8話 「筋トモ」爆誕
その夜。
いつもの街灯の下。
ことみは、もう逃げなかった。
むしろ待っていた。
(……来る)
気配。
空気が、張る。
夜風が、少しだけ冷たくなった。
まず現れたのは、
桐谷課長。
スーツ姿。
だが、その肩のラインが、いつもより際立って見える。
次に、少し遅れて、
黒川誠。
黒いコート。
既に、戦闘態勢。
二人のマッチョが、無言で向き合う。
ことみが、その間に立った。
「……今日は、実況は?」
桐谷課長が、ちらりとことみを見る。
ことみは、一歩前に出た。
「やります」
二人の目が、わずかに見開かれた。
「ただし――」
ことみは、深呼吸。
「今日は"見る側"じゃありません」
「……どういう意味だ?」
「今日からは、一緒に筋肉を見る仲間です」
街灯の下、
三人の影が重なる。
始まった。
まず、桐谷課長。
上着を脱ぎ、
Yシャツを脱ぎ、
上半身裸。
広背筋を意識したラットスプレッド。
両手を腰に当て、肘を広げる。
背中が、翼のように広がる。
その瞬間。
ことみの口が、開いた。
「き、来ました! 広背筋下部の広がり良好! 起始停止が明確! 僧帽筋中部との連動も美しい! 大円筋から広背筋への流れ、教科書レベル! 脊柱起立筋の縦ライン、くっきり!」
桐谷課長、ピクッと反応した。
(今までと違う)
(専門用語が増えてる)
続いて、黒川。
コートを脱ぎ、
ビキニパンツ一丁。
サイドチェスト。
横を向き、胸を張る。
「胸筋上部、厚み十分! 鎖骨直下から肋骨上部まで筋繊維密度高い! 三角筋前部とのセパレーションも確認! 上腕三頭筋、長頭が主張してます! 外側頭も発達良好! 肘関節の伸展、完璧!」
「……」
二人とも、動きを止めた。
黒川が、静かに言う。
「……ことみさん」
「はい」
「……勉強しました?」
「はい」
「どこで」
「町内会の集会所です」
(何故)
ことみは、少し恥ずかしそうに言った。
「佐々木会長が、筋肉の教科書を貸してくれて……」
「教科書!?」
「はい。『ボディビルのための解剖学』っていう本です」
桐谷課長が、目を見開いた。
「あれ、専門書だぞ……」
「三日で読みました」
「三日!?」
「はい。面白くて」
黒川が、感動した顔で言った。
「ことみさん……才能ですよ……」
「いえ、条件反射で覚えただけです」
(謙遜が逆にすごい)
桐谷課長が、低く笑った。
「進化したな……」
「はい」
「なら、本気で行くぞ」
「お願いします」
再開。
今度は、同時ポージング。
桐谷課長と黒川が、同じポーズを取る。
フロント・ダブルバイセップス。
二つの上腕二頭筋が、同時に盛り上がる。
筋肉と筋肉が、競り合う。
ことみの声は、止まらない。
「桐谷課長! 上腕二頭筋、ピーク高い! 長頭と短頭の分離、明確! 前腕との接続部、自然! 血管の走行、美しい!」
「黒川さん! 上腕二頭筋、ピーク鋭い! 筋腹の厚み、十分! 前腕屈筋群との連動、完璧! 手首の角度、理想的!」
桐谷課長、うなずく。
黒川、歯を食いしばる。
次のポーズ。
アブドミナル・アンド・サイ。
腹筋を絞り、太ももの筋肉を際立たせる。
「桐谷課長! 腹直筋! 白線が一直線! 体脂肪率、推定8パーセント! 外腹斜筋のカットが街灯に映えてます! 大腿四頭筋、四つの筋肉が均等に発達!」
「黒川さん! 腹直筋! 八つに割れて溝深い! 体脂肪率、推定5パーセント! 腹斜筋の斜めライン、芸術的! 大腿四頭筋! 内側広筋の涙形、はっきり! 外側広筋も主張! ハムとのバランス、理想値です!」
沈黙。
二人は、互いを見つめた。
桐谷課長が、ゆっくりと手を差し出した。
「……やめよう」
「え?」
「勝ち負けじゃない」
黒川も、うなずく。
「確認できました。互いに、ちゃんと努力してる」
「ああ」
「君の広背筋、素晴らしい」
「君の大胸筋も、完璧だ」
二人は、
固く握手した。
前腕の筋肉が、互いに押し合う。
握力対決のように。
だが敵意はない。
敬意があった。
その瞬間。
ことみの口が、勝手に動いた。
「――はい来た! 前腕屈筋群、握力に説得力あり! 尺側手根屈筋、収縮中! 橈側手根屈筋も参戦! これは友情の筋発火です!」
「言わなくていい!」
同時ツッコミ。
三人、静止。
笑った。
桐谷課長も、
黒川も、
ことみも。
夜道に、笑い声が響く。
街灯の光が、三人を照らす。
桐谷課長が言う。
「杉野さん」
「はい」
「もう、逃げないな?」
「逃げません」
「筋肉を見ても?」
「見ます」
「実況しても?」
「します」
「恥ずかしくない?」
「……ちょっと恥ずかしいです」
桐谷課長が、笑った。
「正直でいい」
黒川が、少し照れながら続けた。
「……一緒に、見ませんか」
「何を」
「筋肉を」
「……はい」
「これから先も」
「……はい」
「大会が終わっても」
「……はい」
ことみは、胸を張った。
「観察・分析・掛け声担当でよければ」
「完璧だ」
桐谷課長が、うなずいた。
「君は、もう筋肉仲間だ」
「筋肉仲間……」
「略して――筋トモ」
黒川が、にこやかに言った。
「いい響きですね」
「だろう?」
ことみは、少し考えた。
(筋トモ……)
(筋肉友達……)
(……悪くない)
ことみは、小さく笑った。
「じゃあ、私も筋トモですね」
「ああ」
「よろしくお願いします」
三人は、手を重ねた。
桐谷課長の手。
黒川の手。
ことみの手。
その瞬間。
ことみの口が、また開いた。
「前腕筋群、三人分! 握力、合計推定200キロオーバー! これぞ筋トモの証ー!」
「だから言わなくていい!」
また、同時ツッコミ。
三人で、また笑った。
こうして。
奇妙で、健全で、
なぜか温かい関係が生まれた。
その名も。
筋トモ。
---
その後。
三人は、近くのコンビニでプロテインバーを買った。
桐谷課長が、チョコレート味。
黒川が、バニラ味。
ことみが、ストロベリー味。
コンビニの前のベンチで、三人並んで座る。
「今日、良かったですね」
ことみが言うと、黒川が頷いた。
「ええ。ことみさんの実況、レベルが上がってました」
「ありがとうございます」
「特に、起始停止の話」
「あ、あれですか」
「筋肉がどこから始まって、どこで終わるか。それを理解してると、ポージングの質が変わるんです」
桐谷課長も、頷いた。
「俺も参考になった。広背筋下部、まだ甘いって気づいた」
「そうですか?」
「ああ。杉野さんの実況で分かった」
ことみは、嬉しそうに笑った。
「役に立ててよかったです」
「役に立ってるよ」
黒川が、真剣な顔で言った。
「大会まで、あと三日。ことみさんの実況、本当に助かってます」
「いえ、私も楽しんでるので」
「楽しい?」
「はい。最初は条件反射だったけど、今は楽しいです」
ことみは、空を見上げた。
星が、いつもより明るく見えた。
「筋肉を見て、分析して、叫ぶ。それが、なぜか心地いいんです」
「……そうか」
桐谷課長が、微笑んだ。
「なら、これからもよろしく」
「はい」
三人は、プロテインバーを食べながら、
しばらく星を見上げていた。
静かで、
平和で、
温かい。
筋トモ。
奇妙な関係だけど、
確かに、仲間だった。
---
その夜、家に帰ったことみは、
ベッドに寝転がりながら、
天井を見つめた。
(筋トモ、か……)
変な名前だけど、
嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだった。
筋肉を通じて、
人と繋がる。
それが、こんなに楽しいとは思わなかった。
ことみは、スマホを取り出した。
LINEを開いた。
桐谷課長と黒川との、三人グループ。
名前は――「筋トモ」。
誰が作ったのか、もう覚えていない。
メッセージが、一つ届いていた。
黒川からだ。
「今日はありがとうございました。明日も、よろしくお願いします」
ことみは、返信した。
「こちらこそ。明日も頑張りましょう」
すぐに、桐谷課長からも返信が来た。
「明日は、脚を重点的に見てほしい」
「了解です」
ことみは、笑った。
そっとスマホを置いた。
明日も、筋肉がある。
明日も、実況する。
明日も、笑える。
筋トモと一緒に。
ことみは、そう思いながら、
眠りについた。
夢の中でも、
きっと筋肉を見るのだろう。
それでいい。
街灯は、
今日も静かに、
三人を照らしている。
明日も、照らし続ける。
筋トモが、そこにいる限り!。
次回予告:
「番外編 町内会公式イベント編」何故か町内会で筋肉イベントが発生、どこまで筋肉が増殖するのか……!」
番外編 「町内会公式イベント編」に続く
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