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21話 初めての「守られた夜道」

 

 夜道は、基本的に怖い。


 街灯があっても、

 人通りがあっても、

 理由は説明できないが、怖い。


 杉野ことみは、

 いつもより少し遅い時間に会社を出た。

 空は、すっかり暗い。


 街灯が、ぼんやりと地面を照らしている。

 コンビニの明かり。

 自販機のネオン。

 遠くで鳴く野良猫の声。

 いつもと、何も変わらない夜道。


(……今日は、なんか平気かも)


 それが最初の異変だった。

 なんか、怖くない。

 なぜかは、分からない。

 でも、確かに。

 いつもよりも、夜道がやさしい気がした。



 ---



 駅前。

 いつもの帰り道。

 街灯。

 ベンチ。

 自販機。

 配置は、いつもと同じ。

 なのに。


(……静か)


 不安が、胸の奥に浮かばない。

 ことみは、なぜだろうと首を傾けた。

 理由はすぐ分かった。


 少し前を

 黒川が歩いている。

 黒いコート。

 脱がない。

 ちゃんと着ている。


 今日は完全に変態要素ゼロ。

 普通の、コートを着た普通の中年男性。


 距離は、ちょうど五歩。

 近すぎず、遠すぎず。

 まるで、最初から計算していたような距離感。


「……あれ?」


 気づかれた。

 黒川が、振り返る。


「お疲れさまです」


 普通。

 完全に普通。

 家族思いの普通の中年男性の声。


「お疲れさまです」


 ことみ、つい条件反射。


「僧帽筋、夜間警備仕様! 背中、死角なし! コート越しでも広背筋の存在感、健在!」


 黒川、苦笑。


「実況、要りませんよ」

「無理です。見えると出るんです」

「……体質ですね」

「体質です」


 二人で、並んで歩き始めた。

 自然に。

 気づいたら、隣にいた。



 ---



 少し歩く。

 夜風が吹く。


 黒川が、自然に風上に立った。

 ことみの方に、風が当たらないように。

 歩きながら、さりげなく。

 まるで、最初からそこに立っていたかのように。

 ことみ、気づく。


(……え)


 寒くない。

 いつもより、夜風が穏やかに感じる。


(……なんで)

「……あの」

「はい?」

「いつも、こうして歩いてるんですか」


 黒川、少し考える。

 夜空を一瞬見上げて、


「夜道は、怖いでしょう?」


 当然みたいに。

 特別なことでもないように。

 胸が、小さく跳ねる。


(あ、これ――)


 すぐ否定。


(違う、恋じゃない)

(配置が完璧なだけ)

(風上に立たれると、物理的に寒くないだけ)

(体感温度の問題)

(筋肉が風をさえぎってるだけ)

「……ありがとうございます」

「大したことじゃないです」


 黒川は、そう言って前を向いた。

 横顔が、街灯に照らされる。

 穏やかな目。

 落ち着いた表情。

 昼は経理の普通のおじさんで、

 夜はコートマッチョで……。


 でも今は


(……ただの、優しい人だ)


 ことみは、そう思った。



 ---



 曲がり角。

 居酒屋の前。

 酔っ払いの声が聞こえた。


「おいっ」

「うるさっ」

「ちょっと待てよ」


 どうやら、酔っ払い同士の喧嘩。

 ことみは、無意識に身をすくめた。


 その瞬間、

 黒川が一歩前に出た。

 距離が、縮まる。

 ことみの半歩前。


「大丈夫ですよ」


 低く、落ち着いた声。

 圧。

 だが、怖くない。

 圧だけど、安心の圧。


 酔っ払いたちは、黒川に気づくと、

 なぜか急に静かになった。

 黒川の背中。

 コート越しでも分かる、広背筋の張り。

 肩幅。

 存在感。


(……広背筋が、壁になってる)


 ことみの心臓は

 速くならなかった。

 安定。


(……あれ)

(ドキドキしない)

(でも、安心はある)

(物理的な安心がある)

「広背筋、盾! 下半身、地盤! 重心、びくともしない!」


 言った。

 自分で。

 黒川が、振り返って笑った。


「褒め言葉として受け取ります」

「褒め言葉です」

(ドキドキしないのに、なんで笑えるんだろう)


 酔っ払いたちは、いつの間にかどこかに行っていた。



 ---



 途中。

 反対側から、歩いてくる人物がいた。


「……杉野さん」


 桐谷課長だった。

 スーツ姿。

 残業帰り。

 夜道に、上司が現れた。


「課長?」

「ああ。帰りか」

「はい。黒川さんが……」

「……送っているのか」


 黒川、頷く。


「偶然、同じ方向で」


 桐谷課長、無言。

 黒川を見る。

 ことみを見る。

 また黒川を見る。

 数秒。

 沈黙。

 街灯が、三人を照らす。


「……」


 そして。


「……なら、反対側は俺が見る」


 桐谷課長が、ことみの反対側に立った。


 左右配置、完成。

 左:黒川(風上・コートあり)

 中央:ことみ(完全保護)

 右:桐谷課長(スーツ・肩幅MAX)


(……え)

(何これ)

(守られてる)


 三人で、並んで歩き始めた。

 異様。

 客観的に見て、完全に異様。

 通行人が、三人を見て道を譲った。

 自転車が、遠回りをした。

 野良猫が、さっと物陰に隠れた。


(……これ、怖がられてない?)


 ことみは、少し心配になった。


「あの、迷惑じゃないですか」

「問題ない」

「大丈夫ですよ」


 二人、同時に答えた。

 息が合っている。

 微妙に、ライバルなのに。


 歩く。

 三人。

 異様。

 だが平和。

 会話はない。

 足音だけが、夜道に響く。


 不思議と、会話がいらなかった。


(……安心)


 ことみは、そう感じていた。

 ドキドキはしない。

 心臓は、穏やかに動いている。

 なのに、胸が温かい。

 これはなんだろう。

 恋じゃない。

 でも、確かに何かがある。


 早苗の声が、なぜか脳内再生された。


『……治安、良くなるわね』

(そういうことか)

(筋肉が、治安を上げてる)

(物理的に)


 ことみは、小さく笑った。


「……何がおかしい」


 桐谷課長が聞く。


「いえ、なんでもないです」

「……そうか」


 黒川が、少しだけ微笑んだ。


「楽しそうで、良かったです」


 ことみは、また笑った。



 ---



 駅前。

 別れ際。

 黒川が言った。


「お気をつけて」


 穏やかに。

 桐谷課長が言った。


「……無理はするな」


 ぶっきらぼうに。

 だが、確かに。

 二人とも、それ以上は踏み込まない。

 何かを求めない。

 ただ、そこにいただけ。

 ことみは、改札に向かいながら思う。


(恋じゃない)

(でも……)

(守られるって、こういう感じなんだ)


 胸に残るのは、

 温度ではなく

 配置。


 左右に、確かにいた。

 それだけ。

 それだけなのに。

 なぜか、とても安心だった。



 ---



 電車の中。

 ことみは、つり革を持ちながら、

 今日のことを思い返していた。


(風上に立ってくれた)

(一歩前に出てくれた)

(反対側に立ってくれた)


 全部、さりげなかった。

 全部、当然のように。

 全部、何も求めずに。


(……これが、黒川さんの筋肉の使い方か)


 黒川が夜道で筋肉を見せる理由。

 桐谷課長が筋肉を鍛える理由。

 それは、まだ全部は分からない。

 今夜少しだけ、分かった気がした。


(守るためだって、言ってたね)


 ことみは、窓の外を見た。

 夜景が、流れていく。

 街灯の光が、いくつも通り過ぎる。


(筋肉って……)

(案外、優しいのかもしれない)


 その考えが、また怖かった。


(筋肉汚染が進んでる……)

(早苗さんに言われた通りだ……)


 止められなかった。



 ---



 その夜。

 ことみは、布団に入って、

 すぐに眠った。

 久しぶりに、夢を見ずに眠れた。

 夢の中でも実況しなかった。

 筋肉も出てこなかった。

 ただ、静かに、深く眠れた。


 翌朝、目が覚めた時、

 ことみは不思議に思った。


(昨日、なんで安心できたんだろう)


 答えはすぐ出た。


(配置が、完璧だったから)


 ことみは、起き上がって、

 背筋を伸ばした。

 昨日より、少しだけ姿勢がいい気がした。


(……プロテインのせいだ)

(絶対にそれだけだ)


 スマホを開いて、

 検索した。


「プロテイン 初心者 おすすめ」

(……参考までに)





次回予告:

「変態だけど、ちゃんと紳士!? 黒川の正体が、さらに深まる。そして、ことみは気づき始める――この人たちの筋肉は、何のためにあるのかを……!」

 22話「変態だけど、ちゃんと紳士」に続く


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