3話 筋肉オタク上司・桐谷の正体
午後三時。
杉野ことみは、完全に消耗していた。
午前中の会議で「背中あるー……」と漏らしてしまって以来、彼女は自分の口を信用していない。
(見ない。考えない。筋肉は存在しない)
そう念じながら、パソコン画面だけを凝視していた。
視界の端に人が通るたび、目を逸らす。
腕。
肩。
背中。
全てが地雷だった。
「杉野さん」
低く、落ち着いた声。
「……はいっ」
条件反射で背筋が伸びる。
声の主は、桐谷課長だった。
四十代前半。
穏やかで理知的、仕事はできるがどこか影が薄い、はずの上司。
「少し、いいかな」
「は、はい……」
立ち上がった瞬間。
見てしまった。
桐谷課長のスーツの肩。
不自然なほど、布が持ち上がっている。
(……あれ?)
脳が勝手に、解析モードに入る。
(肩峰が前に出てる……? 三角筋前部、発達しすぎでは……いや、中部も後部も均等に発達してる……これ、バランス型の優良三角筋……!)
「……」
喉がひくりと鳴る。
(だめだめだめ……上司の筋肉を評価するな……!)
だが、目は止まらない。
スーツの上からでも分かる、厚い胸板。
Yシャツのボタンが、わずかに引っ張られている。
袖も、二の腕のところで少しキツそうだ。
(上腕二頭筋と三頭筋、両方発達してる……腕の太さ、推定40センチ前後……スーツオーダーメイドじゃないと入らないレベル……!)
「……杉野さん?」
「す、すみません……!」
ことみは必死に視線を外す。
(見ちゃダメ……見ちゃダメ……)
桐谷課長は、そんな彼女をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……君、筋肉が分かるね」
「え?」
心臓が跳ねた。
「いや、別に責めているわけじゃない。ただ――」
桐谷課長は、自分の腕を軽く叩いた。
その動作だけで、前腕の筋肉が動く。
血管が浮き上がる。
「見る目がある」
(やばい)
(この人、気づいてる)
「い、いえ、私はただ、たまたま……」
「僧帽筋上部、発達しすぎると肩がこる」
ぽつりと、桐谷課長が言った。
「……え?」
「だが、下部まで使えていれば、シルエットは崩れない。むしろ、首から肩にかけてのラインが美しくなる」
ことみの脳が、カチリと音を立てた。
(専門用語……?)
(しかも正しい……?)
(っていうか、僧帽筋を上部・中部・下部に分けて語れる人、そんなにいない……!)
「……課長」
恐る恐る、ことみは聞いた。
「その……ジムとか……通われてるんですか……?」
桐谷課長は、微笑んだ。
「週六で、もう二十年以上になる」
(重課金勢……! っていうか廃人……!)
「朝五時から一時間半。それから出社」
「朝五時……」
「夜は週三で追加トレーニング」
「追加!?」
「部位別にローテーションを組んでね。月曜は胸と上腕三頭筋、火曜は背中と上腕二頭筋、水曜は脚、木曜は肩と腹筋、金曜は再び胸……」
ことみは、絶句した。
その瞬間。
ことみの口が、裏切った。
「三角筋、前中後バランス型……!!」
「背中、広背筋下部まで使えてるー……!!」
「スーツ泣かせの逆三角形ー……!!」
「体脂肪率、推定一桁後半……!!」
「前腕の血管、ロードマップ……!!」
「首の太さ、推定42センチ……!!」
静まり返るオフィス。
周囲の社員が、一斉にこちらを見た。
「……」
「……」
「……すみませんっ!!!」
全力土下座しそうな勢いで、ことみは頭を下げた。
だが。
「……はは」
笑った。
桐谷課長が、嬉しそうに。
「久しぶりだよ。そこまで分かる人に会ったのは」
(肯定された……!?)
「君、筋肉を見ると、言葉が出るタイプだろう」
「……はい……止められないんです……」
「悪い癖だが、悪くない」
桐谷課長は、少しだけ声を潜めた。
「むしろ、素晴らしい才能だ」
「才能……?」
「筋肉を正確に評価できる目。これは訓練しても身につかない人もいる。君は天性のものを持っている」
ことみは、困惑した。
(褒められてる……? この変な特技……?)
「ところで、杉野さん」
桐谷課長の目が、鋭くなった。
「昨夜、駅前で……妙な筋肉を見なかったか?」
心臓が止まりかけた。
「……黒いコートの……」
「やはり」
桐谷課長は、腕を組んだ。
その動作だけで、前腕の筋が、はっきり浮き出る。
そしてスーツの袖が、ピチッと引っ張られた。
(前腕屈筋群、使い込まれてる……握力、推定70キロ以上……!)
「彼は……仕上がっている」
低く、確信に満ちた声。
「どんなポーズを取った?」
「え、ええっと……ダブルバイセップスと、サイドチェストと、バックダブルバイセップスと……」
「ヴァキュームは?」
「ありました!」
「古典派か……!」
桐谷課長の目が、輝いた。
「モスト・マスキュラーは?」
「ありました! 首が消えるやつ!」
「完璧じゃないか……!」
課長は、深く息を吸った。
「カットは?」
「入ってました! 筋肉の一本一本が見えるくらい!」
「血管は?」
「バキバキでした! まるで道路地図!」
「素晴らしい……!」
桐谷課長は、完全に興奮していた。
周囲の社員が、再びこちらを見る。
だが、もう二人は止まらなかった。
「体脂肪率、推定何パーセント?」
「5から7くらいだと思います!」
「大会前か……!」
「そうだと思います!」
「何の大会だ!?」
「分かりません! でも、あの仕上がりなら地方大会優勝レベル!」
「……会いたい」
桐谷課長が、ぽつりと呟いた。
「……え?」
「会いたい。その筋肉に」
真剣な目だった。
いや、渇望に満ちた目だった。
「……今夜、送ろう」
「え?」
「確認したい」
(何を!?)
「君を送るついでに、その筋肉変態に会う」
「か、課長……」
「いいだろう? 危ないし」
「それ、理由になってます……?」
「なる。筋肉のためなら」
桐谷課長は、既に決めていた。
---
夕方。
仕事を終え、ことみは桐谷課長と一緒にエレベーターに乗った。
車内で、課長が言った。
「杉野さん、君は本当に目がいい」
「……そうでしょうか……」
「筋肉を見る目だ。普通の人は、筋肉を『すごい』としか言えない。だが君は違う」
「……条件反射なんです……止められなくて……」
「それでいい。筋肉は、正しく評価されるべきだ」
エレベーターが一階に着き、外に出る。
夜風が頬を撫でた。
桐谷課長の車に乗り込む。
高級車ではないが、清潔で整っている。
後部座席に、プロテインの箱があった。
大量に。
「……課長、これ……」
「ああ、今日届いたんだ。ホエイプロテイン5キロ×6箱」
「30キロ!?」
「三ヶ月分だ」
ことみは、再び絶句した。
(この人、本物だ……)
車が動き出す。
夜の街を抜けて、駅に向かう。
桐谷課長が、運転しながら言った。
「杉野さん、筋肉についてどう思う?」
「え……」
「美しいと思うか?」
「……思います」
正直に答えた。
「昨夜の筋肉も、美しかったです。怖かったけど……でも、美しかった」
「そうだろう」
桐谷課長が、微笑んだ。
「筋肉は嘘をつかない。努力の結晶だ」
「……はい」
「だから、敬意を持って見るべきだ」
車が、駅前に着いた。
街灯の光が、車内を照らす。
桐谷課長が、窓の外を見た。
「……いるか?」
ことみも、外を見る。
だが、
誰もいなかった。
「……いませんね……」
「そうか……」
桐谷課長は、少し残念そうだった。
「まあ、毎日出るとは限らないか」
「そうですね……」
だが、その時だった。
遠くから、何かが近づいてくる気配。
足音。
いや、走ってくる音。
街灯の下に、黒いコートの人影が現れた。
「……!」
ことみの心臓が跳ねた。
桐谷課長も、目を見開いた。
「……来たか」
バサッ。
コートが舞った。
黄金の筋肉が、再び夜道に現れた。
「……っ!」
ことみの口が開く。
桐谷課長が、先に動いた。
車から降り、
ゆっくりと、筋肉変態に近づいた。
「……待って」
そう呟くと、
桐谷課長は、ネクタイを外した。
「え……課長……?」
「少し、待っていてくれ」
そして、上着を脱いだ。
「ちょ、課長!?」
Yシャツを脱ぎ始める。
「やめて! ここ駅前! 人通り多い!」
だが、止まらない。
上半身裸。
「ええええええっ!?」
ことみの悲鳴が、夜空に響いた。
そこには、
スーツの下に隠されていた、
完璧な筋肉があった。
大胸筋が、まるで鎧のように盛り上がっている。
腹筋は八つに割れ、血管が浮き出ている。
肩は丸く、まるでメロンのようだ。
背中は、見えないが、きっと素晴らしいはずだ。
「課長……なんで……」
「いい筋肉には、筋肉で応えるのが礼儀だろ」
そう言って、桐谷課長は
ポーズを取った。
ダブルバイセップス。
上腕二頭筋が、山のように盛り上がる。
街灯の光が当たり、筋の一本一本が浮かび上がる。
黒コートの男も、応えた。
サイドチェスト。
二人の筋肉が、街灯の下で対峙する。
ことみは、車の中から見ていた。
口が、開いた。
「仕上がってるー! 両方仕上がってるー! 変態が二人ー!」
「課長の大胸筋、厚さ推定15センチー!」
「黒コートの広背筋、幅推定80センチー!」
「これ、職場にバレたら終わるー!」
叫びながら、彼女は思った。
(……私の人生、どうなっちゃうの……)
夜道には、筋肉があった。
二つの筋肉が、静かに、だが確実に、対峙していた。
まだ、直接対決はしない。
ただ、お互いを確認し合うように、
ポーズを取り、
頷き合い、
黒コートの男が、走り去った。
桐谷課長は、その背中を見送りながら、
小さく呟いた。
「……良い筋肉だった」
Yシャツを着て、
上着を着て、
ネクタイを締め直し、
何事もなかったかのように車に戻ってきた。
「……課長」
「ああ」
「……何だったんですか、今の」
「挨拶だ」
「挨拶!?」
「筋肉同士の」
桐谷課長は、満足げに微笑んだ。
ことみを家まで送り、
別れ際に言った。
「また明日」
「……はい」
「楽しみだな」
「……何がですか」
「筋肉だ」
そう言って、課長は去っていった。
ことみは、自宅マンションの前で立ち尽くしていた。
(……私、完全に巻き込まれてる……)
もう、逃げられない。
次回予告:
「ついに激突!変態vs変態、街灯下の死闘が始まる! ことみの実況は加速し、夜道は筋肉の戦場と化す――!」
4話「変態vs変態、街灯下の死闘」に続く
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