまうのだろうか。
……なんて馬鹿なことを考えてしまうのだから、俺も少しは余裕が持てているのだろうか。ちょっと安心。
扉から二十歩程進んだところで足を止めた。ちょうど屋上の真ん中くらいの位置。
振り返り、芹沢と向かい合う。
しばらくその状態で待つと、彼女は意を決したように口を開いた。
「あの、私。栗木君のことが……」
続く言葉が訪れず、見れば芹沢は体を震わせていた。それはきっと寒さのせいだけではないだろう。
彼女がこれから言おうとしている言葉は、それほどの緊張や恐怖を伴うことなのだ。
「く、栗木君のことが……ッ!?」
『す』。芹沢の口がそう動いたように見えた。
しかしそれを口にする前に、俺とふと目が合った彼女は、驚愕の表情を浮かべて押し黙ってしまった。
見開かれた瞳でまじまじと俺を見つめ、わなわなと唇を震わせる。
なにごとか、と思いつつも黙って待っていると、芹沢は再び口を開く。
「あなたは、誰?」
聞かれた瞬間、背筋が凍った。まさか気付いたのだろうか。
焦りが表情に出るのを、嫌でも自覚する。
「だ、誰って、俺は栗木勇人だ。何を言ってるんだ」
「栗木君は、自分のこと俺なんて言わないよ!!」
ズバッと指さし、芹沢が言う。逆三角形に吊り上がった目で、俺を睨みつけていて凄く怖い。背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
なんで、俺がこんな思いをしなきゃいけないんだ。
「何か言ったらどうなの? この悪魔!!」
「はあ? あ、悪魔?」
聖莉の口からは思いがけない単語が飛び出した。
「だってそうでしょ!! 悪魔は人間に憑依するもん。私、知ってるんだよ!!」
うわ、なんかもう発想が残念。……とはいえ、間違ってると言い切ることもできないかもしれない。
確かに俺は芹沢が言うように、栗木という人間ではない。
「はあ、しょうがないな。まあ、バレて問題がある訳でもないし別にいいか」
いまだこちらを睨み続ける芹沢に、さすがに観念して言う。
そうして俺は語った。
数日前、俺の身に起きた出来事。そして、それにより、友達と呼べる存在すらいなかった俺を、突然学園一の人気者へと変えた現象を――。