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23話 温泉回(※健全・筋肉)

 

 事件は、会社の掲示板から始まった。



 《社員親睦・温泉日帰り旅行》

 目的:リフレッシュ及び親睦深化

 場所:山奥の秘湯・○○温泉

 備考:混浴なし・男女完全分離

 注意:節度を守ること


 その下に、誰かが赤字で書き足していた。


 ※筋肉も守ること


(誰?)


 ことみは、その張り紙を三回読んだ。

 三回読んでも、意味が分からなかった。


(筋肉を守る……?)

(守り方って……?)


「杉野さん、参加しますよね?」


 美咲が、隣でにこにこしていた。


「あ……はい……」


(参加していいのか……)

(でも、社員親睦なので……)

(でも、あの人たちも来るんだよな……)

(でも、男女分離なので……)

(でも、筋肉の気配が分離を超えてくる気がして……)


「やった! 一緒に行きましょう!」


 美咲の笑顔に、ことみは頷いた。

 運命は、その瞬間に決まった。



 ---



 当日。

 山奥。

 秘湯。


 バスを降りた瞬間、空気が変わった。

 硫黄の匂い。

 山の冷たさ。

 筋肉の気配。


 杉野ことみは、入口で立ち尽くしていた。


(……来るんじゃなかったかも)


 理由。

 脱衣所の方向から、筋肉の気配がする。

 視認できない。

 見えない。

 でも、確かに感じる。


(パブロフの筋肉、発動してる……)


 桐谷課長が、ことみの横を通った。


「杉野さん、楽しんでこい」

「は、はい……」

「脱がないから安心しろ」

「言わせてしまってすみません」


 黒川も、軽く会釈した。


「良い湯でしょう。地元で評判の秘湯です」

「ありがとうございます……」


(なんで来てるの黒川さん)

(社員でもないのに)

(あ、そうか、町内会つながりで桐谷課長に誘われたのか)

(この人たちの繋がり、全部筋肉経由だ)



 ---



 男湯。

 桐谷課長と黒川が、並んで湯船に浸かっている。

 無言。

 圧。


 だが、二人とも動かない。

 まるで修行僧のように、静止している。

 桐谷課長が言う。


「……約束は守る」


 黒川、頷く。


「はい。健全に浸かります」


 二人、真剣。

 まるで大会前の誓いのような、重い空気。


「……今日は一切ポーズを取らない」

「はい」

「湯から上がっても、誇示しない」

「はい」

「スチームで筋肉が映えても、無視する」

「……努力します」

「努力で足りるか?」

「……精進します」


(何の修行)


 だが、問題が発生した。

 すぐに発生した。


「……沈む」


 桐谷課長が、眉間にしわを寄せた。


「……沈みますね」


 黒川も、困惑している。

 二人の体が、何処までも沈みそうになっている。

 体脂肪率が低すぎると、筋肉が沈むらしい。

 油断すると、顔まで沈む。

 骨盤の位置を意識して、腹筋に力を入れることで、沈み込みを減らす。


「腹筋に力を入れろ」


 二人とも腹筋に力を入れた。

 湯が、ゆっくりと揺れた。


「……沈まない」

「……沈みませんね」

「腹横筋、フルで使え」

「使ってます」

「もっとだ」

「これ以上は……」


 二人の回りから人が離れてゆく。


「……!」

「課長!」

「分かっている!」


 桐谷課長が、腹筋をやめ体を沈めた。

 ザバッ。

 湯が、飛び散った。

 他の男性社員が、全員端に避難した。


「課長、大丈夫ですか……?」

「問題ない。体積と浮力の問題だ」

「問題ありますよ」



 ---



 女湯。

 ことみが、湯船に入った。


「……あ」


 温度、ちょうどいい。

 肩まで浸かる。


(……生き返る)


 硫黄の匂い。

 静かな湯の音。

 山の空気。


 これは、普通の温泉だ。

 普通の、癒しの温泉だ。

 ことみは、目を閉じた。


(……平和)


 壁一枚向こう、男湯側から。

 妙な音が聞こえる。

 ゴポッ。

 ザバッ。


「……腹筋を使え」

「使ってます」

「もっとだ」

「これ以上は人体の限界です」


(何してるの)


 ことみの口が、反射的に開いた。


「腹横筋、制御モード! 筋密度高すぎて浮かない問題発生! これは体脂肪率が低すぎる人間特有の現象!」


 隣に入っていたおばあちゃんが、ゆっくりと振り向いた。


「……何の話?」

「筋肉です」

「ああ」


 完全に納得した顔で、おばあちゃんは前を向いた。


(ここ、秘湯なのに筋肉が当然の顔してる)


 美咲が、ことみの耳元で囁いた。


「ねえ、杉野さん……向こう、何か起きてる?」

「筋肉が浮かない問題が発生してます」

「どういう意味?」

「筋肉が多すぎて、水に沈みすぎます」

「……なにそれ」

「私もなにそれって思ってます」


 早苗が、湯船の端で腕を組んでいた。


「……来るんじゃなかった」

「早苗さん、なんで来たんですか」

「……親睦だから」


 小声。

 照れ隠しが見え見えだった。



 ---



 露天。

 男女、完全に仕切られている。

 岩が積まれ、板で覆われ、どこから見ても安心な構造。

 ことみは、露天の湯に浸かった。


 空が、広い。

 星が、出始めている。

 山の夜は、早い。


(……きれい)




 男湯側。

 黒川が、岩に腰掛け、空を見上げていた。


「……いい湯ですね」


 桐谷課長が、腕を組んだ。


「筋肉が、緩む」


 真面目。


「温泉の効能か」

「硫黄が、筋繊維に入り込んでいる気がする」

「気のせいです」

「……そうか」


 二人で、静かに湯に浸かる。

 星空を見上げる。

 湯煙が、夜空に溶けていく。


 二人が同時に気づいた。


「……これは」

「危険ですね」


 理由。

 緩みすぎると、ポーズを取りたくなる。

 筋肉が緩むと、筋肉を確認したくなる。

 筋肉を確認するには、動かすのが一番だ。

 動かすには、ポーズが一番だ。

 論理的帰結として、ポーズを取りたくなる。


 その瞬間。

 桐谷課長が、立ち上がりそうになった。


「……!」

「課長!」


 黒川が、即制止。


「ダメです」

「……分かっている」

「分かっているなら座ってください」

「分かっているが、筋肉が言うことを聞かない」

「筋肉に聞くのをやめてください」


 ギリギリ。

 健全の瀬戸際。

 桐谷課長が、ゆっくりと湯に戻った。

 ザバッ。


「……鎮まれ」

「課長、誰に言ってるんですか」

「筋肉にだ」

「……筋肉、聞きますか」

「今は……聞いている」


 ギリギリ健全、継続。



 ---



 女湯。

 ことみが、露天の湯気の向こうを見ていた。

 岩の向こう。

 男湯側。


 湯煙の中に

 影。


 岩越しに、筋肉のシルエットが見えた。

 見えた、というより、感じた。

 輪郭が、湯煙に滲んでいる。

 だが確かに、そこにある。

 広背筋の翼のような形。

 肩の丸み。


 心臓が、ドンと鳴った。


(……近い)


 いや、物理的には全然近くない。

 岩があって、板があって、距離もある。

 でも、気配が近い。


(ドキドキしてる)


 すぐ否定。


(違う、圧の確認だ)

(筋肉の気配を、脳が感知してるだけだ)

(条件反射が高度化しただけだ)


「シルエット、造形美! 湯煙フィルター越しでも分かる広背筋! でも距離、完璧に守られてる! 健全!」


 露天の湯が、静まり返った。

 おばあちゃんが、ゆっくり目を開けた。


「……さっきから、実況が聞こえるんだけど」

「すみません、クセです」

「若い人は大変ねえ」

「ありがとうございます」


 早苗が、目を細めた。


(……杉野、顔赤い)

(湯のせいだけじゃない顔してる)

(気づいてないのか、気づかないふりをしてるのか)


 早苗は、何も言わなかった。

 ただ、湯に肩まで浸かって、

 空を見上げた。



 ---



 その時。

 事件が起きた。


 プロテインを飲む猫が、

 露天に乱入した。


「ニャ」


 どこから来たのか。

 秘湯の山奥に、なぜ猫がいるのか。

 全ての疑問を無視して、

 猫は湯船の縁に乗った。


 前脚が太い。

 後ろ脚も太い。

 肩が、丸い。


「……あの猫」


 男湯から、黒川の声が聞こえた。


「……仕上がってるな」


 桐谷課長の声も聞こえた。

 男湯、ざわつく。

 猫が、湯船の縁でゆっくりストレッチを始めた。

 前脚を伸ばす。

 背中を反らす。

 後ろ脚を踏ん張る。

 完璧なフォーム。


「柔軟性、神域! 前脚から後ろ脚への連動、美しい! 体幹、安定! ムキムキなのに柔らかい! 理想の筋肉!」


 ことみが叫んだ。

 おばあちゃんが、感心した顔で言った。


「最近の猫は、すごいねえ」

「そうなんです!」

「よく鍛えてあるね」

「誰が鍛えたのか謎なんですよ!」


 早苗が、頭を抱えた。


「……なんで温泉で筋肉の話をしてるの」

「仕方ないんです! 見えると出るんです!」

「病院」

「行く時間がないんです!」


 猫は、ひとしきりストレッチをして、

 満足そうに去っていった。

 にゃあ(低音)。

 男湯からも、何か音がした。

 たぶん、拍手だった。



 ---



 風呂上がり。

 休憩所。

 全員が、牛乳を飲んでいた。

 これだけは、全員一致で牛乳。

 プロテインではなく、牛乳。


 桐谷課長が、牛乳を一口飲んで言った。


「……今日は、脱がなかった」


 黒川が、頷く。


「……脱ぎませんでした」


 二人が、静かに手を差し出した。

 握手した。

 真剣に。

 まるで、大会で優勝したように。


「……偉い」


 桐谷課長が、黒川に言った。


「……課長も、偉かったです」

「あの瞬間は、危なかった」

「私も、三回くらい危なかったです」

「沈んだ時は、どうしようかと思った」

「腹横筋、頑張りました」

「よく頑張った」

「ありがとうございます」


 社員たちが、遠くからその光景を見ていた。


「……何の話してるんだろう」

「筋肉の話じゃないかな」

「たぶんそう」

「でも、なんかいい話っぽい」

「うん、なんかいい話っぽい」


 ことみは、牛乳を飲みながら、

 二人を見ていた。


(この人たち……)

(本当に、筋肉を信仰してるだけだ)

(悪意がない)

(誰かを傷つけようとしてない)

(ただ、筋肉が好きで、それを守りたくて、でも誰かを怖がらせたくなくて)

(そのせめぎ合いで、健全を保ってる)


 笑ってしまう。

 ことみは、声を出して笑った。


「……何がおかしい」


 桐谷課長が、不思議そうに聞いた。


「いえ……なんか、好きだなって」

「筋肉が?」

「二人が」


 桐谷課長と黒川が、顔を見合わせた。

 二人とも、少しだけ耳が赤くなった。


「……そうか」

「……ありがとうございます」


 不器用な反応。

 だが、確かに嬉しそうだった。

 早苗が、牛乳を飲みながら、ぼそりと言った。


「……私も、まあ……悪くなかった」

「早苗さん!」

「一回しか言わないから聞き逃さないで」

「聞きました! ちゃんと聞きました!」

「……うるさい」


 早苗は笑っていた。

 ほんの少しだけ。

 確かに、笑っていた。

 心が、少し軽い。


 ことみは、そう思いながら、

 牛乳を飲み干した。

 変態だけど、健全。

 脱ぐけど、今日は脱がなかった。

 筋肉が、今日は静かだった。


 でも、温泉の中でも、

 筋肉は確かにそこにあった。

 それが、なぜか安心だった。





次回予告:

「杉野ことみ、恋を自覚!? でも相手は人じゃないかもしれません――筋肉? それとも……?」

 24話「杉野ことみ、筋肉に恋を自覚」に続く


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