29話 筋肉は逃げ場だった
雨だった。
珍しく、街灯の下に黒川誠はいない。
代わりに、屋根のある商店街のアーケード下。
コートを着たまま、じっと立っている。
雨音が、静かに響いている。
「今日は脱がないんですか」
ことみが、傘を畳みながら聞いた。
「湿度が高いと滑ります」
「安全第一変態!!」
「ポージング中に転倒したら、二十五年前の文化祭の再来です」
「トラウマが具体的!!」
ことみは、黒川の隣に立った。
アーケードの屋根が、雨を防いでいる。
商店街の薄明かりが、二人を照らす。
黒川は、少しだけ笑った。
「筋肉は、逃げ場でした」
「いきなり核心!!」
「若い頃、私は人付き合いが苦手でした」
「意外!! 今はあんなに堂々と脱いでるのに!!」
「脱ぐのと、話すのは別です」
「そうなの!?」
黒川が、頷いた。
「飲み会も、雑談も、苦手でした」
「今もそんな得意そうではない」
「その通りです」
即答。
迷いがない。
「人といると、何を話せばいいか分からない」
黒川が、ぽつりと言った。
雨音が、また少し強くなった。
「職場での会話も、家族との会話も、いつも何を言えばいいのか分からなくて」
「……」
「だから、黙ってしまう」
「……」
「そうすると、"何考えてるか分からない"と言われる」
ことみは、何も言えなかった。
(この人も、悩んでたんだ)
(ただの変態じゃない)
(ちゃんと、悩んでた)
「でも、ダンベルは分かりやすい」
黒川が、少しだけ笑った。
「持てば上がる。無理なら上がらない」
「確かに……」
「嘘をつかない」
「単純明快」
「筋肉は裏切らない」
「そのフレーズ好きですね!!」
「座右の銘です」
ことみは、吹き出した。
黒川は、真顔で続ける。
「仕事で怒られた日も」
「うん」
「家庭で小言を言われた日も」
「リアル!!」
「ジムに行けば、そこには鉄がある」
「金属への信頼が異常!!」
「重りは、私を否定しない」
「人格者か鉄!!」
黒川は、少し照れたように言った。
「私は、逃げていたのです」
「え?」
「向き合うべき会話や、感情から」
静かな雨音。
商店街に、人影はない。
ただ、二人だけ。
「筋肉に逃げ込んでいた」
「……」
「人と話すのが怖くて、ジムに行く」
「……」
「家に帰るのが億劫で、ジムに行く」
「……」
「気づけば、週六でジムに通っていました」
ことみは、静かに頷いた。
(逃げてた、んだ)
(筋肉に)
「だがある日、息子に言われました」
「また核心ワード来た」
「"パパ、いつも筋トレしてるけど、逃げてるの?"と」
「子供は容赦ない!!」
「私は言葉に詰まりました」
黒川が、コートの襟を握った。
その手が、少しだけ震えている。
「息子は、まだ小学生です」
「……」
「でも、見抜いていた」
「……」
「私が、何かから逃げていることを」
ことみの胸が、きゅっとなった。
(子供って、分かるんだ)
(親が、逃げてるって)
「そのとき気づいたのです」
「何を?」
「筋肉は逃げ場だが、隠れ場所ではない」
「……哲学」
「逃げてもいい。でも、戻らなければ意味がない」
ことみは、静かに聞いた。
雨音だけが、響いている。
「だから私は」
黒川が、ゆっくりとコートに手をかけた。
「逃げた分だけ、戻る」
「ちょっと待ってその流れで脱ぐ!?」
「逃げではありません。決意です」
「理屈が雑!!」
バサッ。
商店街の薄暗い光の下、黄金ボディが現れた。
雨に濡れた路面が、光を反射している。
その反射光が、黒川の筋肉を下から照らす。
「ここで!? 商店街で!?」
「反射光の実験です」
「やめなさい!! さっき科学の日やったばっかりでしょ!!」
だが、確かに
雨に濡れた路面が光を反射し、筋肉が二重に輝いている。
上からの商店街の照明。
下からの反射光。
「うわ……二倍光ってる……」
「逃げた分、二倍光ります」
「比例するの!? そんな法則ないから!!」
その時。
買い物帰りのおばあちゃんが、傘を差して通りかかった。
黒川の筋肉を見て
立ち止まった。
(あ、まずい)
(通報される)
(商店街で脱いだらそりゃ通報される)
「まぁ立派ねぇ」
「ありがとうございます」
黒川が、丁寧にお辞儀した。
ダブルバイセップスのポーズのまま。
「でも寒いから早く帰りなさいね」
「はい」
「風邪ひくわよ」
「気をつけます」
おばあちゃんは、にこにこしながら去っていった。
怒られない。
なぜ。
「ほら見てください」
黒川が、胸を張った。
大胸筋が、ぴくんと動いた。
「筋肉は地域社会に溶け込める」
「溶け込んでない!! 商店街で脱いでる時点で溶け込んでない!!」
ことみは、吹き出した。
笑いが止まらない。
重い話をしてたのに。
いつの間にか、笑っている。
(この人、ずるい)
(真面目な話をしても、最後は筋肉で締める)
(それが、この人だ)
「逃げ場だった筋肉は」
黒川が、真顔に戻った。
ポーズを解いて、コートを拾った。
「今は、向き合うための場所です」
「向き合う?」
「家族と。仕事と。自分と」
ちらりと、ことみを見た。
「杉野さんの帰り道とも」
心臓が、ドンと鳴った。
(物理)
(これは絶対物理)
(でも……)
(なんか、嬉しい)
「だから私は脱ぎます」
「結論それ!?」
「逃げではありません」
「趣味では?」
「使命です」
「言い切った!!」
雨が、弱まってきた。
空が、少し明るくなってきた。
商店街の奥に、薄日が差している。
黒川は、コートを拾い、丁寧に羽織った。
ボタンを一つ一つ、ゆっくりと留めた。
「筋肉は逃げ場でした」
穏やかに言った。
「でも今は、戻るための場所です」
ことみは、少しだけ微笑んだ。
(この人は変態だ)
(でも、ちゃんと前を向いている)
(逃げても、ちゃんと戻ってきてる)
「……黒川さん」
「はい」
「今でも、逃げたくなることあるんですか?」
黒川が、少し考えた。
「あります」
「そういう時、どうします?」
「スクワットします」
「即答!!」
「二十回で、だいたい落ち着きます」
「メンタル治療が原始的!!」
ことみは笑った。
悪くない、と思った。
(筋肉で、気持ちが落ち着く)
(それって、案外いいことなのかもしれない)
「杉野さんは?」
黒川が、聞いた。
「え?」
「逃げたいこと、ありますか」
ことみは、少し考えた。
「……あります」
「そういう時、どうしてますか」
「……実況してます」
「実況?」
「筋肉を見て、実況すると、何も考えなくていいから」
ことみは、少し照れくさそうに言った。
「条件反射で口が開いて、脳が筋肉しか考えなくなって、嫌なことを忘れられるんです」
黒川が、笑った。
「それは……いい逃げ場ですね」
「そうですか?」
「ええ。誰も傷つけない」
「……」
「自分も傷つかない」
「……」
「そして、私が嬉しい」
(また言った)
(嬉しい、って)
(私の実況が、嬉しいって)
ことみの胸が、温かくなった。
(私も、逃げてたのかな)
(筋肉に)
(でも、それでよかったのかもしれない)
雨が、完全に止んだ。
空に、薄日が差している。
商店街の照明が、消えた。
もう、夕方じゃない。
夜になっている。
「帰りましょうか」
「はい」
二人で、商店街を歩き始めた。
濡れた路面が、二人の影を映している。
その時、桐谷課長が現れた。
「おい」
「課長!?」
「なぜここに!?」
「買い物だ」
桐谷課長が、スーパーの袋を持っていた。
プロテインと、鶏むね肉と、ブロッコリーが入っている。
(完全に筋肉の食材)
「今、黒川と話していたのか」
「はい……」
「何の話だ」
「筋肉が逃げ場だった、という話です」
桐谷課長が、少し考えた。
小さく笑った。
「俺もだ」
「え?」
「俺も、逃げてた」
桐谷課長が、スーパーの袋を持ち直した。
「若い頃、部下が辞めた」
「……」
「守れなかった」
「……」
「そこから、ジムに通い始めた」
桐谷課長が、空を見上げた。
「筋肉があれば、守れると思った」
「……」
「でも、筋肉では守れなかった」
「……」
「だから、逃げた」
沈黙。
「でも、逃げてるうちに気づいた」
「何を?」
「筋肉は、逃げ場だが、立ち上がる場所でもある」
桐谷課長が、ことみを見た。
「逃げてもいい。でも、戻れ」
「……はい」
「戻るための筋肉なら、悪くない」
ことみは、頷いた。
(課長も、逃げてた)
(黒川さんも、逃げてた)
(私も、逃げてた)
(でも、みんな戻ってきた)
(筋肉で)
雨上がりの商店街。
三人で、並んで歩く。
濡れた路面が、三人の影を映している。
筋肉は今日も、少しだけ世界を明るくしている。
逃げ場だった筋肉は、
いつの間にか、
帰る場所になっていた。
ことみは、小さく呟いた。
「……筋肉、悪くないかも」
黒川が、振り返った。
「何か言いましたか?」
「いえ、何も!!」
「そうですか」
桐谷課長が、にやりと笑った。
「杉野さん、お前も筋肉に染まってきたな」
「染まってないです!!」
「実況が板についてる」
「それは条件反射です!!」
「もう逃げ場がない」
「やめてください!!」
三人で、笑った。
夜の商店街に、笑い声が響いた。
雨上がりの空に、星が見えた。
次回予告:
「ことみ、すべてを知る――黒川の過去、桐谷の挫折、そして自分の気持ち。全てが繋がる夜が来る……!」
30話「ことみ、すべてを知る」に続く
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