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27話 筋肉で救えなかった日

 

 その夜、黒川誠は脱がなかった。


 コートは閉じたまま。

 ビキニも出さない。

 ポーズも取らない。


 街灯の下に立つ姿も、どこか静かだった。


 いつもと違う。

 空気が、違う。


「今日は、少し重い話です」

「急に真面目」

「ですが筋肉は出ます」

「出るのは確定なんだ!!」


 黒川は、ゆっくりと息を吸った。

 夜風が、コートを揺らす。

 街灯の光が、黒川の顔を照らす。

 いつもより、少しだけ影が濃い。


「私が二十代の頃。まだ大会で結果が出ず、筋肉も未熟だった頃」

「未熟って今より小さいってこと?」

「はい。今の七割ほどです」

「七割で済むの?」


 想像できない。

 今の黒川の七割でも、普通の人より確実に大きい。


(でも、黒川さんにとっては"未熟"なんだ)


「ある日、会社で大きなトラブルがありました」


 黒川の声が、低くなった。

 いつもの穏やかな声じゃない。

 遠くを見るような、何かを思い出すような声。


「取引先との契約ミス」

「……」

「責任問題」

「……」

「怒号」


 ことみは、何も言えなかった。

 黒川が、静かに続ける。


「私は、守れませんでした」

「……何を?」

「同僚です」


 黒川の拳が、握られた。

 コートの中で、腕に力が入っているのが分かる。


「私が気づいていれば防げたミスでした。彼は責任を取って、辞めました」


 夜風が吹く。

 街灯が揺れる。

 ことみは黙った。


(この人にも、そういう過去があったんだ)

(筋肉だけじゃない)

(ちゃんと、痛みがあった)


「私は思ったのです」


 黒川が、拳をさらに握る。

 指の関節が、白くなった。


「筋肉があれば、守れると」

「方向性……」

「強ければ、誰も傷つかないと」

「それ物理防御の話……」

「だが現実は違った」


 黒川が、ゆっくりとコートに手をかけた。


「筋肉では、守れないものがあった」

「……」

「その時の私は――」


 バサッ。

 脱いだ。

 街灯の下に、黒川の上半身が現れた。


「薄かったのです」

「言い方!!」

「胸も背中も、まだ甘い」

「甘い筋肉ってなに!!」

「守れる強さではなかった」


 真顔で言うな。


 ことみは、笑えなかった。

 黒川が、本気で言っているのが分かったから。

 この人は、本当に思っている。

 筋肉があれば、誰かを守れると。

 筋肉が足りなかったから、守れなかったと。


「私はそこから、本気で鍛えました」


 黒川が、胸に手を当てた。

 大胸筋が、ぴくんと動いた。


「朝五時に起きて、ジムへ」

「早い……」

「夜十一時まで、トレーニング」

「遅い……」

「大会も出続けました」


 黒川が、空を見上げた。


「筋肉で、もう二度と誰かを失わないために」

「筋肉で解決する案件じゃない……」

「ですが」


 黒川が、ことみを見た。

 目が、真っ直ぐだった。


「筋肉は、私を立たせてくれました」


 ことみは、息を呑んだ。


「落ち込んだ日も」

「……」

「悔しかった日も」

「……」

「スクワットは裏切らない」

「……」

「ベンチプレスは逃げない」

「……」

「重りは嘘をつきません」

「急に名言……」


 ことみの声が、少しだけ震えた。


「人は時に、逃げます」

「それは……そう」

「約束を守れないこともある」

「……うん」

「だが鉄は逃げない」

「金属への信頼が強い……」

「バーベルは、持ち上げた分だけ応えてくれる」

「……」

「筋肉は、鍛えた分だけ大きくなる」

「……」

「嘘がないんです」


 ことみは、小さく笑った。

 涙が、少しだけ滲んだ。


(この人、本当に筋肉が好きなんだ)

(ただの変態じゃない)

(筋肉に、救われたんだ)


 黒川が、続ける。


「筋肉で彼を救えなかった」


 静かな声。

 確かな声。


「でも、筋肉がなければ私は立ち直れなかった」


 沈黙。

 街灯の光だけが、二人を照らす。

 その空気を、破ったのは。


 ピクン。


 黒川の胸筋が、勝手に動いた。


「……今、感情でパンプしました」

「感情で動くな!!」

「悲しみの収縮です」

「やめて!!」


 ことみは、吹き出した。

 重い話なのに。

 真剣な話なのに。

 どうしてこうなる。


「感情が高ぶると、筋肉が反応するんです」

「自律神経が筋肉に直結してるの!?」

「長年鍛えてると、そうなります」

「ならないから!! 普通はならないから!!」


 だが

 ことみは笑いながら、涙を拭いた。


(この人らしい)

(重い話をしても、最後は筋肉で締める)

(それが、この人だ)


「私は、救えなかった日のことを忘れません」


 黒川が、まっすぐ言った。


「だからこそ、今は守れる範囲を守る」

「守る範囲?」

「娘。妻。息子。町内の平和。杉野さんの帰り道」


 心臓が、跳ねた。

 ドン。


(これは物理)

(きっと物理)

(声の振動)

(……たぶん)


「筋肉は万能ではありません」


 黒川が、コートを拾った。


「でも、無力でもない」


 ゆっくりと羽織る。


「だから私は、今日も仕上げるのです」

「理由が重い……」

「でも脱ぎます」

「そこは軽い!!」


 そして

 黒川が、再びコートを脱いだ。

 バサッ。


「ダブルバイセップス!!」

「切り替え早い!!」


 上腕二頭筋が、峰のように盛り上がる。

 長頭と短頭が、はっきりと分離している。

 血管が、浮き出ている。

 夜道に、実況が響いた。


「上腕二頭筋、覚悟のピーク!! 長頭から短頭への移行、美しい!! これは二十年分の積み重ね!! 守れなかった日から立ち上がった筋肉!!」


 ことみの声は、震えていた。

 笑いながら。

 少しだけ、涙ぐみながら。


(この人は変態だ)

(でも、ちゃんと痛みを知ってる)

(ちゃんと、傷ついたことがある)

(そして、筋肉で立ち上がった)


 それが、少しだけ誇らしかった。

 黒川が、ポーズを解いた。

 そして、コートを羽織った。


「今日の話、重かったですか?」

「……ちょっとだけ」

「すみません」

「でも……」


 ことみは、笑った。


「最後に脱いでくれたから、大丈夫です」

「そうですか」


 黒川も、笑った。

 穏やかな、いつもの笑顔。


「杉野さんの実況があると、重い話も軽くなります」

「それ、褒めてるのか貶してるのか分からない……」

「褒めてます」

「ありがとうございます」


 二人で、少し歩く。

 街灯の光が、足元を照らす。


「……黒川さん」

「はい」

「その同僚の方、今はどうしてるんですか?」


 黒川が、少し考えた。


「転職して、今は別の会社で働いています」

「連絡、取ってるんですか?」

「たまに」

「……よかった」

「彼も、今は元気です」

「そうですか」


 ことみは、安心した。

 救えなかった、と言っていたけど。

 その人は、今も生きている。

 元気にしている。

 それだけで、十分だった。


「彼には、まだ謝れていません」

「……そうなんですか」

「でも、いつか――」


 黒川が、胸に手を当てた。


「仕上がった姿を見せたいんです」

「それ、謝罪になるの?」

「なります」

「ならないから!!」


 ことみは、吹き出した。

 でも

 なんか、黒川らしいと思った。

 言葉じゃなくて、筋肉で語る。

 それが、この人のやり方。


「大会で優勝したら、連絡します」

「それは……いいかもしれませんね」

「お前、"すごくなったな"って言われたいんです」

「……うん」

「そして、"お前のおかげだ"と伝えたい」


 ことみの胸が、じんわりと温かくなった。


(この人、本当に優しいな)

(変態だけど)

(優しい)


 筋肉で救えなかった日。

 でも筋肉で、立ち上がった日。


 筋肉で、いつか恩返しをする日。

 黒川誠は、今日も真面目に変態だった。

 ことみの家の前に着いた。


「では、また」

「はい。ありがとうございました」

「気をつけて」


 黒川が、頭を下げた。


 去っていった。

 コートの背中が、夜の中に消えていく。

 広背筋の形が、コート越しにうっすらと見える。

 ことみは、その背中を見送りながら、

 小さく呟いた。


「……筋肉で救えないものもあるけど」

「筋肉で救えるものも、ある」


 それは、黒川が教えてくれたこと。

 ことみ自身も、少しだけ分かってきたこと。

 鍵を開けながら、

 ことみは笑った。

 涙が、少しだけ残っていた。


 でも、笑顔だった。

 今夜は、少しだけ重い夜だった。

 心が、軽くなった夜でもあった。





次回予告:

「桐谷の挫折と再生――桐谷課長にも、筋肉だけでは越えられなかった壁があった。その話を、ことみは初めて聞く……!」

 28話「桐谷の挫折と再生」に続く


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