28話 桐谷の挫折と再生
その日、桐谷課長はベンチプレスの下敷きになっていた。
「補助! 補助!」
「課長ぉぉぉ!!」
ジムに響く叫び。
黒川誠が、冷静にバーを持ち上げた。
160キロ。
桐谷課長の限界重量。
「無理な重量設定です」
「昨日は上がったんだ……!」
「昨日は昨日です。今日は今日です」
名言っぽいが冷たい。
杉野ことみは、ジムの隅でタオルを握りしめていた。
(え、課長でも失敗するの?)
ことみは、今日が初めてのジム体験だった。
桐谷課長と黒川に誘われて、
半ば強制的に連れてこられた。
「筋肉を見るだけじゃなく、体験してみろ」
そう言われて、
断れなかった。
そして今、目の前で繰り広げられているのは
完璧超人の失敗。
桐谷課長は、二十年以上、朝五時からトレーニングしている。
週六。
部位別ローテーション。
月曜は胸。
火曜は背中。
水曜は脚。
木曜は肩と腹筋。
金曜は再び胸。
土曜は腕。
日曜は休み(でもストレッチはする)。
筋肉の化身みたいな男。
その桐谷課長が、今日は上がらない。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
いつも冷静な課長が。
悔しそうに。
歯を食いしばっている。
黒川が、タオルを差し出した。
「桐谷さん。疲労が抜けていません」
「分かっている」
「ですが、認めたくない」
「……ああ」
桐谷課長が、ベンチから起き上がった。
肩が、少しだけ丸まっている。
いつもの、ピンと張った姿勢じゃない。
(課長が……丸まってる)
ことみは、思わず実況を忘れた。
空気が、少し重い。
いつもの、筋肉を楽しむ空気じゃない。
「若い頃は、何でも上がった」
桐谷課長が、ぽつりと言った。
ベンチに座ったまま。
バーを見つめたまま。
「重量も、部下の数字も、責任も」
「課長……」
ことみは、何も言えなかった。
「だが今は」
桐谷課長が、拳を握った。
その拳が、震えている。
「肩も痛む。回復も遅い。部下も育つが、俺の代わりにはならない」
黒川が、静かに頷いた。
「老いです」
「直球!!」
ことみが、思わずツッコんだ。
「筋肉は正直です」
「優しく言って!!」
桐谷課長が、笑った。
少しだけ、いつもの笑顔。
「昔、俺は大会で優勝を逃した」
「え?」
ことみは、驚いた。
桐谷課長が、大会に出ていたこと。
そして、優勝を逃したこと。
「最後のポーズで、足が攣った」
「なんでそこ!!」
「決め顔のまま、崩れ落ちた」
「想像すると面白い!! ダメだけど面白い!!」
「笑うな」
だが、桐谷課長も笑っていた。
ことみは、必死に口を押さえた。
(笑っちゃダメ)
(でも、想像すると……)
(ダブルバイセップスの決め顔で崩れ落ちる課長……)
(無理、笑う)
「努力は裏切らないと信じていた」
桐谷課長が、真顔に戻った。
「だが現実は、裏切る」
静かなジム。
ダンベルの転がる音だけが、響く。
トレッドミルの機械音。
誰かの息遣い。
「優勝できると思っていた」
「……」
「何年も、何年も鍛えた」
「……」
「でも、足が攣った」
「……」
「たった一回の、筋肉の裏切りで、全部終わった」
桐谷課長が、バーを見つめた。
「その日から、俺は"勝つ"より"積む"ことを選んだ」
「積む?」
「重量ではない。回数でもない」
桐谷課長が、バーを握った。
軽めの重量に変えた。
160キロから、100キロへ。
「習慣だ」
持ち上げる。
ゆっくりと。
丁寧に。
「年齢は止まらない」
一回。
バーが、胸まで降りる。
そして、押し上げる。
「でも積み重ねは止めない」
二回。
フォームが、美しい。
無駄な力が入っていない。
呼吸が、安定している。
三回。
ことみは、見入っていた。
(これが……課長の筋肉)
(勝つための筋肉じゃなくて)
(積み重ねるための筋肉)
「上がらない日がある」
四回。
「痛む日もある」
五回。
「だが、やめない」
六回。
ラックに、バーを戻す。
カチャン。
深く、息を吐く。
桐谷課長が、ことみを見た。
「それが、再生だ」
静かだった。
ジム全体が、静まり返った気がした。
黒川が、うなずいた。
「美しいフォームです」
「黙れ変態」
「誉め言葉です」
ことみの胸が、じんわりと温かくなった。
(課長は無敵じゃない)
(でも、折れない)
(上がらない日があっても、続ける)
(それが、課長の強さ)
桐谷課長が、立ち上がった。
肩が、また張っている。
いつもの、ピンとした姿勢。
「杉野さん」
「は、はい!」
「実況はどうした」
「え?」
「今日は静かだ」
ことみは、ハッとした。
(そうだ、実況してない)
(課長の筋肉を見てるのに)
(条件反射が出なかった)
ことみは、一瞬考えて
そして、叫んだ。
「フォーム完璧ーー!! 年輪乗った胸筋ーー!! 積み重ねの厚みぃぃ!! これは二十年分の誠実さ!! 重量じゃなくて習慣で作られた筋肉!! 美しい!!」
ジムに、実況が響いた。
他のトレーニーたちが、一斉にこちらを見た。
「……何あれ」
「実況?」
「筋肉の実況?」
「新しいトレーニング法?」
黒川が、頷いた。
「良い実況です」
「なんだこの空間!!」
ことみが、自分でツッコんだ。
桐谷課長は、小さく笑った。
「若い頃の俺は、勝てないと価値がないと思っていた」
タオルで、汗を拭く。
額から、首筋から、胸から。
「だが今は違う」
「何がですか」
ことみが、聞いた。
「部下が笑っているなら、それでいい」
ことみの心臓が、ドンと鳴った。
(物理)
(これはきっと物理)
(でも……)
(なんか、嬉しい)
「そして」
桐谷課長が、黒川を見た。
「夜道で脱ぐな」
「善処します」
「しろ」
「では、昼に脱ぎます」
「絶対やめろ!!」
ジムに、笑いが戻った。
ことみも、笑った。
黒川も、笑った。
桐谷課長も、笑った。
他のトレーニーたちも、なぜか笑っていた。
(この空間、好きだ)
ことみは、そう思った。
重い話をしても、最後は笑える。
それが、この人たちの筋肉だった。
---
その後。
ことみは、軽いダンベルで腕のトレーニングをした。
3キロ。
女性用の、一番軽いやつ。
それでも、10回で腕がパンパンになった。
「うわ、腕が……」
「それがパンプです」
黒川が、にこやかに言った。
「筋肉が、血液で満たされています」
「満たされてる……」
「いい感じですよ」
「本当ですか?」
「ええ。杉野さんの上腕二頭筋、少し盛り上がってます」
ことみは、自分の腕を見た。
確かに
ほんの少しだけ、盛り上がっている気がした。
(これが、筋肉……)
(私の筋肉……)
「どうだ、杉野」
桐谷課長が、横に来た。
「筋肉、楽しいか?」
「……はい」
ことみは、笑った。
「楽しいです」
「そうか」
桐谷課長も、笑った。
「なら、また来い」
「はい」
ことみは、頷いた。
自分の腕を、もう一度見た。
(筋肉が、ちょっとだけある)
(私にも、筋肉がある)
(なんか……嬉しい)
桐谷課長の挫折は、終わっていない。
今も、上がらない日がある。
今も、痛む日がある。
彼は知っている。
上がらない日があってもいい。
筋肉は衰える。
だが、積み重ねは消えない。
それが、彼の再生だった。
---
そしてその夜。
街灯の下。
桐谷課長は、立っていた。
脱がなかった。
スーツを着たまま。
ネクタイを締めたまま。
「今日は疲れた」
「そうですか」
黒川が、横に立った。
コートを脱いだ。
「なぜお前は脱ぐ」
「積み重ねです」
「意味が違う!!」
ことみが、ツッコんだ。
黒川が、ダブルバイセップス。
「仕上がってるぅぅぅ!! 今日も変わらず大胸筋パンパン!! これが積み重ねの力!!」
実況が、夜道に響いた。
桐谷課長が、ため息をついた。
「……お前を見てると、安心する」
「なぜですか」
「変わらないからだ」
「……」
「俺は変わった。老いた。重量も落ちた」
「……」
「だが、お前はいつも脱ぐ」
「はい」
「それが、なぜか安心する」
黒川が、笑った。
「では、これからも脱ぎます」
「頼む」
「任せてください」
ことみは、二人を見ながら、
小さく笑った。
(課長も、黒川さんも)
(どっちも、筋肉で生きてる)
(でも、生き方が違う)
(それが、面白い)
夜は、今日も筋肉で少しだけ明るい。
星が、きれいに見えた。
次回予告:
「筋肉は逃げ場だった――ことみも、桐谷も、黒川も。みんな、何かから逃げていた。そして、筋肉に辿り着いた……。」
29話「筋肉は逃げ場だった」に続く
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