24話 ことみ、筋肉に恋を自覚
温泉回の翌日。
会社の給湯室で、杉野ことみはマグカップを握りしめたまま固まっていた。
(違う)
(あれは違う)
(あれは恋じゃない)
(あれは筋肉だ)
昨夜の湯気の向こう。
きっちりタオルを巻き、視線を逸らし、礼儀正しく距離を保ちながら立っていた――黒川誠の背中。
広背筋の陰影。
僧帽筋の起伏。
湯気越しの逆三角形。
(心臓が鳴ったのは物理的迫力)
(圧)
(純粋な胸郭の暴力)
(ドン、と跳ねたのは恋じゃない)
(肺活量だ)
(たぶん)
ことみは、マグカップにコーヒーを注いだ。
手が、少し震えている。
(震えてるのもカフェインのせい)
(飲む前から震えてるけど)
(それは昨日の筋肉の残像)
(筋肉、残像残りすぎ)
「杉野、顔が赤いぞ」
低音。
振り返ると、桐谷課長がいた。
今日もスーツが戦っている。
肩の縫い目が、今にも白旗を上げそうだ。
「い、いえ別に! 酸素が濃くて!」
「酸素が?」
「筋肉が多いと空気が重くなる気がして!」
「気のせいだな」
桐谷課長が、コーヒーメーカーに手を伸ばした。
その動作。
袖がぴくりと動いた。
Yシャツの下で、上腕二頭筋が収縮した。
(あ、今内側頭が――)
「うわぁぁ上腕二頭筋内側頭きれいーー!! 長頭との分離も明確ーー!!」
反射で叫んだ。
「なぜ今?」
「分からないんです条件反射なんです! 腕が視界に入ると脳が勝手に解析して口が開くんです!」
「……それ、治す気はあるか?」
「ないです」
断言。
桐谷課長が、ため息をついた。
だが、耳が少し赤い。
(怒ってないじゃないか)
(褒められると弱いな、この人も)
給湯室の女子社員たちがざわつく。
「出た、筋肉実況」
「でもちょっと安心するんだよね」
「分かる、ラジオみたい」
「朝のルーティンになってる」
ラジオ扱い。
ことみは複雑な気持ちになった。
(私の条件反射が、社内コンテンツになってる……)
---
その時。
エントランスがざわついた。
ガラス越しに、人影が見えた。
スーツ姿の男性。
穏やかな顔。
来客用の受付で、丁寧に頭を下げている。
視線の先――黒川誠。
昼の顔。
穏やかな経理。
四十五歳、既婚、二児の父。
夜はコートの下に仕上がった筋肉を隠し持つ男。
でも今は、完全に普通の中年男性。
「昨日はありがとうございました」
丁寧な一礼。
変態要素、ゼロ。
品行方正な、隣のビルの経理担当者。
なのに、ことみの脳内では温泉の湯気と広背筋が再生される。
(再生するな筋肉メモリー)
(昨日のデータを消去しろ)
(上書き保存するな)
黒川が、ことみに気づいた。
「杉野さん、帰り道は大丈夫でしたか?」
それだけ。
それだけなのに。
ドン。
(だから物理! 声の振動! 共鳴! 低音が鼓膜を揺らしただけ!)
「は、はい! 大丈夫でした!」
「そうですか。良かった」
黒川が、にこやかに微笑んだ。
「守るのは、筋肉の役目ですから」
さらっと言うな。
さらっと言うなその台詞。
心臓がスクワットを始める。
ドン、ドン、ドン。
(違う)
(怖くない)
(安心してるだけ)
(ちょっと、守られた感じがしただけ)
それを世間では何と呼ぶのか。
「杉野さん、顔色が……」
「大丈夫です! 酸素が!」
「酸素?」
「筋肉が多いと空気が重くなる気がして!」
「……そうですか」
黒川は、困惑しながらも頷いた。
その困惑顔が、なぜか可愛かった。
(可愛いって思った)
(今、四十五歳の既婚筋肉おじさんを可愛いと思った)
(私、大丈夫か)
「大胸筋くん……広背筋さん……)
脳内で、セミナーのイラストキャラたちが踊り始めた。
(キャラに逃げるな)
---
昼休み。
ことみは一人で屋上に逃げた。
弁当を広げて、空を見上げる。
青い。
雲が流れている。
筋肉がない。
(……平和)
深呼吸。
心臓、落ち着いてきた。
(そうだ、分析しよう)
(私はなぜドキドキしているのか)
(順を追って考えよう)
ことみは、弁当のふたを持ちながら、指折り数えた。
「黒川さんは、夜道で筋肉を見せる変態」
「でも、昼は普通の経理のおじさん」
「うちの会社の社員でもない」
「既婚で、子供がいる」
「筋肉は本物」
「人柄も、悪くない」
「昨夜の温泉で、礼儀正しく距離を守った」
「それが、なぜかよかった」
弁当のふたを、ぱたんと閉じた。
(……問題点が見えない)
(いや、問題しかない)
(でも、なぜかドキドキする)
「どうした、杉野さん?」
後ろから声。
振り返ると、早苗だった。
屋上に、一人でおにぎりを食べに来たらしい。
「早苗さん……」
「顔が変」
「変ですか」
「悩んでる顔してる」
早苗が、隣に座った。
距離を保ちながら、でも確かに隣に。
「……誰かのこと、考えてた?」
「え?」
早苗の目が、鋭い。
「昨日から、ずっとそういう顔してる」
「そういう顔って」
「……初めて、人を意識した顔」
ことみは、弁当を持ったまま固まった。
(バレてる)
(早苗さんに、バレてる)
「違います」
「逃げ?」
「筋肉です」
「筋肉に恋するの?」
「筋肉は、恋の対象じゃないです!」
「じゃあ、筋肉の人に?」
ことみは、黙った。
早苗も、黙った。
風が吹いた。
「……あの人、既婚よ」
「知ってます」
「子供もいる」
「知ってます」
「うちの会社の人でもない」
「知ってます」
「夜は変態」
「知ってます」
「なのに?」
ことみは、空を見上げた。
「……なのに、安心するんです」
早苗が、少しだけ目を細めた。
「……馬鹿じゃないの」
「ですよね」
「でも」
早苗が、おにぎりを一口食べた。
「……嫌いじゃない」
「何が?」
「そういうの」
それだけ言って、早苗は前を向いた。
ことみは、笑った。
(早苗さん、優しいな)
(尖った言い方してるけど、優しい)
---
午後。
ことみは、仕事に集中しようとしていた。
書類を見る。
数字を確認する。
メールを返信する。
普通の、午後の仕事。
ふと気づいた。
(今日、黒川さんの筋肉、見てない)
(いつもなら、視界に入るだけで実況してるのに)
(今日は……筋肉より、黒川さんを見てる)
違いが、分かった。
筋肉を見てドキドキするのと、
黒川さんを見てドキドキするのは、
別のドキドキだった。
(……まずい)
(これは、まずい)
(条件反射の誤作動だ)
(パブロフの筋肉が、進化してる)
(パブロフの黒川になってる)
「杉野さん、大丈夫?」
美咲が、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です」
「今日、実況が少ないね?」
「……そうですか?」
「課長の前腕、さっき露出してたのに、何も言わなかった」
(気づいてなかった)
(桐谷課長の前腕に、気づかなかった)
(それはそれでまずい気がする)
「……疲れてるのかもしれません」
「ゆっくり休んでね」
美咲が、去っていった。
ことみは、デスクに突っ伏した。
(疲れてるんじゃない)
(恋してるのかもしれない)
(でも、誰に?)
(筋肉に?)
(変態に?)
(既婚の、隣のビルの経理に?)
(どれも違う気がするし、どれも正解な気がする)
---
その夜。
いつもの街灯の下。
黒川が立っていた。
今日は、コートを着ている。
脱がない。
ちゃんと着ている。
「今日はポージングしません。冷えますから」
「冷えるから!? いつもは冷えてても脱いでたじゃないですか!」
「大会前です。仕上がりが最優先です」
「理由が筋肉!」
理由は筋肉。
でも距離は絶妙。
触れない。
近すぎない。
ただ、隣にいる。
街灯が、二人の影を並べる。
風が、冷たい。
(これ……)
心臓がうるさい。
でも怖くない。
「……黒川さん」
「はい」
「それ、恋とかじゃないですからね」
「ええ」
「筋肉ですから」
「そうですね」
即答だった。
当然のように。
迷わず。
その即答に、ほんの少しだけ胸がきゅっとした。
(あ)
ことみは、止まった。
(今のは物理じゃない)
(圧でも、迫力でも、体積でも、浮力でもない)
(きゅってなった)
(心臓が、きゅってなった)
黒川が、空を見上げた。
「大会、来週なんです」
「そうなんですか」
「今年で、三回目の出場です」
「……緊張しますか?」
「します」
黒川が、ことみを見た。
「でも、実況があると思うと、不思議と落ち着くんです」
「え」
「杉野さんの実況、好きですから」
(また言った)
(好き、って言った)
(筋肉実況が好きって言ってる)
(筋肉実況が、だ)
(私じゃない)
ことみは、自分に言い聞かせた。
(筋肉実況が好き、だ)
(勘違いするな)
(人違いの恋をするな)
(筋肉実況をしてるのは、私だ)
(私が実況するから、好きって言ってくれた)
(それは……私じゃないけど、私だ)
複雑すぎる。
論理が崩壊している。
「杉野さん?」
「な、なんでもないです! 広背筋の調子はどうですか!」
「良好です。大会、見に来ますか?」
「え」
「実況、してほしくて」
(来てほしい、じゃなくて実況してほしい)
(実況目的)
(でも来てほしいってことだ)
(でも筋肉目的)
(でも来てほしいってことだ)
「……行きます」
「ありがとうございます」
黒川が、笑った。
街灯の下で、静かに笑った。
その笑顔が、昼の顔と同じで、
夜の変態マッチョと同じ人間で、
でも今は、ただの優しい笑顔で。
(私)
(この人が、好きなのかもしれない)
ことみは思った。
すぐに打ち消した。
(違う違う違う筋肉だ筋肉が好きなんだ)
(筋肉が好きで、筋肉に安心して、筋肉にドキドキしてるだけだ)
(人を好きになるって、もっと真剣なものだ)
(こんな、夜道の街灯の下で、変態の広背筋を見て気づくものじゃない)
街灯の下、コートは落ちなかった。
今夜、筋肉は見えなかった。
ことみの最終防衛ラインが、静かに一枚、落ちた夜だった。
帰り道。
電車の中で、ことみはスマホを見つめた。
連絡先は、交換していない。
住所も知らない。
名前しか知らない。
顔を思い出せる。
声を思い出せる。
広背筋の形を、そらで描ける。
(筋肉から入って、人に行くのか……)
(逆だろ、普通)
(でも私には筋肉から入るしか無理だったかもしれない)
(最初に出会ったのが、街灯の下の変態だったから)
(怖いと思って、笑って、でも怖くなくなって、安心して、気づいたら――)
ことみは、窓の外を見た。
夜景が流れていく。
街灯が、いくつも通り過ぎる。
(……恋かな)
小さく、呟いた。
誰にも聞こえないように。
自分にだけ、確認するように。
(筋肉への恋じゃなくて、人への恋)
(かもしれない……?)
電車が、駅に着いた。
ことみは、立ち上がった。
背筋が、ピンと伸びていた。
次回予告:
「コートマッチョの過去――なぜ黒川誠は、夜道で筋肉を見せるのか。その答えが、ついに明かされる……!」
25話「コートマッチョの過去」に続く
よろしければ、続きの目印にブックマーク、応援に☆を押していただけると嬉しいです。




