表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/39

22話 変態だけど、ちゃんと紳士

 

 最初に言っておく。


 黒川誠は、

 変態である。


 夜に脱ぐ。

 ポーズを決める。

 ビキニパンツで街灯の下に立つ。

 夜道で筋肉を披露する。

 言い逃れ不能。

 否定の余地、ゼロ。

 本人も認めている。


 だが同時に

 とても紳士だ。


 この矛盾が、問題だった。


 最近は忘れそうになるが、黒川は、ことみの会社の社員ではない。

 隣のビルの会社の経理だ。

 なのに、なぜか毎日、ことみの会社にいる。

 通勤路が、たまたま同じらしい。

 らしい、が。


(本当にたまたまなのか)

(会社の中が通勤路なのか?)


 ことみは、深く考えないようにしていた。



 ---



 朝。

 会社の前。

 ことみが自動ドアをくぐろうとした瞬間、

 後ろから足音がした。


「おはようございます」


 黒川だった。

 ポロシャツ姿。

 普通の中年男性。

 だが肩幅が、ことみの一・五倍ある。


「お、おはようございます……」

「今日も早いですね」

「そちらも……」


 二人で、自動ドアの前に立つ。

 問題が発生した。

 ドアが、二人同時には通れない。

 いや、物理的には通れる。

 だが黒川の肩幅と、ことみの肩幅を合わせると、

 ドアの幅がギリギリだった。


「……お先にどうぞ」


 黒川が、一歩引いた。

 即座に。

 考える間もなく。


「あ、でも黒川さんは隣のビルなので、先に行かれた方が……」

「いいです。どうぞ」


 有無を言わせない。

 だが、強引じゃない。

 ことみが先に入った。

 振り返ると、黒川は一人で隣のビルに向かっていた。

 広背筋が、朝の光に照らされて輝いている。


(……毎朝、道を譲ってくれてる)


 ことみは、そう気づいた。

 今まで当然のように受け取っていたが、

 全然当然じゃない。



 ---



 昼休み。

 ことみが、会社の前のベンチで弁当を食べていると、

 隣のビルから黒川が出てきた。


「杉野さん」

「あ、黒川さん」

「昼休みですか」

「はい」

「良かったら」


 黒川が、コンビニの袋を差し出した。


「あ……なんですか?」

「プロテインバー。疲れた顔をしていたので」


(また、見てた)


「……ありがとうございます」

「鶏むね肉入りの弁当、今日は買えましたか?」

「あ、はい。今日は買えました」

「特売日でしたね」


(スーパーの話してる)


 昼のベンチ。

 隣のビルの経理おじさんと、

 プロテインバーの話。

 なんか、普通だった。

 異常なほど、普通だった。


(夜は脱いでるのに)

(なぜこんなに普通なの)


 ことみが首を傾げていると、

 黒川が少し遠慮がちに言った。


「……昨夜は、遅くまで残業でしたか」

「そうなんです。月末なので」

「そうですか。無理しないでください」


 ただそれだけ。

 余計なことは何も言わない。

 踏み込まない。


 でも、ちゃんと見ている。


(変態なのに)

(めちゃくちゃ気遣いがある)


 条件反射。


「観察眼、前中後均等発達! さりげなさ、血管系!」

「……実況、今は要りませんよ」

「無理です」

「……そうですか」


 黒川は、苦笑した。

 その笑顔が、昼の光に照らされて、

 夜の変態マッチョとは思えないほど穏やかだった。



 ---



 午後。

 ことみの会社のロビー。

 黒川が、来客として訪れていた。

 どうやら、隣のビルの会社と、ことみの会社は取引があるらしい。

 受付で手続きをしながら、黒川は静かに待っていた。


 そこに、子ども連れの来客が同じタイミングで来た。

 小学生くらいの男の子。

 黒川を見上げた。


「……でっか」


 ずっと上まで首を傾けて。

 黒川が、その場で屈んだ。

 書類を片手に持ったまま。

 男の子と、目線を合わせた。


「こんにちは」


 優しい。

 完全に優しい。

 男の子、一瞬ためらって、

 それから笑った。


「こんにちは!」

「君、何年生?」

「三年生!」

「そうか。背が伸びるといいな」

「お兄さんみたいになりたい!」


 黒川、苦笑。


「おじさんだけどな」


 男の子、笑い声を上げて、母親のところに駆けていった。

 ロビーで待機中のことみは、遠くからそれを見ていた。


(……ギャップ)

(変態なのに)

(子どもに優しい)

(夜は脱ぐのに)

(昼は屈んで目線を合わせる)


 複雑な気持ちになった。

 複雑だが、悪くない複雑さ。



 ---



 夕方。

 帰り支度。

 早苗が、たまたまロビーで黒川と鉢合わせした。

 黒川は、取引が終わって帰るところだった。

 早苗が、腕を組んで立った。


「……夜の件」


 空気が止まる。

 ことみも、手が止まる。


「正直に答えてください」

「はい」

「あれ、不審者でしょ」


 直球。

 逃げ場なし。

 黒川は、少し間を置いてから、

 頷いた。


「否定はしません」


 即認める。


「自覚があるんですか」

「あります」

「なのになぜ」

「……筋肉への情熱が、自制を上回ります」

「それ、理由になります?」

「理由にはなりません。事実です」


 早苗、呆れたため息。


「じゃあなんで、昼はあんなにちゃんとしてるの」

「昼と夜は、別です」

「別じゃない。同じ人間でしょ」

「……そうです」


 黒川が、背筋を伸ばした。


「ですが」


 静かな、確信に満ちた声。


「誰かを怖がらせたら、それは失格です」

「……」

「私は、見せたいだけで――触れたいわけじゃない」


 空気が、少し変わった。


「誰かの嫌がることは、しない。それだけは、守ってます」

「……」

「夜道で実況してくれたことみさんが、最初に怖がらなかった。だから続けられた」


 黒川は、ことみを一瞬だけ見た。


「怖がられていたら、やめていました」


 ことみの胸が、小さく跳ねた。


(……私が、怖がらなかったから)

(だから続けられた)

(私が、いたから)


「ただの経理のおじさんが、夜道で筋肉を見せる」


 黒川は、少し自嘲するように笑った。


「変なのは分かってます。でも――」


 間。


「隣のビルの、名前も知らない人たちに迷惑をかけたくはない」


(ちゃんと考えてる)

(夜の変態が、ちゃんと考えてる)


 早苗は、黒川をしばらく見ていた。

 目を逸らした。


「……変な人」


 間。


「……嫌いじゃない」


 小声。

 本当に小声。

 ほとんど聞こえない声。

 だが、確かに言った。

 黒川が、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 早苗、顔を赤くして、さっさと歩き去った。

 ことみは、それを見て笑った。


(早苗さんも、ちゃんと人間だ)



 ---



 夜。

 帰り道。

 ことみ、一人。


 街灯の下。

 夜風が、少し冷たい。

 少し不安。

 少し離れた場所に、黒川。

 五歩後ろ。

 コートを羽織っている。

 帰り道が、たまたま同じ。

 たまたま、だ。


「……今日は、ここまでにします」


 静かに言った。


「え?」

「それ以上近づくと、怖がらせますから」


 踏み込まない。

 境界線を、自分で引く。


「隣のビルの人間が、毎日送るのは――不審ですよね」


 自分で言った。

 自覚がある。


「……あの、大丈夫ですよ」

「大丈夫でも、距離は守ります」

「なんで?」

「怖くないからといって、踏み込んでいい理由にはならないからです」


 ことみは、立ち止まった。


(……この人)

(変態なのに)

(一番、距離感が正確だ)

(隣のビルの、関係ない人なのに)

(こんなに、ちゃんとしてる)


「自己制御、最高峰! 自制筋、完全稼働! 紳士力、筋肉と同じくらい鍛えてある!」


 黒川、苦笑。


「実況、禁止です」

「無理です」

「……はい」


 諦めた顔。


 二人で、少し歩く。

 五歩の距離を保ったまま。

 その距離が、不思議と心地よかった。

 近すぎず、遠すぎず。

 ちょうどいい安心。

 ことみの家の近くまで来た。


「ここで」

「はい。ありがとうございました」

「気をつけて」


 黒川は、頭を下げて、

 来た道を戻っていった。

 振り向かない。

 ゆっくりと。

 まるで、ことみが家に入るのを確認するように。


 ことみは、鍵を開けながら、

 振り返った。

 街灯の下に、黒川の背中が見えた。

 コートの広背筋が、夜の中に溶けていく。


(変態だけど)

(ちゃんと紳士)

(しかも、うちの会社の人でもないのに)

(この矛盾、ずるい)


 だが、恋ではない。

 人として、安心できる。

 それだけ。

 それだけ、のはずだった。

 鍵を回しながら、

 ことみは小さく呟いた。


「……好きな人に、こうしてもらったら、たぶん泣く」


 言ってから、気づいた。


(……今、何を言った?)

(なんで今、そんなことを考えた?)


 ことみは、素早くドアを閉めた。

 廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。

 心臓が、少し速い。


(物理的迫力のせい)

(それだけ)

(それ以外の理由はない)

(……たぶん)





次回予告:

「温泉回、開幕! 健全とは何か、筋肉とは何か――全員が脱ぐ(健全に)夜が来る……!」

 23話「温泉回(※健全・筋肉)」に続く


 よろしければ、続きの目印にブックマーク、応援に☆を押していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ