17 四度目の、修羅場
お茶会が始まって半刻で、私は自分の中に新しい感情を発見していた。
旦那様が、貴婦人の壁に飲まれて見えない。
分かっていたことだ。悪評さえ剥がれれば、ああなる方なのだ。夜色の正装、長身、冬の湖の瞳。壁の向こうから「まあ」「素敵」と黄色い声が漏れ聞こえるたび、手の中のカップの角度が、少しずつ剣呑になっていく。
ええ、ええ、そうでしょうとも。でもあなた方は知らないでしょう。あの人はかっこいいだけじゃなくて、かわいいのよ。こんな社交の場の姿ではないのよ。頭に葉っぱを乗せて生け垣に隠れそこねるところや、朝の一杯で肩の力がほどける、あの一瞬の顔が……って、私は何を張り合っているの。
そのとき、壁の一角から一際大きな嬌声が上がった。近くの令嬢たちが頬を染めて囁き合う。
「聞きまして? お好きな色を訊かれて、『菫色』ですって」
「奥様の瞳の色ではありませんの。まあ、まあ!」
頬が、一気に熱くなった。菫色。私の……いえ、待ちなさいレオノーレ。あれは社交の演出よ。夫婦円満を見せつける軍略として、ええ、きっとそう。……そう思いながらも、口元がゆるむのを止められなかった。重症だ。
* * *
私のほうの人の輪では、宮廷医局のユリウス様が三杯目のお代わりをしていた。
「実にもったいない! この才を十年も埋もれさせるとは」
悪い気はしなかった。おばあさま直伝のあの庭を、毒草扱いせずに褒めてくれた初めての宮廷の人。それなのに私ときたら、相槌の合間に、つい貴婦人の壁の方角を確認してしまう。
「やあ、ノーラ! ずいぶん探したよ」
その声で、春の庭園の温度が一度下がった。
シュタール男爵。三人目の元婚約者にして五股の男が、何事もなかった顔で近づいてくる。よりにもよって、家族しか呼ばない愛称で。あなたにその名を許した記憶は一度もないし、そもそもあなたの記憶ごと消したい。
次の瞬間、目の前に夜色の壁が立った。
旦那様だった。人垣をどう抜けたのか、音もなく私と男爵のあいだに立ちはだかっている。広い背中から、冷たい風が吹いているようだった。
「……妻に、何用だ」
シュタール男爵が白目を剥きかけている。ほんの少しだけ、いい気味だと思った。毒婦なので。それでも袖を引いたのは、旦那様の指が剣の柄の位置を探していたからである。あなた、ここは戦場ではありませんのよ。ふふ。
* * *
黄色い声とは別の悲鳴が、その直後に上がった。
振り向くと、年配の侯爵夫人が倒れ込むところだった。転がるカップ、芝に広がる薄い金色。集まる人垣。誰かが叫んだ。
「毒よ!」
「みて!あれ、公爵夫人が振る舞われた薬草茶だわ!」
百の視線が、私に突き刺さった。
ああ、これ、知っている。婚約破棄の修羅場で三度浴びた、あの視線だ。世界がお前を犯人だと決めた瞬間の空気。血の気が引いて、指先が冷たくなって……。
落ち着きなさい、レオノーレ。あなた、修羅場は四度目でしょう?
私は倒れた夫人を見た。唇の青紫、指先の痙攣……。膝から崩れる直前、夫人は胸を掻きむしっていた、そう、呼吸の詰まり。私の庭のどの配合でも、あんな症状は出ない。
「毒婦が! やはり毒婦だったのだ!」
人垣のどこかから、投げ込むような声がした。誰かが書いた筋書きが、幕を開けたのだろう。周囲の視線が確信に変わっていく。三度の破談のときと同じ。誰も証拠なんて探さない。
そのときだった。
旦那様が、無言で歩み出た。倒れた夫人の傍らの卓から私の茶壺を取り、手ずから注いで、数百人の前で一息に飲み干した。
「なっ……旦那様!?」
悲鳴を上げたのは私である。何をしているのこの人は、もし壺ごと細工されていたら! 駆け寄る私の前で、旦那様は空のカップを静かに置いた。
「……美味い」
凍りついた会場を、冷たい瞳がぐるりと見渡す。
「妻を疑うなら、まず俺を通せ」
残虐公爵という名を、この人がこれほど正しく使った日はなかったと思う。
私は震える手を握りしめて、旦那様の隣に並んだ。四度目の修羅場は、初めて、隣に人がいる。
「旦那様。あの症状、私の庭の草では出せません」
「……ほう」
「でも、出せる草に心当たりがあります。実際に飲んだ人を見たことはありませんが、書物で読んだことがあります。その、唇が青くなる、釣鐘型の青い花」
旦那様の瞳が、すっと細くなった。猛禽が、獲物の影を捉えた目だった。
「……帰りの馬車で、軍議だ」
「はい! 旦那様」
誰かが私たちに筋書きを書いた。ならば今度は、こちらがその手を読む番だ。
毒婦と残虐公爵の、初めての共闘が始まった。




