表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/41

4話 変態vs変態、街灯下の死闘

 

 夜は、昨日よりも少しだけ涼しかった。


 それでも空気は重く、街灯の光は湿気を含んで、ぼんやりと滲んでいる。

 駅から少し離れたその道は、昼間なら何の変哲もない生活道路だ。

 コンビニがあり、居酒屋があり、マンションが立ち並ぶ。


 だが、夜だけは違う。


「……やっぱり、いる……」


 杉野ことみは、思わず小さく呟いた。

 街灯の下。

 昨日と同じ場所。

 同じ黒いロングコート。

 背は高く、横に広い。


 立ち姿がやけに決まっている。

 まるで、自分が最も美しく見える角度を知っているかのような佇まい。


(立位姿勢がすでにポージング……重心の取り方が完璧……)


 隣で、桐谷課長が静かに息を吐いた。


「……昨日より仕上がっている」

「課長、そうじゃないです。現行犯です。しかも四日連続」

「いや、この仕上がりは昨日以上だ」


 課長の目が、ギラリと光った。

 ことみは、少しだけ後ずさった。


 不安と、期待と、そして妙な高揚感が入り混じる。

 男は、こちらに気づくと、ゆっくりと振り返った。

 街灯の光が、コートの縁をなぞる。


 次の瞬間。

 バサッ。

 音とともに、コートが舞った。

 まるで闘牛士がマントを翻すように、優雅に、そして挑戦的に。


「……来た」


 黄金色に焼けた肉体。

 ビキニパンツ一丁。

 無言で、だが誇らしげに立つその姿。

 筋肉が、語りかけてくる。


(大胸筋、厚み十分……昨日より張ってる……パンプアップしてる……?)

(腹筋、八つに割れて……腹斜筋まで見える……)

(太もも、大腿四頭筋が四つに分かれて……カットが深い……)


 ことみの喉が、勝手に動いた。


「……減量、完璧……体脂肪率、推定4パーセント……」

(言っちゃった)


 男は、静かに息を吸い、構えた。

 フロント・ダブルバイセップス。

 両腕を曲げ、力こぶを作る。

 上腕二頭筋が、山のように盛り上がる。


 ことみの口が、開いた。


「上腕二頭筋、ピーク立ってるー!!」

「左右差、ほぼなしー!!」

「長頭と短頭、両方発達ー!!」

「前腕との繋がり、芸術点高いー!!」

「血管、まるで地図ー!!」


 完全に実況アナウンサーだった。

 いや、実況アナと審査員が混ざっていた。

 男は満足げに頷き、ポーズを切り替える。


 サイドチェスト。

 横を向き、胸を張る。

 胸の厚みが、街灯の影でくっきりと浮かび上がる。


「胸郭広いー!!」

「大胸筋下部、落ちてないー!!」

「上腕三頭筋のカット、鋭利ー!!」

「肩から胸への流れ、美しいー!!」

「これぞサイドチェストの教科書ー!!」


 そのとき。


「……ふむ」


 低い声が、夜道に響いた。

 桐谷課長が、前に出る。

 ネクタイを外し、

 上着を脱ぎ、

 Yシャツのボタンを、一つ、また一つと外していく。


「ちょ、ちょっと待ってください課長!」

「敬意を払う」


 その一言で、すべてが確定した。


「筋肉には、筋肉で応える。これが礼儀だ」


 Yシャツが落ちる。

 鍛え上げられた上半身が、街灯の下に現れた。

 大胸筋。

 腹筋。

 肩。

 腕。

 全てが、まるで彫刻のように美しかった。


(……彫刻二体目)


 黒コートの男が、目を細める。


「……ほう」


 低く、興味深そうな声。


「これは……昨日より良い筋肉だ」

「あなたもな」


 無言のまま、二人は向き合った。

 距離、約三メートル。

 街灯の光が、二つの肉体を照らす。


 始まった。


「フロント・ラットスプレッド」


 桐谷課長が、両手を腰に当て、肘を広げる。

 広背筋が、まるで翼のように広がる。

 肩幅が、一気に広がって見える。


「広背筋下部、使えてるー!!」

「ウエストとの落差、えぐいー!!」

「背中で風切れるー!!」

「逆三角形の完成形ー!!」


 黒コートの男が、応じる。

 くるりと背中を向け、

 バック・ダブルバイセップス。

 腕を曲げ、背中の筋肉を全開にする。


 クリスマスツリー。

 背中の筋肉が、逆三角形に浮き上がる。


「僧帽筋中部、盛り上がり良しー!!」

「脊柱起立筋、縦に割れてるー!!」

「広背筋の張り、左右対称ー!!」

「背中に鬼の顔、二体目確認ー!!」

「クリスマスツリー、完璧ー!!」


 空気が、震えた。

 二人は次々にポーズを繰り出す。

 まるで、武術の型のように。

 いや、それ以上に美しかった。


 桐谷課長が、サイドトライセップス。

 腕を伸ばし、上腕三頭筋を強調する。


「三頭筋の馬蹄形ー!!」

「長頭、外側頭、内側頭、全部見えるー!!」

「カットが深いー!!」


 黒コートの男が、アブドミナル・アンド・サイ。

 腹筋を絞り、太ももの筋肉を際立たせる。


「腹筋、段差明瞭ー!!」

「腹斜筋まで見えるー!!」

「大腿四頭筋、四つに分離ー!!」

「外側広筋が主張強めー!!」

「内側広筋も負けてないー!!」


 通りがかりの自転車が、きゅっと止まった。


「……なに、あれ」

「見ちゃだめよ」


 だが、目は離せない。

 母親が子供の目を隠そうとするが、子供は指の隙間から見ている。


 二人は、同じポーズを取った。

 モスト・マスキュラー。

 全身の筋肉を一斉に収縮させる、最も迫力のあるポーズ。

 二人の首が、同時に消えた。

 肩と首が一体化し、まるで肉の要塞。


「密度勝負ー!!」

「筋肉同士、押し合ってるー!!」

「皮膚の下で喧嘩してるー!!」

「僧帽筋が肩を飲み込んでるー!!」

「これぞモスト・マスキュラーの真髄ー!!」


 ことみの実況は止まらない。


 二人は、互いに頷き合った。

 まるで、「次はこれだ」と言わんばかりに。

 同時に、ポーズを変える。


 ヴァキューム。

 息を吐き切り、お腹を限界まで凹ませる。

 二人のウエストが、信じられないほど細くなった。


「ウエスト、両者推定65センチー!!」

「肩幅120センチ以上なのにー!!」

「逆三角形の極致ー!!」

「昭和ボディビルの美学ー!!」

「アーノルド・シュワルツェネッガーもびっくりー!!」


 最後。

 二人は再び、向き合った。

 アブドミナル・アンド・サイ。

 腹筋と脚。

 筋肉の総決算。

 静寂。

 街灯の光だけが、二つの肉体を照らす。

 ことみは、息を吸った。


 審査員モードに切り替わった。


「黒コート選手! 腹筋、段差明瞭! 八つに割れて、縦の線も入ってる! 腹斜筋も美しい! 大腿四頭筋、外側広筋が主張強め! 内側広筋も発達! ハムストリングス、裏切ってない! ふくらはぎ、ダイヤモンドカット!」

「桐谷課長! 腹筋、左右対称完璧! 腹直筋の溝、深い! 腹斜筋、斜めに走る筋肉が美しい! 大腿四頭筋、四つの筋肉が均等に発達! 大腿二頭筋、盛り上がり良好! ヒラメ筋、発達十分!」


 ことみは、大きく息を吸った。


「……総合評価!」


 二人が、こちらを見る。

 街灯の下、

 審査員は一人。

 杉野ことみ。

 三十路OL。

 筋肉実況が止まらない女。


「黒コート選手! カットの深さ、A評価! 血管の浮き出し、S評価! ポージングの美しさ、S評価! ただし、減量しすぎて、わずかに筋肉が萎んで見える!」

「桐谷課長! 筋肉の密度、A評価! 左右対称性、S評価! ポージングの安定感、S評価! ただし、仕上がりがわずかに甘く、カットが黒コート選手に劣る!」


 ことみは、叫んだ。


「……引き分けです!!」


 沈黙。

 風が吹き抜ける。

 街灯が、わずかに揺れた。


 二人は、同時に笑った。


「……いい筋肉だ」

「……あなたも」


 桐谷課長が、手を差し出した。

 黒コートの男も、手を差し出した。

 固く、握手。

 ごつり、と音がした。


 それは、

 筋肉同士が認め合った音だった。

 前腕の筋肉が、互いに押し合っている。

 握力対決のように。

 だが、敵意はない。

 むしろ、敬意があった。


「俺は、桐谷」

「……俺は、黒川」


 初めて、黒コートの男が名を名乗った。


「黒川……さん……」


 ことみが、恐る恐る声をかけた。


「あの……毎晩、ここで……?」

「ああ」


 黒川は、頷いた。


「大会前なんだ。調整の一環で、ポージングの練習をしている」

「大会……」

「地方ボディビル選手権。来週の日曜だ」


 桐谷課長が、目を輝かせた。


「マスターズ部門か?」

「いや、オープン」

「オープン!? この年齢で!?」

「年齢は関係ない。筋肉だけが全てだ」


 二人の目が、再び輝いた。

 ことみは、その光景を見ながら思った。


(……怖くなかった)


 いや、正確には。


(……楽しかった)


 最初は変態だと思った。

 今も、客観的に見れば変態だ。


 でも

 この二人は、誰かに迷惑をかけているわけじゃない。

 ただ、筋肉を愛し、

 筋肉を見せ、

 筋肉で語り合っているだけ。


 ことみ自身も、その筋肉を見て、

 心が軽くなっていた。

 疲れた一日の終わりに、

 この筋肉を見ると、

 なぜか笑えた。


 なぜか、明日も頑張ろうと思えた。


「杉野さん」


 桐谷課長が、こちらを見た。


「ありがとう。良い審査だった」

「え……」

「君の実況、的確だ。プロの審査員並みだ」

「いや、あの……条件反射なんですけど……」

「それでいい。筋肉は、正しく評価されるべきだ」


 黒川も、頷いた。


「また、頼む」

「え……また……?」

「ああ。大会まで、あと一週間。毎晩、ここで練習する」

「そして俺も、毎晩見に来る」


 桐谷課長が、にやりと笑った。

 ことみは、絶句した。


(……毎晩……?)

(……この光景が……毎晩……?)


 不思議と、嫌じゃなかった。

 むしろ、


(……ちょっと、楽しみかも……)


 街灯の下、

 変態と変態は、敵ではなかった。

 それどころか――

 仲間になっていた。

 そのことを、

 ことみはまだ、言葉にできない。


 だが確かに、

 夜は、少しだけ優しくなっていた。

 星が、いつもより明るく見えた。

 風が、いつもより心地よかった。


 筋肉が、いつもより美しく見えた。

 黒川が、コートを拾い上げた。


「では、また明日」

「ああ、また明日」


 桐谷課長も、Yシャツを着始めた。

 ことみは、その光景を見ながら、

 小さく呟いた。


「……私の人生、どうなっちゃうんだろう……」


 その声には、

 笑いが混じっていた。





 次回予告:

「毎晩続く筋肉ショー。ことみの実況は、ついに専門領域へ。そして通りすがりの人々が、続々と立ち止まり始める……!」

 5話「ことみ、なぜか筋肉実況役になる」に続く


 よろしければ、続きの目印にブックマーク、応援に☆をいただけると嬉しいです。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ