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6話 通報されかけるが町内会に守られる



 

 その夜も、街灯は同じ場所で、同じ色の光を落としていた。


 空気が違った。

 いつもより、人通りが多い。

 いつもより、視線を感じる。


 ことみは、嫌な予感しかしなかった。


「……今日は、やめてくださいね」


 帰り道、ことみは小さく釘を刺す。

 隣には桐谷課長。

 少し後ろに、黒コートの男、黒川誠。


「今日は軽めに」

「確認だけだ」

「見るだけです」


 三人とも、言っていることが信用ならない。

 ことみは、ため息をついた。


(絶対、脱ぐ……)


 街灯が近づく。


 その瞬間


「……いる」


 先客がいた。

 道の向こう側、スマートフォンを構えた若い男性。

 二十代後半くらいだろうか。

 スーツ姿で、明らかに警戒している。

 その隣には、中年女性。

 さらにその後ろには、老夫婦。


(……観客……?)

「やばい……通報される……」


 ことみの声が震える。

 案の定、若い男性はスマホを操作しながら、小声で言った。


「すみません……あの……この辺で、不審者が出るって聞いて……」

(アウト)

(完全にアウト)


 桐谷課長が、一歩前に出た。


「誤解です。我々は――」

「脱ぐんですよね?」


 若い男性の声が、震えていた。


「いえ、脱ぎません」


 黒川が、反射的にコートの前を押さえた。


「今日は脱がない」


 桐谷課長も頷く。


「ただの散歩です」

「……本当ですか?」

「本当です」


 その時だった。

 中年女性が、一歩前に出た。


「あら、脱がないの?」

「え?」

「昨日、見たわよ。すごかったわね」


 ことみの頭が、追いつかない。


(見てた!?)

「特に背中」


 女性は、目を輝かせた。


「広背筋が、まるで翼みたいだったわ」

(専門用語!?)


 老夫婦も、頷いた。


「わしも見た。腹筋が素晴らしかった」

「八つに割れてたわね」

(観客、いた!?)


 若い男性が、困惑した顔で言った。


「え、でも……不審者って……」

「不審者じゃないわよ」


 中年女性が、きっぱりと言った。


「筋肉よ」

(それ、説明になってない)


 そのときだった。


「ちょっと、あなた」


 低く、よく通る声が夜に響いた。

 声の主は、

 町内会長・佐々木秀雄。

 七十近い、背筋の伸びた老人だった。

 白髪だが、髪はふさふさ。

 顔にシワはあるが、目は鋭い。

 体が、妙に厚い。


「何か、問題でも?」

「いえ、その……この人たちが……夜道で……」


 男性の視線が、桐谷課長と黒川に向く。

 黒川は、反射的にコートの前を押さえた。


「脱ぎません」

「今日は脱がない」


 桐谷課長も頷く。

 佐々木会長は、二人を一瞥し、

 ふっと鼻で笑った。


「……筋肉だな」

「え?」

「若い頃、ワシもやっておった」

(え)

(まさか)


 佐々木会長は、ゆっくりと上着を脱いだ。


「会長、まさか――」


 中に着ていたのは、

 体にぴったりとしたポロシャツ。


 浮き出る胸板。

 張りのある腕。

 肩の盛り上がり。


(この町、どうなってるの)


 会長が、ポロシャツの上から筋肉を叩いた。

 コンコンと、硬い音がした。


「昔は、ボディビルの大会に出ておった」

「本当ですか!?」


 黒川の目が、輝いた。


「ああ。三十年前、地方大会で準優勝した」

「準優勝!?」


 桐谷課長も、目を見開いた。


「今も、週三でジムに通っておる」


 会長は、軽くポーズを取った。

 フロント・ダブルバイセップス。

 七十歳とは思えない、張りのある上腕二頭筋。

 ことみの口が、勝手に動く。


「高齢でも筋密度高いー!!」

「姿勢、現役感ー!!」

「体幹、ブレてないー!!」

「上腕二頭筋、萎縮してないー!!」

「これぞマスターズ部門の鑑ー!!」

「……」


 若い男性が、ぽかんと口を開ける。

 中年女性は、拍手した。

 老夫婦も、拍手した。

 なぜか、観客が増えている。


「この方々はな」


 佐々木会長が、ゆっくり言った。


「不審者ではない。変態だが、無害だ」

(公認)

(公式に変態認定された)

「それに――」


 会長は、ちらりとことみを見る。


「彼女が叫んでおるうちは、問題ない」

「どういう意味ですか?」

「危険なら、彼女は逃げる。だが今は、評価しておる」

(評価って言うな)

「つまり――」


 会長は、スマホの男性に向き直る。


「筋肉は、害ではない。むしろ、健康だ」

「は、はぁ……」

「通報は、いらん。この町は、ワシが見ておる」


 男性は何度も頭を下げ、去っていった。

 静寂。


 会長が、黒川に向き直った。


「君、大会前か?」

「はい……来週の日曜です」

「減量、順調だな」

「ありがとうございます」

「だが、僧帽筋がまだ甘い」

「……!」


 黒川の目が、見開いた。


「上部は良い。だが、中部と下部が弱い。背中のポーズで不利になるぞ」

「……仰る通りです」

「シュラッグを増やせ。高重量で、ゆっくりと」

「はい!」


 会長は、満足げに頷いた。


 桐谷課長にも視線を向けた。


「君も、いい筋肉だ」

「ありがとうございます」

「だが、脚が甘い」

「……!」

「上半身ばかり鍛えておらんか?」

「……はい」

「脚は、全ての基礎だ。スクワットを増やせ」

「はい!」


 会長は、ことみにも視線を向けた。


「君が、実況役か」

「は、はい……」

「良い目をしておる」

「え……」

「筋肉を見る目だ。これは才能だ」


 ことみは、戸惑った。


(また才能って言われた……)

「今後も、頼むぞ」

「は、はい……」

「この町の筋肉文化を、守ってくれ」

(筋肉文化!?)


 会長は、そう言って立ち去ろうとした。


 ことみが、思わず呼び止めた。


「あの、会長!」

「ん?」

「会長も……ポーズ、見せてもらえませんか?」


 会長の目が、わずかに見開いた。

 にやりと笑った。


「……いいだろう」


 会長が、ポロシャツを脱いだ。

 七十歳の肉体。


 そこには、確かに筋肉があった。

 萎縮していない。

 張りがある。

 血管も浮いている。


「行くぞ」


 会長が、ポーズを取った。

 フロント・ダブルバイセップス。


「上腕二頭筋、ピーク維持ー!!」

「加齢による筋減少、最小限ー!!」

「これぞサルコペニア予防の極致ー!!」


 サイドチェスト。


「胸の厚み、若者に負けてないー!!」

「大胸筋、まだまだ現役ー!!」

「上腕三頭筋、脂肪に埋もれてないー!!」


 バックダブルバイセップス。


「背中、広いー!!」

「広背筋、三十年の歴史ー!!」

「脊柱起立筋、姿勢を支えてるー!!」

「これぞマスターズの誇りー!!」


 ことみの実況は、止まらない。


 気づけば、観客が増えていた。

 中年女性。

 老夫婦。

 通りすがりの高校生。

 犬の散歩中の主婦。

 みんな、立ち止まって見ている。


 拍手が起きた。


「すごい!」

「七十歳でこの筋肉!」

「かっこいい!」


 会長は、満足げに微笑み、

 ポロシャツを着直した。


「筋肉は、年齢を裏切らん」


 そう言って、会長は去っていった。

 背中が、やけに頼もしかった。



 ---



 帰り道。


「……守られましたね」


 ことみが言うと、桐谷課長が頷いた。


「町内会というのは、強い」

「筋肉、関係あります?」

「多分、ある」


 黒川も、頷いた。


「会長のおかげで、通報されずに済みました」

「っていうか、観客増えてましたね」

「ああ。明日はもっと増えるかもしれない」

「え、やめてください」


 だが、桐谷課長は真顔で言った。


「筋肉は、人を集める」

「意味が分かりません」

「いや、本当だ。筋肉には、人を惹きつける力がある」


 黒川も、頷いた。


「大会でも、観客は熱狂します」

「それ、大会だからでしょ……」

「いや、夜道でも同じだ」

(この人たち、本気だ)


 ことみは、ため息をついた。

 不思議と、嫌じゃなかった。


(……ちょっと、楽しかったかも)


 通報されかけて、

 町内会長に助けられて、

 観客に拍手されて、

 筋肉を叫んで。

 なんだか、コミュニティみたいだった。

 変な形だけど。


 ことみは空を見上げる。

 星が、静かに瞬いていた。


(……世界、思ったより優しいかも)


 変態でも、

 筋肉でも。

 守る人がいて、

 守られる場所がある。


 笑える場所がある。

 街灯の下は、

 今日も、無事だった。


 明日も、きっと無事だ。

 筋肉がある限り。

 ことみは、そう思いながら、

 家に向かった。


 心が、少しだけ軽かった。

 疲れた一日の終わりに、

 筋肉を見て、

 筋肉を叫んで、

 人に守られて。

 それが、なぜか癒しになっていた。


 明日も、きっと筋肉がある。

 明日も、きっと実況する。

 明日も、きっと笑える。


 ことみは、そう思いながら、

 自宅マンションに入った。


 筋肉実況役。

 非公式だけど、

 もう、町内公認だった。




次回予告:

「黒川の正体が明らかに!? 実は昼間は普通のおじさん。家族持ち、仕事は真面目。でも夜になると筋肉が止まらない!」

 7話「マッチョ、実は昼は普通のおじさん」に続く


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