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19話 ことみ、筋肉でドキドキしてしまう

 

 最初に言っておく。

 これは恋ではない。

 圧である。





 朝。

 出社した瞬間、杉野ことみは違和感を覚えた。


(……空気、重くない?)


 理由はすぐ分かった。

 桐谷課長と黒川が、同時に廊下に立っている。

 左右に壁。

 中央に通路。


 その通路が

 狭い。

 物理的に。


 昨日と廊下の幅は変わっていない。

 変わったのは、廊下を塞いでいる筋肉の量だ。


「おはようございます」


 黒川、爽やか。

 朝の光を受けて、ポロシャツの肩が輝いている。


「……おはよう」


 桐谷課長、低音。

 スーツが今日も悲鳴を上げている。

 ことみは、二人の間を抜けようとした。

 足が止まった。

 脳が、勝手に解析を始めた。


(左:広背筋120センチ超……)

(右:三角筋、前中後均等発達……)

(中央:ことみが通れるスペース、推定40センチ……)


 ことみは反射的に、


「僧帽筋、左右対称! 広背筋、天井に当たりそう! 三角筋、壁に当たりそう! 廊下の筋肉占有率、推定80パーセント!」


 出た。

 条件反射。

 黒川、軽く会釈。


「ありがとうございます」


 桐谷課長、なぜか一歩前へ。

 近い。


「……杉野」

「は、はい」

「今の掛け声……」


 息が、ことみの頬に当たる距離。


(近い近い近い近い)

(大胸筋が近い)

(鎖骨が近い)

(あと10センチで額に当たる)

「俺にも、言えるだろう」


 圧。

 純度100%の筋肉圧。

 心臓が、バーベルを落としたみたいに跳ねた。


「大胸筋、存在主張強め! 鎖骨、もはや装飾! 肩峰、高高度! スーツ、泣いてる!」


 桐谷課長、満足。


「ありがとう」

(なにこの空間)

(廊下で何が起きてるの)


 ことみは、二人の間を全力で通り抜け、

 自席に向かった。

 心臓が、まだ速かった。


(物理的迫力のせいだ)

(絶対そうだ)

(それ以外の理由はない)



 ---



 午前。

 コピー機前。

 ことみが、紙詰まりを直そうとした瞬間

 後ろに、黒川。


「危ないですよ」


 手を伸ばす。

 距離、ゼロ。

 ことみの背中に、分厚い体温。

 壁のような胸板が、すぐ後ろにある。


「ひっ……」


 心臓、スプリント開始。


(近い近い近い近い)

(広背筋が近い)

(体積がでかすぎる)

(これは物理の問題だ)

「ここを、こうすると」


 黒川の腕が、ことみの横を通過する。

 前腕が視界に入る。

 血管が浮き出ている。


「体幹安定! 重心ブレなし! 前腕屈筋群、日常使用型! 動作が丁寧で安定感がある!」


 条件反射②、発動。

 黒川、苦笑。


「実況しなくて大丈夫です」

「無理です! 見えると出るんです!」

「……そうですか」


 コピー用紙が、するりと出てきた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございま……」

「気をつけて」


 黒川が、一歩引いた。

 体温が、遠のいた。

 ことみは、コピー用紙を抱えたまま、

 しばらく動けなかった。


(……暑い)

(顔が熱い)

(コピー機が熱かっただけ)

(絶対そうだ)



 ---



 会議室。

 午前十一時。

 桐谷課長が、プロジェクターを使って説明していた。

 資料を指す腕が

 太い。

 スーツ越しでも分かる。

 Yシャツで来れば良かったのに、なぜかジャケットを着ている。

 それでも筋肉の主張が強い。


(腕が……近い)


 ページをめくるたびに、風圧。

 実際は風圧なんてない。

 でも、ことみの体は風圧を感じていた。


「杉野」

「は、はい!」


 桐谷課長が、ことみの方を向いた。


「ここ、分かるか」


 資料を持った手が、ことみの前に突き出される。

 顔が近い。

 体が近い。

 視界が、筋肉で埋まった。


「上腕三頭筋、角度完璧! 肘、芸術! 前腕と上腕の移行部、美しい! スーツの袖、悲鳴!」


 会議、止まる。

 全員が、ことみを見る。


「……」

「……すみません」


 早苗が、冷酷な視線を向ける。


「……職場ですよ」

「分かってます! でも見えると出るんです!」

「病院」

「行く時間がないんです!」


 早苗は、ため息をついた。


 一瞬だけ、ことみを見る。


(……心臓、大丈夫?)


 ほんの一瞬、心配そうな顔。

 すぐ仏頂面。


(今、可愛くなかった?)

(絶対気のせいだ)



 ---



 昼休み。

 社員食堂。

 ことみ、逃げるように席へ。

 トレーを持って、端の席を確保。

 今日こそ、穏やかに昼食を取る。

 そう決めた。

 が。


 左右に、人が座った。

 左:桐谷課長。

 右:黒川。

 挟まれた。


(死角がない)

(逃げ場がない)

(椅子の背もたれが壁になってる)

「……隣、いいですか」

「どうぞ」


 ことみは、なぜか自分で許可してしまった。

 黒川、普通に食事を始める。


「うちの子がですね」


 子供の話。

 平和。

 穏やか。

 桐谷課長、静かに頷く。


「……いい父親だ」


 空気、落ち着く。

 ことみ、ホッとした。

 よかった、普通だ。

 普通の昼食だ。



 ---



 した瞬間。

 二人が同時に立った。

 ドンッ。

 テーブルが揺れる。

 いや、テーブルは揺れていない。

 ことみの心臓が揺れた。


「お手洗い」

「失礼」


 二人が同時に席を立つ。

 その動作で、

 左右から筋肉の気配が消えた。

 体積が、いきなり減った。

 ことみは、深呼吸した。


 もう一度、二人が戻ってきた。


「失礼」

「どうも」


 また、左右に座る。


「下半身安定感! ハムストリングス信頼感! 着席動作、スムーズ!」


 もう止まらない。

 女性社員たちが、遠くから見ている。


「怖い」

「笑う」

「なぜか安心」


 いつもの三派。

 早苗は、腕組みして見ている。


(……ことみ、大丈夫か?)


 心の中で、そう思っていた。

 絶対に言わないけど。



 ---



 午後。

 デスクワーク。

 ことみは、必死に仕事に集中しようとしていた。

 書類を見る。

 数字を確認する。

 メールを返信する。

 普通。

 普通の仕事。

 普通の午後。



 ---



 だが、視界の端に入る。

 桐谷課長の腕。

 電話を持つ手。

 シャツの袖を少しまくった前腕。

 血管が浮き出ている。


(……前腕屈筋群……)

(ダメ、見ない)

(仕事、仕事)


 視線を戻す。

 書類を見る。

 数字を確認する。

 また、視界の端に入る。

 黒川が、書類を取りに来た。

 ことみのデスクの近くを通る。

 広背筋が、ポロシャツを押し上げる。

 歩くたびに、わずかに動く。


(……大円筋から広背筋への流れ……)

(ダメ、見ない)

(仕事、仕事、仕事)


 ことみは、一度机に突っ伏した。


「……」

「杉野さん、大丈夫?」


 美咲が、心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫です」

「顔、赤いけど」

「大丈夫です」

「熱ある?」

「筋肉熱です」

「そんな病気ある?」

「たぶんあります」



 ---



 夕方。

 帰り道。

 ことみは、会社を出て、夜風を浴びた。

 冷たい空気が、頬に当たる。

 ようやく、心臓が落ち着いてきた。


(なんでこんなにドキドキするんだろう)


 答えは明白。

 恋じゃない。


 ただ、

 ・距離が近い

 ・体積がでかい

 ・圧がすごい

 心臓が耐えられないだけ。


(そうだ、物理的な問題だ)

(心臓が、筋肉の圧に負けてるだけ)

(恋なんかじゃない)

(絶対に)


 そこへ桐谷課長が現れた。


「杉野」

「は、はい」

「……今日は、疲れた顔をしているな」


 不器用な気遣い。


「大丈夫です」

「……無理はするな」


 それだけ言って、桐谷課長は去った。

 振り向かない。

 だが――背中が、少しだけ気にしていた。

 広背筋が、わずかに動いた気がした。


(今の、気にしてるの筋肉語だ)


 ことみは、心の中で実況した。

 黒川も、少し離れた場所で、

 コートを羽織りながら言った。


「お気をつけて」


 紳士。

 完全な紳士。


「……はい。ありがとうございます」


 ことみは立ち尽くした。


(……なにこれ)

(偽物のラブコメ?)

(心臓が速いのは、物理的迫力のせいだ)

(でも……)


 街灯が、ことみを照らす。

 風が、髪を揺らす。

 心臓は、まだ速い。

 理由は、分かっている。

 筋肉が、近すぎる。


 それだけ。

 それだけの話。


(……たぶん)

(……きっと)

(……そうに決まってる)


 ことみは、夜空を見上げた。

 星が、やけに明るく見えた。


 小さく呟いた。


「……プロテイン、飲んでみようかな」

(え、なんで今それを思った?)

(筋肉的に、どういう意味?)

(それとも――)


 ことみは、首を振った。


「違う、違う」


 心臓はまだ速かった。





次回予告:

「プロテインを間違えて飲む夜! ことみ、人生初のプロテインで何かが変わる!? でも理由は、絶対に筋肉のせいだから!」

 20話「プロテインを間違えて飲む夜」に続く


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