王手 ~詰められない距離~
風に揺れる窓ガラス。その向こう側は、既に暗い。天気予報によると、今夜はこの冬一番の冷え込みになるそうだ。深夜には雨か雪が降るらしい。
一年前、去年のクリスマスもこんな天気だった。世間はホワイトクリスマスに浮かれていた。しかし、雪に不慣れなこの街。自動車の運転には気を付けてほしい。スリップした車が歩行者へ突っ込む事故が起きた。あんなことは、二度と起こってほしくない。
そんなことを考えながら、彼をみる。その表情は1年前よりも更に真剣。絶対私に勝つと決めている表情。
互いに一礼。
「よろしくお願いします」
1年ぶりに、彼との対局。クリスマスイブの夜に将棋を指す男女はなかなかいないだろう。
先手の彼は、歩を突く。
―パチン―
駒と盤が乾いた音を立てる。
彼はおもむろに顔を上げ、変わらず真剣な表情で言う。
「ミク、メリークリスマス。今日は絶対に、ミクに勝つよ」
将棋の対局、真剣な表情。それとは似合わないクリスマスの言葉。そのミスマッチに私は言葉を失い、返すことが出来なかった。
しばらく、無言で黙々と指し続ける。薄暗い部屋に響くのは、駒と盤が当たる乾いた音のみ。
今日の彼は、昨年までとは打って変わって攻めに徹している。桂馬が私の陣へ入り込む。しかし成らずに銀将を狙っている。見渡すと、角道が利いている。このままでは、彼に詰められてしまう。
押している状況に気をよくしたのか、彼が何気ない質問をしてくる。
「今日は寒いね」
私は歩を上げて角道を開ける。この一手で、盤面が変わることを確信して答える。
「この部屋は、暑すぎるよ」
石油ストーブが焚かれているこの部屋は、かなり暑い。そして、灯油の臭いが鼻に突く。
飛車を振って、反撃体勢が出来上がる。
ーパチンー
絶対に負けられない私は、勝ち筋が見えて彼との今までを思い起こす。
「私が数学を担当する、田中 美玖 です。数学のほかに、将棋も得意ですので、いつでも職員室に挑戦しに来てください」
高校1年生へ授業で最初にする自己紹介で、私はいつもこれを言う。色めき始めた高校生男子にとって、20代の女性教諭というのは妄想の的になりやすい。
最初の挨拶で、女子力の高いことを言ってしまえば、毎月男子生徒たちから告白されるなんてことに成りかねない。
男性が女性に求めない趣味を言うことで、ある程度の抑止力になる。しかしそれでも、将棋を口実に私に会いに来る生徒は少なからずいる。
私が魅力があるというわけではない。高校の教諭をやっている女性であれば、生徒からの告白は定番であり通過儀礼でしかない。
最初は彼も、その一人だと思っていた。しかし、最初に対局をしてすぐに分かった。彼は、高校1年にして将棋の経験値がかなり高い。
彼は、頻繁に職員室に顔を出しては、私に挑んで来た。まれに、それを見た他の先生も挑んでくるが、私どころか彼にも勝てない。
高校生としての彼と、最後に対局する際に言われた。
「僕、今日こそ勝ちます。だから、卒業したら僕と付き合ってください」
将棋を通して彼に触れてきた3年間で、私の心は決まっていた。彼の言葉が嬉しくてたまらなかった。
でも、私は手を抜かない。それは将棋へのプライドがあるからではない。卒業したら『元先生』と『元生徒』の関係になるとは言っても、卒業早々に男女の仲になることを、世間が許してはくれないだろう。
彼が卒業してからも、時々会って対局した。その度に彼は言う。
「僕が勝ったら、付き合ってください」
それが嬉しくもあり、もどかしくもあった。将棋にかこつけることなく告白してくれれば、私はOKするのに。なぜ毎回「僕が勝ったら」なのだろうかと。
今思えばそれは当然のこと。彼にとって私は高校時代の先生であり、10歳も上の女性。なにかを理由につけなければ、告白なんて出来ないのだろう。
しかし、それは私も同じ。元教え子であり、10歳も年下。私がリードして男女の仲になるなんて、倫理的にありえない。
それに彼が卒業してからも、こうやって将棋を理由に会っている。いつか男として、私を真正面から口説いてほしいと思い続けている。
そして、去年のクリスマスイブ。どこへ行っても人がいっぱいで、予約をしていない私たちには行ける場所が無かった。
「僕の家、行こうか」
彼の言葉が嬉しかった。降り始めた雪でロマンチックな気持ちになりながら彼と歩く。途中、コンビニでケーキやワインを買い、初めて彼の部屋にお邪魔した。
ついに、彼とそういう関係になれる。そう思っていた私の期待は、将棋盤と駒を準備する彼によって壊された。
彼が勇気を出すのを待って、すでに三十路の私。裏切られた気がして、いつもの彼の言葉に腹が立った。
「僕が勝ったら、付き合ってください」
私は、不満を駒に込めて指した。今までにないほど、完膚無きまでに彼を叩きのめす。
そして、捨て台詞を残し、彼の部屋を後にした。
「なんで将棋なんて関係なく、私との距離を、私との関係を詰めてくれないのよ」
その言葉が、彼への最後の言葉になるなんて思っていなかった。
クリスマスイブの夜。彼の部屋を出ると、既に雪が積もり始めていた。雪で滑らないよう、視線を足元へ向けた。それに、行き交うカップルの幸せそうな表情など見たくなかったので。
けたたましいブレーキ音に気づき、視線を上げる。そこには、一台の自動車。雪でコントロールを失い、タイヤを滑らせてこっちへ向かってきていた。
あれから一年。今日の彼は、過去の彼とは違い、覚悟が決まっている。将棋で私を詰め倒し、そして私との距離や関係も一気に詰める覚悟が出来ているのだろう。
彼が銀将を上げる。
-パチンー
盤面を私が何度ひっくり返しても、彼は攻めの姿勢を変えない。
私は飛車を振り、銀将を牽制しつつ攻めの道を窺う。
ーパチンー
灯油の臭いが充満する部屋。煌々と灯る石油ストーブでひどく暑い。彼の全身から汗が噴き出していて、かなり息苦しいようにしている。
彼は手駒から桂馬を打ち、角と金将を同時に狙ってくる。
-パチンー
この桂馬を歩で取れば、角道が開いてしまう。私の頭に『投了』の言葉が浮かぶ。
彼は私を真っすぐ見て、言う。
「僕、強くなったでしょ? 今日は勝つよ、絶対に。そして、ミクとずっと一緒にいる。去年のようなことには、絶対にしない」
彼の、この真っすぐなところが私は大好き。彼には笑っていてほしい。だから私は、絶対に負けられない。
彼の桂馬を無視し、角で強引に攻め入って王手をかける。
ーパチンー
取られても取られても、私は連続して王手をかけ続ける。
ーパチンー ーパチンー ーパチンー
集中しているのか、それとも部屋が熱すぎるのか。すでにほとんど呼吸が出来なくなった彼。その手が止まる。
もう力の入っていない彼の顔を見て、私は最後の一手を指す。飛車で香車を取り、成る。
ーパチンー
パチン、バチンバチン、バチバチバチ
「王手」
ドーン
ついに、部屋中に燃え広がっていた火が、ガスに引火したのか、大きな爆発音。そして、彼が椅子から崩れ落ちた。
彼の部屋から他へ燃え広がる前に、消防隊により鎮火された。タンカで運び出される彼。雪が止み、雲の隙間から覗く月が彼を照らす。
私は、彼を見下ろしながら呟く。
「生きて、強くなって。私は空の上で、いつまでも待っているから。」




