22話 変態だけど、ちゃんと紳士
最初に言っておく。
黒川誠は、
変態である。
夜に脱ぐ。
ポーズを決める。
ビキニパンツで街灯の下に立つ。
夜道で筋肉を披露する。
言い逃れ不能。
否定の余地、ゼロ。
本人も認めている。
だが同時に
とても紳士だ。
この矛盾が、問題だった。
最近は忘れそうになるが、黒川は、ことみの会社の社員ではない。
隣のビルの会社の経理だ。
なのに、なぜか毎日、ことみの会社にいる。
通勤路が、たまたま同じらしい。
らしい、が。
(本当にたまたまなのか)
(会社の中が通勤路なのか?)
ことみは、深く考えないようにしていた。
---
朝。
会社の前。
ことみが自動ドアをくぐろうとした瞬間、
後ろから足音がした。
「おはようございます」
黒川だった。
ポロシャツ姿。
普通の中年男性。
だが肩幅が、ことみの一・五倍ある。
「お、おはようございます……」
「今日も早いですね」
「そちらも……」
二人で、自動ドアの前に立つ。
問題が発生した。
ドアが、二人同時には通れない。
いや、物理的には通れる。
だが黒川の肩幅と、ことみの肩幅を合わせると、
ドアの幅がギリギリだった。
「……お先にどうぞ」
黒川が、一歩引いた。
即座に。
考える間もなく。
「あ、でも黒川さんは隣のビルなので、先に行かれた方が……」
「いいです。どうぞ」
有無を言わせない。
だが、強引じゃない。
ことみが先に入った。
振り返ると、黒川は一人で隣のビルに向かっていた。
広背筋が、朝の光に照らされて輝いている。
(……毎朝、道を譲ってくれてる)
ことみは、そう気づいた。
今まで当然のように受け取っていたが、
全然当然じゃない。
---
昼休み。
ことみが、会社の前のベンチで弁当を食べていると、
隣のビルから黒川が出てきた。
「杉野さん」
「あ、黒川さん」
「昼休みですか」
「はい」
「良かったら」
黒川が、コンビニの袋を差し出した。
「あ……なんですか?」
「プロテインバー。疲れた顔をしていたので」
(また、見てた)
「……ありがとうございます」
「鶏むね肉入りの弁当、今日は買えましたか?」
「あ、はい。今日は買えました」
「特売日でしたね」
(スーパーの話してる)
昼のベンチ。
隣のビルの経理おじさんと、
プロテインバーの話。
なんか、普通だった。
異常なほど、普通だった。
(夜は脱いでるのに)
(なぜこんなに普通なの)
ことみが首を傾げていると、
黒川が少し遠慮がちに言った。
「……昨夜は、遅くまで残業でしたか」
「そうなんです。月末なので」
「そうですか。無理しないでください」
ただそれだけ。
余計なことは何も言わない。
踏み込まない。
でも、ちゃんと見ている。
(変態なのに)
(めちゃくちゃ気遣いがある)
条件反射。
「観察眼、前中後均等発達! さりげなさ、血管系!」
「……実況、今は要りませんよ」
「無理です」
「……そうですか」
黒川は、苦笑した。
その笑顔が、昼の光に照らされて、
夜の変態マッチョとは思えないほど穏やかだった。
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午後。
ことみの会社のロビー。
黒川が、来客として訪れていた。
どうやら、隣のビルの会社と、ことみの会社は取引があるらしい。
受付で手続きをしながら、黒川は静かに待っていた。
そこに、子ども連れの来客が同じタイミングで来た。
小学生くらいの男の子。
黒川を見上げた。
「……でっか」
ずっと上まで首を傾けて。
黒川が、その場で屈んだ。
書類を片手に持ったまま。
男の子と、目線を合わせた。
「こんにちは」
優しい。
完全に優しい。
男の子、一瞬ためらって、
それから笑った。
「こんにちは!」
「君、何年生?」
「三年生!」
「そうか。背が伸びるといいな」
「お兄さんみたいになりたい!」
黒川、苦笑。
「おじさんだけどな」
男の子、笑い声を上げて、母親のところに駆けていった。
ロビーで待機中のことみは、遠くからそれを見ていた。
(……ギャップ)
(変態なのに)
(子どもに優しい)
(夜は脱ぐのに)
(昼は屈んで目線を合わせる)
複雑な気持ちになった。
複雑だが、悪くない複雑さ。
---
夕方。
帰り支度。
早苗が、たまたまロビーで黒川と鉢合わせした。
黒川は、取引が終わって帰るところだった。
早苗が、腕を組んで立った。
「……夜の件」
空気が止まる。
ことみも、手が止まる。
「正直に答えてください」
「はい」
「あれ、不審者でしょ」
直球。
逃げ場なし。
黒川は、少し間を置いてから、
頷いた。
「否定はしません」
即認める。
「自覚があるんですか」
「あります」
「なのになぜ」
「……筋肉への情熱が、自制を上回ります」
「それ、理由になります?」
「理由にはなりません。事実です」
早苗、呆れたため息。
「じゃあなんで、昼はあんなにちゃんとしてるの」
「昼と夜は、別です」
「別じゃない。同じ人間でしょ」
「……そうです」
黒川が、背筋を伸ばした。
「ですが」
静かな、確信に満ちた声。
「誰かを怖がらせたら、それは失格です」
「……」
「私は、見せたいだけで――触れたいわけじゃない」
空気が、少し変わった。
「誰かの嫌がることは、しない。それだけは、守ってます」
「……」
「夜道で実況してくれたことみさんが、最初に怖がらなかった。だから続けられた」
黒川は、ことみを一瞬だけ見た。
「怖がられていたら、やめていました」
ことみの胸が、小さく跳ねた。
(……私が、怖がらなかったから)
(だから続けられた)
(私が、いたから)
「ただの経理のおじさんが、夜道で筋肉を見せる」
黒川は、少し自嘲するように笑った。
「変なのは分かってます。でも――」
間。
「隣のビルの、名前も知らない人たちに迷惑をかけたくはない」
(ちゃんと考えてる)
(夜の変態が、ちゃんと考えてる)
早苗は、黒川をしばらく見ていた。
目を逸らした。
「……変な人」
間。
「……嫌いじゃない」
小声。
本当に小声。
ほとんど聞こえない声。
だが、確かに言った。
黒川が、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
早苗、顔を赤くして、さっさと歩き去った。
ことみは、それを見て笑った。
(早苗さんも、ちゃんと人間だ)
---
夜。
帰り道。
ことみ、一人。
街灯の下。
夜風が、少し冷たい。
少し不安。
少し離れた場所に、黒川。
五歩後ろ。
コートを羽織っている。
帰り道が、たまたま同じ。
たまたま、だ。
「……今日は、ここまでにします」
静かに言った。
「え?」
「それ以上近づくと、怖がらせますから」
踏み込まない。
境界線を、自分で引く。
「隣のビルの人間が、毎日送るのは――不審ですよね」
自分で言った。
自覚がある。
「……あの、大丈夫ですよ」
「大丈夫でも、距離は守ります」
「なんで?」
「怖くないからといって、踏み込んでいい理由にはならないからです」
ことみは、立ち止まった。
(……この人)
(変態なのに)
(一番、距離感が正確だ)
(隣のビルの、関係ない人なのに)
(こんなに、ちゃんとしてる)
「自己制御、最高峰! 自制筋、完全稼働! 紳士力、筋肉と同じくらい鍛えてある!」
黒川、苦笑。
「実況、禁止です」
「無理です」
「……はい」
諦めた顔。
二人で、少し歩く。
五歩の距離を保ったまま。
その距離が、不思議と心地よかった。
近すぎず、遠すぎず。
ちょうどいい安心。
ことみの家の近くまで来た。
「ここで」
「はい。ありがとうございました」
「気をつけて」
黒川は、頭を下げて、
来た道を戻っていった。
振り向かない。
ゆっくりと。
まるで、ことみが家に入るのを確認するように。
ことみは、鍵を開けながら、
振り返った。
街灯の下に、黒川の背中が見えた。
コートの広背筋が、夜の中に溶けていく。
(変態だけど)
(ちゃんと紳士)
(しかも、うちの会社の人でもないのに)
(この矛盾、ずるい)
だが、恋ではない。
人として、安心できる。
それだけ。
それだけ、のはずだった。
鍵を回しながら、
ことみは小さく呟いた。
「……好きな人に、こうしてもらったら、たぶん泣く」
言ってから、気づいた。
(……今、何を言った?)
(なんで今、そんなことを考えた?)
ことみは、素早くドアを閉めた。
廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
心臓が、少し速い。
(物理的迫力のせい)
(それだけ)
(それ以外の理由はない)
(……たぶん)
次回予告:
「温泉回、開幕! 健全とは何か、筋肉とは何か――全員が脱ぐ(健全に)夜が来る……!」
23話「温泉回(※健全・筋肉)」に続く
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