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25話 コートマッチョの過去

 

 その夜。

 街灯の下で、黒川誠は珍しくポージングをしなかった。


 コートは着たまま。

 ビキニも出さない。

 胸筋も鳴らさない。


 ただ、街灯の下に立っている。

 ことみは不安になった。


(調子が悪い?)

(仕上がってない?)

(まさか、風邪?)


「……今日、仕上がってないんですか?」

「仕上がってはいます」

「じゃあなぜ出さない」

「今日は語る日です」


 語る日。

 そんな日あるの。

 筋肉カレンダーの中に、語る日というジャンルがあるの。


「語る日、って……」

「年に一度くらい、あります」

「年に一度くらい、なんですか」

「ポージングより、言葉の日です」

「筋肉にも休日が」

「筋肉は休みません。語る日も、インナーマッスルは動いています」

(やっぱり筋肉から離れられない)


 黒川誠は静かに空を見上げた。

 街灯の光が、横顔を照らす。

 いつもと違う、少し遠い目。


「私が初めて筋肉に出会ったのは、二十五年前です」

「初恋みたいに言う」

「ある意味、初恋です」

「ある意味、ですか」

「ええ。筋肉は私の最初の恋人かもしれません」

「奥さんに聞かせられない発言が出ました」


 黒川は、構わず続けた。


「高校二年、文化祭で"ミスター筋肉"という謎コンテストがありまして」

「なにその闇イベント」

「体育科の先生が企画したと聞いています」

「体育科の闇」

「クラスで無理やり出されました」


 黒歴史確定。


「当時の私は、ヒョロヒョロでした」

「えっ!?」


 ことみの脳が、処理を拒否した。


 ヒョロヒョロ?

 この肩幅が?

 この広背筋が?

 この大胸筋が?


「今の桐谷さんみたいなスーツが悲鳴を上げる肩幅は、一切ありませんでした」

「想像できない……」

「身長は今と同じですが、体重は今より三十キロ軽かったです」

「三十キロ!! それは筋肉だけ増えたんですか!?」

「脂肪は減っています。純粋に筋肉です」


(純粋に三十キロの筋肉を増やした人間がいる)

(二十五年かけて)


 ことみは、目を見開いた。


「文化祭当日、ステージに立った私は――」


 黒川が一歩前に出た。


「緊張で足が震え、ポーズを忘れ、結果……」

「結果?」

「転びました」

「ダサぁ!!」

「しかもパンツがずれました」

「最悪!!」


 思わず叫んだ。

 黒川は、静かに頷いた。


「会場は爆笑でした」

「そりゃそうだ!」

「女子はドン引き」

「そりゃそうだ!」

「男子は大爆笑」

「そりゃそうだ!」

「先生も笑っていました」

「企画した先生まで!」


 ことみは、涙が出るかと思った。

 笑いの涙か、同情の涙か、分からない。


「私は、その場で誓いました」


 黒川の目が、遠くを見る。

 街灯の光の中で、その瞳に二十五年前の文化祭が映っているようだった。


「二度と"笑われる筋肉"にはならない、と」

「もうなってるけど?」

「今は"愛される筋肉"です」


 言い切った。


(どこからその自信は来るのか)

(夜道で脱いで、町内会に公認されて、会社に侵入して)

(それが愛される筋肉……?)

(……まあ、愛されてるか)

(私が実況してるし)


「それから?」

「それから私は、筋肉を鍛えました」

「受験は?」

「並行してやりました」

「大学は?」

「経済学部でした」

「筋肉と経済学!?」

「左脳と右脳を同時に鍛えました」


(どっちが左でどっちが右か分からないけど)


「そこから二十五年、私は筋肉と向き合いました」

「受験より長い」

「就職活動より長い」

「人生の半分以上が筋肉」

「そうなります」


 黒川が、空を見上げた。


「失恋もしました」

「え、あるんだ」

「付き合っていた女性に、筋肉と付き合ってるみたいで無理と言われました」

「正論!」

「でも筋肉は裏切らなかった」

「そりゃそうだ筋肉だから!」

「筋肉は、常にそこにありました」

「比較する対象が違う! 人と筋肉を比べないで!」


 黒川は、淡々と続けた。


「その後も、二度ほど似たような理由で」

「二度も!?」

「あなたより筋肉の方が大事そうというお言葉を」

「正論が三連続!!」

「だが筋肉は裏切らない」

「そっちに走るな!!」


 ことみは、頭を抱えた。


(この人、三回も筋肉で失恋してる)

(そして毎回、筋肉に慰められてる)

(筋肉との共依存では……?)


「やがて就職し、結婚し、子供ができました」

「えらい! ちゃんと人間と!」

「妻は筋肉を理解してくれました」

「すごい人だ……」

「あなたが好きだから、筋肉も好きと言ってくれました」


(ひゅー!!)


 ことみは、思わず心の中で口笛を吹いた。


「奥さん、器がでかい……」

「大会の応援にも来てくれます」

「素晴らしい夫婦!! 筋肉が繋いだ縁!!」

「そうかもしれません」


 黒川の声が、少しだけ柔らかくなった。


「しかしある日、娘に言われました」

「なんと?」

「パパ、なんでいつも脱ぎたそうなの?」

「核心!!」

「私は答えました。仕上がっているからだと」

「教育ミス!!」

「だが娘は笑いました。じゃあ家の中でやってと」

「正論3!!」

「息子には、パパかっこいいと言われます」

「息子、目が曇ってる」

「いい子です」

「親バカが入ってる」

「親バカは筋肉より強い」


(それは認める)


 ことみは、吹き出した。

 笑いが止まらない。

 黒川は、真顔だ。

 真顔で語る。


「私は気づいたのです」

「何を」

「筋肉は見せたい。でも、誰かを困らせたくはない」

「それは大事」

「だから私は夜道を選びました」

「方向性が違う」

「人通りの少ない時間、街灯の下。安全確認を行い、三分以内。撤収」

「ルールが細かい!」

「大会前の最終調整も兼ねています」

「合理的か!」

「一石二鳥です」

「一石も二鳥もおかしい!!」


 ことみは、また笑った。

 腹が痛い。

 こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。


 黒川は、笑わない。

 ただ、静かに街灯を見上げている。


「私は、笑われる筋肉だった」


 ぽつりと言った。

 声が、変わった。

 さっきまでの淡々とした声じゃない。

 少しだけ、遠くなった。


「高校の文化祭で転んで、パンツがずれて、皆に笑われた」

「……」

「その時、本当に恥ずかしかった」

「……そうですよね」


 黒川が、ことみを見た。


「今は、杉野さんが実況してくれる」

「え」

「内側頭きれいー!と」

「やめて思い出させないで!!」

「大胸筋パンパンー!と」

「最初の夜の話してる!! あれは条件反射で!!」

「私はあれで、救われました」


 救われていた。

 まさかの。

 ことみは、口を閉じた。


「笑われるのではなく、実況される。それは――」


 黒川が、少しだけ微笑んだ。


「ちゃんと、見てもらえてる気がするんです」


 ことみは、何も言えなかった。


(私の条件反射が)

(あの反射的な叫びが)

(この人を救っていた)

(まさか)

(そんなこと、考えたこともなかった)


「……変態なのに」


 ことみは、やっと言った。


「善良です」

「自分で言う」

「私は、筋肉で誰かを元気にしたいだけです」


 その言葉は、まっすぐだった。

 曲がっていない。

 裏がない。

 本当に、それだけだった。


「高校の時の自分に、言ってやりたいんです」

「なんて?」

「転んでも、パンツがずれても、二十五年後には街灯の下で堂々と立てる、と」

「……」

「笑われても、続けていれば、いつか実況してくれる人が現れる、と」


 ことみの胸が、じんわりと熱くなった。


(これは物理的迫力じゃない)

(圧でもない)

(ただ、この人の話が)

(胸に刺さってる)


「……じゃあ、あの文化祭のリベンジってことですか」


 ことみは、やっと笑いながら言った。


「そうです」

「二十五年越しの」

「全国大会も狙っています」

「スケールが急にでかい!!」

「文化祭のステージから、全国のステージへ」

「壮大すぎる!」

「笑われた少年が、実況される大人になる」

「……なんかそれ、ちょっとかっこいいですよ」


 黒川が、ことみを見た。


「そうですか」

「うん……」

「ありがとうございます」


 深く、丁寧なお辞儀。

 黒川がゆっくりとコートに手をかけた。


「今日は語るだけの予定でしたが」

「待って」

「一ポーズだけ」

「やめて」


 バサッ。

 結局脱いだ。


 街灯の下に、黒川誠が現れた。

 ビキニパンツ一丁。

 仕上がっている。

 二十五年分、仕上がっている。

 ダブルバイセップス。

 上腕二頭筋が、峰のように盛り上がる。


「仕上がってるぅぅぅ!! 上腕二頭筋、ピーク最高峰!! 二十五年分の積み重ね、全部ここに!! 文化祭の少年、どこにもいない!! 今ここにいるのは、実況される男!!」


 夜道に、実況が響いた。

 黒川誠は、かつて笑われた少年だった。

 パンツがずれて、転んで、皆に笑われた少年。


 でも今は違う。

 笑われるのではなく、実況される。

 それが彼の選んだ、筋肉の使い道だった。

 ことみは思う。


(この人は変態だ)

(でも、ちゃんと優しい)

(ちゃんと、傷ついたことがある)

(そして、筋肉でそれを乗り越えた)


 そして少しだけ、誇らしかった。

 自分の実況が、この人の何かになっていたことが。

 街灯が、二人を照らす。

 二十五年前の文化祭は、とっくに終わった。


 黒川誠の戦いは、まだ終わっていない。

 そして、ことみの実況も、

 まだ続く。





次回予告:

「なぜ夜に脱ぐのか――科学的に考えてみた。ことみ、真剣に分析する。でも答えは、最初から分かっていたのかもしれない……!」

 26話「なぜ夜に脱ぐのか」に続く


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