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春秋の牡丹4章

四章 智瑶


   1


 原過と楚隆を見送った趙無恤は、後方にいる側近達を見やった。高共、陽虎、新稚狗、天狙、張孟談……もう一人、見なれない青年がいる。

延陵生(えんりょうせい)、戻ったか。して、首尾は如何であったかね」

 無恤の視線の先にいる青年は孟談よりも若く、二十歳にもならない駆け出しと言った感じだ。

纏う衣装は高共と似た感じだが、目下らしく質素な雰囲気を見ると、軍師見習いの若手と言った所だろう。彼の後ろには、箱が積まれた馬車と千人近い兵士を乗せた戦車が停まっている。

「殿、申し訳ございません。呉王陛下に謁見は叶いましたが、越が北上してきた故に、援軍は出せぬとの事でした」

 紀元前四八五年、夫差が治める呉は中原進出を目論んで斉討伐の会盟、すなわち覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶに当たって、盟主の座を狙わんとしたが晋の活躍で阻止された事があった。

 その三年後にも夫差は盟主の地位を狙って晋と争ったが、趙鞅が一喝したために頓挫した。また、息を吹き返した句践率いる越による侵攻があった事もあり、北上計画は取りやめて和平路線をとっていたのであった。


 越による外患に悩んだ夫差は一計を思いついた。呉の産物だけでなく、句践に与する部族の捕虜を蛮族奴隷として晋公家や趙氏など六卿に贈与し、友好と懐柔の進物にしていた。その一人が天狙なのだ。

事実、晋も魯や鄭との戦争など対外問題に苦しんでいたため、呉との友好を歓迎した。特に趙鞅は、自分が命がけで止めた相手である夫差が戦いを起こしてくれた事で名を馳せたため、喜んで交わりを深めたのであった。

 先述した、趙氏と呉王家の親密な間柄は、こうして生まれたのだった。

「そうか、大儀であったな。呉王もお大変なのに、かくも我らを気遣い下さって忝い事だ」

 頼りにしていた呉国の援軍が越の妨害で足止めされている事を聞いた無恤は苦々しげであった。鄭を助けかねない斉を呉が海上からでも討ってくれたら有り難かったのだが、向こうも大変なのだから贅沢は言えない。

「これが呉王陛下からの贈り物です。配下の職人と呉鉤(ごこう)の刀を役立てて欲しいとの事でございます」

 延陵生が紹介している呉鉤とは、読んで字の如く呉国で生産されている曲刀の事を指す。中国北部が突き刺す戦法の直刀を主流にしていたのに対し、南方では斬り付ける曲刀が発展していた。呉がそうした刀の名産地であった事から付いた名が呉鉤であった。


 無恤は、呉から送り込まれた職人や輸送兵が余りにも多いのに訝しげであったが、物資と技術の提供を受けた嬉しさが先走った。

「これは素晴らしい出来じゃ……大事に使わねばな。新稚狗、天狙よ。お前達も剣を使って見ぬか?」

 主の呼びかけに応じ、異民族の猛将二人が歩み寄った。新稚狗は(しゅ)と言う棍棒を馬上から振り下ろし、天狙も(すい)と言う重りが付いた小ぶりの打撃武具を愛用していた。だが、これでは荒々しい蛮人そのものであり、華夏の軍人とは言えぬと感じた無恤はこの機会に刀剣を勧めたのだ。

「こいつぁ、ありがてえ事です。若さんに歯向かう野郎共は、俺様がこの刀で膾にしてやらあ」

 騎兵用と思しき、大振りの呉鉤を手にした新稚狗は早くも獣性を露わにし、笑みを浮かべて舌なめずりしている。天狙も相方に負けじと、

「おらはこれにしますだよ。忍び込んでも使えそうなのが良いなあ」

 彼女が取ったのは柳の葉を思わせる小型の呉鉤で、暗殺や護身用に適しているようだ。

「気に入ってくれて何よりだ。呉からきて下された職人衆には新たに剣を打って貰い、将兵諸君には扱い方の指南を頼もうか」

 先程の怪訝そうな顔とは打って変わって、無恤は穏やかな表情で呉が派遣した兵士や職人に指示を出し、彼らに職場と寝所を用意する旨を伝えた。夫差が如何なる魂胆で兵器を送り、人を派遣したのかは分からないが、趙氏の力となるならばそれに越したことは無いと考えたからだ。

「これ、孟談よ!」

 思索に耽っていた無恤は、背後に控えていた孟談に一瞥と共に声をかけた。


「はい。御曹司、どのような御用でしょうか?」

 突如として無恤の視線と声が注がれたので、孟談は慌てて跪いた。

「呉の方々が滞在する場所と饗応、お主が用意致せ。そして、主も好きな剣を取るが良いぞ。如何にお主が文官だからとて、戦場では誰も手加減してはくれんからのう!」

 微笑を浮かべた主君の叱咤を受けた孟談は、迷った末に腰帯に挟める中型の刀を拝領した。

従来の突き刺す直刀は、庶民上がりの文官で武芸の心得が無い孟談が用いた場合、仕留め損なうだろう。だが、鋭い刃で斬り伏せる呉鉤ならば一撃で倒せる確率も高かろうと思い、選んだのだった。

「そう言えば、阿譲は近くの武芸者さんに剣を習っていたな。私が文官だてらに曲刀を振るう男になったと知ったら、驚くだろうな。しかし、阿譲はどうしていることか……会いたいものだな」

 護身のための刀剣を下賜された孟談は、光る刃を日に翳しながら、友を思い起こした。だが、勤勉で朴訥な彼は呉からの来訪者をもてなして居住区を用意する仕事があるのを優先し、豫譲との思い出を忘却の彼方に押し流したのであった。


   2


 そんな孟談らを気にしつつ、延陵生は続けて報告した。

「呉王陛下は大殿様と御曹司に対し、それぞれ戦いの場は違うが、互いに国難を乗り切ろうと激励の御言葉を文に託されました。これでございます」

 延陵生が無恤に手渡したのは夫差から趙氏への親書で、内容は以下のようなものであった。

趙氏は多士済々たる人材を抱えつつも、従順にそれらを従わせている事は他国に類を見ない。呉国もあやかりたいものだが、不服従を行う者が多くて困っているとの旨が記されていた。

そして、趙氏は鄭攻めと言う大事にあっては天下の逆臣・伍員(ごうん)の如き輩を出さないよう、何卒御用心あれと言う事が記されていた。

「伍員……子胥(ししょ)軍師の事が、だいぶ堪えておいでの様子じゃな。如何に問題があれども、貢献を認めるべきを認めぬ厳しさが、夫差殿の短所なのだがな」

 夫差が逆臣と罵る呉国の軍師伍員は、伍子胥と言う字の方で有名な、堂々たる巨躯と風格を兼ね備えた、楚国生まれの賢者である。彼は夫差の父である闔廬(こうりょ)王の時代から仕官し、多くの献策で名を挙げ、越王句践を夫差の軍門に降したのはその最もたるものだ。だが、惜しむらくは性格に問題があった。自分の父や兄弟を虐殺した楚の平王が既に没していても墓を暴いて、死屍に鞭打った一件は有名である。

 その事件を始め、執念深き激情の人としての一面が余りにも強烈であったために、呉の君臣は徐々に彼を煙たがるようになった。


更に越軍の范蠡(はんれい)の策に乗った、子胥とは同郷で宰相の伯嚭(はくひ)が夫差に悪口を吹きこんだために紀元前四八四年、ついに子胥は死を賜った。

「我が墓には梓の木を植えよ。王の棺を作るために。そして、越の方角にある東南の城門に我が目をくり抜いて置くが良い。越が侵攻して来るのを見届けるために!」

 このように、死に際にも過激な発言を繰り返したため、夫差は彼の亡骸を袋に詰めて長江に投げたと言う。まさしく、執念と激情の忠臣であったのだ。

「我が軍の人材を褒めて下さるのは良いが、直言した子胥殿を逆臣の引き合いに出し、それも故人を詰るとはな。覇王として脅威に対抗するには、人材の選り好みは出来ぬよ……晋は、趙はそうなってはならんのだ!」

 無恤は鋭い眼を虚空に向けた。それは、遠い未来への布石を考えているかのようであった。それから数日後、原過と楚隆が帰館した。書簡と進物を受け取った韓・魏両家は快く参戦を約束してくれた。これで鄭征伐の支度は整ったのだ。

 孟談は、無恤や同僚達と共に荷造りと兵員召集を行い、鄭への進軍準備を整えた。延陵生は無恤と高共から書類を預かってまたどこかへ行っていた。

「高家宰。延陵生殿はどちらに行かれたのでしょうか? 呉から戻られたばかりなのに、休む間もなく奔走なさっていますのでお疲れでしょう」

 孟談の質問に、高共は微笑んで返答した。

「張君、若い者は使い走りばかりとお思いじゃろう。だが、彼は外交が仕事なのだ。安于殿の一門でも、特に言語力に秀でているからな」

 

 延陵生は、智氏の陰謀で自殺に追い込まれた董安于の遠縁に当たる下級官吏の息子だ。一族の大黒柱を亡くし、困窮する彼の一家を憐れんで救いの手を差し伸べたのが高共だった。亡き安于への、せめてもの報恩として引き取って学問を仕込んだ所、延陵生は抜群の記憶力を発揮し始めたのだった。

 その博覧強記ぶりは、洛陽の雅にして威厳ある言葉から、呉越や魯、斉の方言、そして北狄や南蛮の言語まで覚えて理解するほどであった。つまり、延陵生は記憶力と話術を買われ、外交官としての心構えと交渉術を高共や無恤に仕込まれていた若き逸材だったのだ。

「延陵生殿は私より年下なのに、本当にしっかりしておられる御方です。それに、家宰と亡き董閣下は今も義で結ばれています。どれも見習わねばなりませんね」

 孟談は延陵生の優秀さに感心する一方で、その彼を育てる高共が董安于と培った友情にも深く感じ入った。自分も斉に行った親友の豫譲がいるので、高共と同じ立場になればきっと自分も彼の身内を助けるだろう。友と言うものは斯くありたいものだと感じたのだ。

「陵生と拙者を褒めてくれてありがたいが、人は得手不得手がある。お主は、得意な情報収集で活躍されよ。陵生は代国の崇王彦(すうおうげん)陛下のもとへ行ったのだ。主にも代について話さねばのう」

 高共は穏やかな顔で、趙氏とは縁戚でもある北狄の国・代国について語り出した。


   3


 晋の西側に位置する代国の王・崇王彦は商王朝の時代から続く名門・崇氏の当主で、本名を崇彦(すうげん)と言う。崇王彦と言うのは崇家の彦と言う王を意味する。崇王彦の妃は趙鞅の娘、つまり伯魯の妹で無恤の姉だ。言わば、崇王彦は趙氏にとっては外戚でもある。

彼の祖先は、周の開祖である武王と、父の西伯昌(せいはくしょう)文王(ぶんのう))に敵対した大豪族・崇侯虎(すうこうこ)とされる。この武将は、商の暴君として有名な紂王(ちゅうおう)に加担し、西伯昌を讒訴するなど悪行を重ねたために西伯・武王(ぶおう)親子に倒された。

 そのため、崇侯虎は『武王伐紂(ぶおうばっちゅう)平話(へいわ)』『封神演義(ほうしんえんぎ)』など後世の文学では矮小な悪人として描かれるが、それは彼が所属していた商が覇者の地位から転げ落ち、その商に崇家が殉じたからである。

 仕えていた商が健在なりし頃は、崇侯虎とて英雄の器は十分であり、言わば崇家の虎殿様(侯虎)と言う名に恥じぬ実力者と言えたのだ。西伯昌と武王に主家共々に敗れた崇家は没落の一途を辿り、周の都から離れた代に落ち着いた。

 その後、敵対した武王の子である唐叔虞(とうしゅくぐ)が封じられて来た時に崇家は晋平定に協力して部族王の称号を認められたのであった。こうして周の()氏と和解した崇侯虎の一族は、同じ商の遺臣であった季勝(きしょう)の子孫であった趙氏と手を組んだ。

 なお、趙氏の祖先たる季勝は、俊足で知られた蜚廉(ひれん)大臣の子で、怪力で名高き悪来(あくらい)将軍の弟でもある。この二氏族は共に支えあう事で栄え、今に至るのだ。


「趙と崇家はな、周の天子様に盾突いて負けた者同士で汚名返上すべく、手を携えあって来た。此度も崇陛下は義弟である若をお助けすべく、共闘なさるのだ……臣下である我ら、何をや言わんかじゃ」

 高共の昔語りを聞く孟談の胸には、感動の嵐が押し寄せていた。趙氏とて最初から栄光ある貴族ではなく、滅びた王朝の家臣だったのが同じ境遇にある同志と助け合い、晋の六卿としての今がある。

 やんごとなき方とて同じ人間としての苦楽があり、心もあるのだ。その度合いが殊に大きいのが、庶民である自分を引き立ててくれた趙無恤と言う事実は厳然として存在する。今回の鄭攻めの際にも、我が策を聞き入れて護身の刀まで下賜した殿の思いを、今度こそ自分が叶えねば。

「承知致しました。晋陽と邯鄲だけでなく、各都市の酒場に集まった情報を統計します。そして、食料や飼い葉の補給をして参ります」

 趙氏の来歴を聞いた孟談は、昔日の栄光の座に趙氏を、恩義ある無恤を押し上げるべく、身命を賭す覚悟で自分用の馬車を走らせた。希望の星たる御曹司をお助けするのは、庶民ならではの経路で情報や食料を調達できる自分なのだと、我が心を鞭撻したのだ。


 年が明け、春になった。韓氏の韓虎(かんこ)、魏氏の魏駒(ぎく)が挙兵する期日も迫っており、支度も整った趙軍は先陣を切って智氏の援軍へと駆けつける事となった。

孟談は親しい豪農や商人と話を付けて安く仕入れた物資を点検しつつ、鄭の首府・新鄭(しんてい)方面から来た客の情報をまとめた竹簡(ちっかん)に目を通していた。

「新鄭へ行くには前方の砦を破らなくては……でも、堅固な砦を破るには新稚狗殿や崇陛下の騎兵でも難しいな」

 そこに、

「孟談、精が出るな。」

 何と、無恤が竹簡を覗き込みつつ、笑って現れたのだ。

「これは御曹司。失礼致しました」

「いや、苦しゅうない。今そちが気にしていた義兄上は、後続部隊として来て下さるそうだ」

 跪ている孟談を見て笑みつつ、無恤は絳へ赴いて晋公に言上した日の事を思い出していた。


 先日、趙無恤は首府の絳で晋公である姫午(きご)と太子の姫鑿(きさく)――と言うよりかは、この親子を飾りにして晋国中の権力を牛耳っている智瑤との面会を果たした。晋公父子が鎮座する玉座の傍らに傲然と立つ智瑤は、主君を差し置いて無恤からの書状を受け取った。

 それは、明らかに晋公の権威よりも己の権力が勝っている事を見せつける行為であった。その智瑶だったが、今回の鄭侵攻に趙・韓・魏と崇王家も援軍を出す旨を無恤が奏上すると、微笑を浮かべて快諾した。

「御苦労様です。我らだけで大丈夫とは思いましたが、御三家の援軍とは勝ったも同然。御父上には、よしなにお伝え下され」

 お零れ狙いの山犬が群れて来たか、と内心で嘲っている事は明白な歪んだ笑みを口元に湛えた智瑤に、老いた姫午と、若年の姫鑿は顔を引きつらせながら追従笑いをしていた。

「これでは主従逆さまではないか。智躒・智甲殿の代から晋公家は智氏の言いなりだったが、智瑤は輪をかけたひどさじゃな」

 乱世の事とて、権威や奇麗事など通じる訳ではない。だが、中行・范両氏追討を起こし、晋国内を混乱させた智氏の横暴は行き過ぎだ。修羅場を掻い潜った無恤も趙鞅にもそう見えてしまったのだった。

 盟友になったとは言え、鄭攻めが終わればどうなるか分からない。またしても敵対する可能性は大であろう。そんな不安を抱えながら、趙氏の未来を守り抜くべく無恤は出陣式の場へと足を進めた。春の暖かい風も、彼にはどこか冷たく感じたのは、今後の未来を肌で感じていたのであったのだろうか。


   4


 趙無恤は、父趙鞅・亡兄伯魯の代理人として自らの馬車に父の名を書いた旗と、兄の位牌を乗せて出陣式を行った。出陣するのは大将の無恤以外に、無恤に直属する戦車隊の陽虎と楚隆が受け持った。戦車は貴族の特権であり、総大将や幹部が受け持つ兵科であった。

 趙氏が誇る切り札と言える騎兵隊は、新稚狗が賊時代から率いて鍛え抜いて来た蛮族部隊と、代から来援する崇王彦の軍で構成された。そして偵察は天狙と、特殊部隊も各々の得意分野で振り分けられた。なお、戦車に次ぐ主力である歩兵隊は商人や豪農とのつながりで補給班を受け持つ張孟談と、神官としての知識を活かして衛生兵を率いる原過、そして外交官と本陣警備の延陵生が三分割で受け持つ事となった。

 弓での援護射撃、ないしは白兵戦で占領や掃討を行う歩兵は、攻撃に特化した戦車や騎馬と違って輸送や医務を行うなど守りや補佐を受け持った。ただ、高共は晋陽城に残った。それには相応の理由が二つあったからだ。一つ目は幼い趙周や趙嘉だけでは心許なく、老いた趙鞅に万一の事があった場合に備えて、有力な留守役の家臣を残す必要があったためである。

 二つ目は、智氏の陰謀で董安于を殺されて辱められた一件で気が昂り、満足に戦えない事を高共が恐れて自ら辞退したからであった。


「御曹司、行ってらっしゃいませ。御武運をお祈り致しまする。お供出来ぬ、不甲斐なきじいを、どうかお許しあれ」

 深々と頭を垂れて拱手する、元教育係の家宰を無恤は抱き起こし、もう一人の父でも見るかのように諭した。

「気にするでない。幸い、阿嘉も発作が治まっておるし、老父の体調も悪くない。それに、周殿もいるからのう。彼らに、お主が直々に心構えを教える良い機会ではないか」

「拙者に若君達の指南役をせいと……心得ましてございます。留守役、命をかけて務めまする」

 無恤は側室の子であり、しかも粗野な一面があったために後継者に反対する声もあったため、高共は教育係の責務を全うできない時には自害して償うつもりであった。

 だが、そんな悪評が立った子供であったとは思えないくらいの傑物に無恤は成長した。その凛々しき大将姿に相応しい恩情と言葉に、高共は思わず声を詰まらせた。無恤は高共の隣にいる中年の女性にも声をかけた。


「そちが一番知っておろうが、じいは心配性だ。(かく)婆やよ、父と我が子と甥の面倒を良く見てやっておくれ。では、行って参るぞ」

 無恤が肩を撫でたのは、高共の妻・郭氏だ。彼女は晋陽に店を構える商家の令嬢だったが、趙鞅の媒酌で高共に嫁いでいた。そして、夫と共々に趙鞅から無恤を託された乳母でもあった。郭氏もにっこりと笑い、

「まあ、畏れ多い事です。若様も御身体をしっかりと気遣われ、御自愛下されませ。婆やもお城を守らせて頂きますゆえ、心配なく(いさお)を挙げて下さいまし」

 じい、婆やと呼ばれているが、高共も郭氏も老人と言う歳ではない。だが、無恤は教育係と乳母をしてくれた夫妻を自らの両親か祖父母の如くに敬愛し、そう呼ぶのであった。

 今度は趙周と趙嘉が空氏に伴われ、若者を代表して挨拶をする事になった。

「叔父上。私と趙嘉殿は往けませぬが、留守をお預かり致します」

「父上、御武運を。私は、周おじ上と共に城をお守りさせて頂きます」

 甥と長男の言葉に無恤は満足げである。続いて会釈をしている空氏を見やり、

「お前達も頑張ってくれよ。女・子供とて、趙氏の未来を背負う大事な一員、良く心身に気を付けよ」

 無恤も一人の男性であり、夫・父・叔父である。だが、君主と言う立場を優先せねばならない以上、臣下を先にして身内を後回しにするのは当然なのだ。

「では、出陣の(とき)をあげよ。鄭攻めに往く者、城に残る者、各々の務めを果たし、趙隆盛の礎とならん事を!」

 息子が皆への挨拶を終えたのを見た趙鞅は登壇した。そして、塩辛声で“御言葉”を重臣から兵員に至るまで賜り、一同の士気を鼓舞したのであった。

「者共、我らは絳で智氏と合流する。先陣の栄誉を以て、鄭の首府・新鄭への一番乗りを果たそうぞ!」

 趙無恤率いる趙軍は、戦いの地たる鄭へと南下していったのだった。


   5


 南下していく晋軍を見送る面々の中には、董安于の遺族らもいれば、原過の一門である神官や巫女、陽虎が魯から連れて来た亡命者達もいた。

彼らは士の身分であるため、見送りにも気品はあったが、新稚狗の子分である北狄や、天狙と同族の南蛮部族は大声で騒ぎ立てていた。

「親分、天狙さんと一緒に頑張って来てくれよな!」

「選ばれた奴らも真面目にやれよ。しっかり暴れて、鄭の連中に思い知らせて来なよ」

華夏の文化を万邦無比のものとしていた当時の常識で見れば、野蛮極まりない振る舞いであった。

だが、そんな彼らに対して誰も嫌な顔をしないのは、英雄である新稚狗への思慕と近くで遊牧民に接しているが故の風潮であった。

 孟談が戦車に乗って歩兵隊・輸送班を率いて行くと、道端に“大人(たいじん)張孟談”と書かれた旗を振る人々がいた。彼の両親や弟妹、親族一同であった。

孟談は邯鄲に移った際、情報収集のために店を移築していたが、晋陽の店を近場の親戚に任せて拠点にしていた。ここから得られる情報もまた、貴重であったからだ。


 親兄弟も邯鄲に住まわせようとしたが、店で好評の地酒は郷里で採れる穀物や水でしか仕込めないし、長男の孟談が帰って来る場所を守りたいとの事で残ったのだった。

「長男でありながら家も守らないで……済まない」

 両親は、豫家の人々から教わった学問を活かすようにと諭し、高共が仕官の勧誘に来てくれた時にも、大いに喜んで賛成してくれた。自分の夢を応援してくれた家族には、家を継ぐ事が出来ない以上、これから出征する戦の成功で報いよう。孟談は車上から沿道で祝福している家族や親族へ手を振ると、初陣の誓いも新たに絳への道を進んだのであった。


 邯鄲を出てから七日後、絳に到着した無恤は智瑤と会談を始めた。韓虎や魏駒も手勢を率いて集まり、後は崇軍の到着を今や遅しと待ち受けていた。

 孟談が絳の基地に設けられた無恤の私室に呼ばれたのは、そんな喧騒のさ中であった。

「孟談、主は酒屋の亭主であったな。その方は、宴会を計画した事はあったかの?」

 私室で書物を紐解いていた無恤は、入って来た孟談に問いかけた。

「はっ。然様でございます」

 孟談は主君からの下問に、正直に答えた。確かに、晋陽や邯鄲の城下町にある孟談の店は、都市の商人だけでなく、農民や役人も集う交歓の場であった。

 その酒場は酒だけでなく、彼が情報収集の際に集めた各地の名物料理や歌舞音曲、出し物などが多彩であったため、非常に人気であった。そうした酒場には、宴会を依頼する人々が引きも切らず来店し、無恤と孟談が出会った頃以上の面白さが満載の、陽気な酒場となっていた。

「初めて出会った時に私をもてなした酒肴、南方の装飾品、北方の民謡は心躍る楽しさがあった。そこで、主には会盟と出陣の宴を計画して貰おうと思う。どうじゃ?」


 無恤の命令は、余りにも唐突だった。それには、呑気者の孟談も仰天した。確かに、経験を生かせる酒場経営だけでなく、城中で兵士や役人を相手に行われる酒宴も取り仕切った事はある。

だが、これは全て内輪で行われる非公式のものだった。新年や祖先祭祀など、言わば公式の宴会は高共や原過がしていたため、孟談は全く未経験なのだ。

「私に、勤まりますでしょうか。御曹司に恥をかかせる事があっては……」


 孟談の目に怯えを見てとった無恤は、おもむろに近づいてきた。口元は笑っているが、眼は獲物を狙う猛禽のように鋭かった。

「お主は水じゃ。水が岩を恐れるのか?」

 岩が水を恐れない。孟談は、無恤の言わんとする事が分からなかった。だが、無恤の言葉は続いた。

「分からんようじゃな。すなわち、主は堅実だが、いざとなれば奇抜な事も出来る。そう言う事だ。恐れず、やってみるが良い。趙氏の新風よ!」

 無恤が孟談の鼻先に突き付けたのは、盟友達をもてなす宴会を張孟談に一任する命令書であった。

自分をそこまで重用している主君の心の有り難さに、孟談は顔も上げられずしばしの間感涙に咽び、宴こそ我が前哨戦なのだと決意したのであった。


   6


 無恤から命令書を受け取って以来、孟談は絳の市を巡って宴会の支度に奔走した。料理人は自分が指揮するとして、踊り手や楽士は神官である原過に借りる事とした。

当時は陣中でも祭祀や礼儀を重んじたため、その一環である歌舞を司る者達が軍中にいる場合もあったのだ。

「張殿、これは私が以前に高家宰と共に催した宴会の記録です。宜しければお使い下さい」

 宿舎で孟談を呼び止めた原過は胸を張り、満面の笑みで竹簡を手渡した。彼は戦場で行う祭祀のため、宴の手順や配置を書いた資料を携帯している。

「ありがとうございます。お借りした書物、大事に使わせて頂きます」

 孟談は有り難そうに頭を下げ、新稚狗や天狙、陽虎が待機している市場へ向かって行った。それから間もなく、薬を調合している原過のもとに楚隆が来た。

「原過殿、お人好しもいい加減になさい。あの田舎者に手柄を立てる手伝いなどして、何とします」

 戦に臨む高貴な武人としての自尊心が強い楚隆は、相方であり清き神官である原過が、成り上がり文官の孟談に肩入れするのが面白くない。勇壮を重んじる戦場の宴ならば華美は不要であって、歌舞や装飾で盛り上げると言う宴会は邪道だ。そう考える楚隆が良い顔をしないのは当然と言えた。


「それは分かっています。ですが、新たなる世の中をお創りになろうとする御曹司の御志を守るのが我らの責務。そうではありませぬか?」

 自分を厳しく問い詰める楚隆の叱責に対し、原過の返答は涼やかであり、一点の曇りも無かった。

それには楚隆も、態度を和らげて笑みを浮かべた。

「……確かに。私怨や競争よりも、御家を第一にせねばならないのが趙氏の臣。御曹司も、何か彼に思う事があるからなのでしょうし、まずは見守りましょう」

 若く真っ正直なだけに、楚隆とて強情な一面はあったが、自分が仕える趙氏のためを思えば私心を律する武人らしい潔さはあった。若武者楚隆は、走り回る張孟談と仲間達の様子を、静かに見送るのであった。


 丁度同じ頃、絳の市場を歩いて宴会の相談をする孟談一行も喧々諤々であった。

「陽虎殿、魯国ではどのような宴がございましたか?」

「そうですな。礼を重んじておったので、(かい)(なます)(しゃ)、いずれも会談の席では小さく切っており申した。来客があっても、歓談しながらでも食べやすいですからな」

 醢(肉の塩漬け)、膾炙(なますと焼き肉)は、当時の中原諸国で食された料理だ。宴会には欠かせない料理で、当然魯の上流階級にも好まれたものであろう。陽虎が言うように、食卓でも見苦しくないように細かく切られていた料理は、彼と類似した風貌であった孔丘も好んだらしく、儒家の文献に多く登場する。


一方の新稚狗はとんでもない乱暴さであった。彼は大きな身体を揺さぶりつつ大笑し、

「張旦那よ、体裁なんぞ気にしちゃいけねえ。大甕一杯の酒やら、羊の丸焼きやらを山盛りにして、酒池肉林と洒落込もうや」

「そうですね。食べ物が無いのは楽しくないし、酒も当然欠かせません。でも、酒池肉林とは行きすぎでしょう」

 豪快な新稚狗には、困憊(こんぱい)していた孟談も釣られて笑ってしまった。

「ははは、ちっとやり過ぎたかねえ。時に天狙、おめえはどうなんだい?」

 相棒の問いに、天狙は無邪気に返事をした。

「うん。飯を食べるだけじゃあ面白くねえだよ。まずは音楽を奏でて踊りを披露するだ。でもって皆で歌えば、仲良く団結できるべさ」


 その何気ない言葉に、孟談はまたしても閃いた。自信がなかった彼だったが、楽しい宴会を開くことは得意であったため、助言を受ければ良案が思いつくのだ。

「なるほど。士気を鼓舞しないと戦いには勝てないし、団結と言うのは重要と言えますね」

 孟談は迷った。北狄が好む豪放な酒宴、陽気な舞と歌が華を添える南方部族の祭、そして礼の国・魯が誇る談議重視の気配り。

「歓談に酒肴、皆をまとめる……鄭攻めの成功、趙氏の興隆を得るには、この三つが揃わなくては!」

 孟談は頷くと、竹簡を握りしめた。首府の様子を見て笑う新稚狗と天狙を尻目に、陽虎は会心の笑みを浮かべた。この若者は、きっと鄭攻めの会合をうまく成し遂げるだろう。その事を思い浮かべたかつての奸雄は、まだ老いてはおれぬと意気込むのであった。



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