混沌
クトゥルー神話の這い寄る混沌、ナイアルラトホテップのイメージ。
彼は読んでいた本を閉じると、細く息を吐いて目を閉じた。
実に長い物語であった。
これを書いたものは、恐らくその命を削って書き綴ったのであろう。
そういった記述がある訳ではなかったが、選び出された言葉の端々から、それは伝わってきた。
随分、良い書に出会ったものだ。
彼は口元を三日月に歪め、再び息を吐く。
シューっと、深いな音がするのは、長らく呼吸を忘れていたせいであろう。
己の呼吸音すら煩わしくなるほどに、集中していたという事か。
彼は今は亡き著者を称える為、二、三度手を打ち鳴らした。
正直なところ、このような書に出会えるとは思ってもいなかったのである。
今日、この書に出会えた事は、彼にとって無類の悦びであった。
長きに渡ってひたすら混ぜ合わせた混沌が、ようやく実ったようなものである。
これを機に、終いにするのも良いかもしれない。
彼は思った。
これ以上の傑作が、今後現れるとはとても思えなかったのだ。
加えて、彼が今の姿を借り、ここに座して幾星霜。
些か飽きが来たのも事実である。
ならば、程よく混ざった混沌をぶちまけて、新たなきっかけとするに丁度良い。
彼は閉じた書を棚に収めると、指先に絡まる混沌を掬い上げた。
ゆったりと濁った双眸が愉悦に歪み、これから始まる新たな“終焉”に胸が高鳴る。
現実は小説よりも奇なりと、そういう言葉があるらしい。
ならば、先程の書よりも素晴らしい混乱と狂気と絶望を与える事こそ、彼が与える最大の賛辞であろう。
『さぁ狂えよ。人間ども』
かくして、神話は再び甦る。