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2話  翌日も出る筋肉、出社する恐怖

 

 翌朝。

 杉野ことみは、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 理由ははっきりしている。


(……また、出てきたらどうしよう)


 布団の中で天井を見つめながら、昨夜の光景が脳内でリプレイされる。


 街灯。

 黒いコート。


 黄金の筋肉。


(ダブルバイセップス……)


「っ!」


 反射的に、


「仕上がってる……!」


 と呟いてしまい、慌てて自分の口を押さえた。


「違う違う違う! 朝! ここ自宅! 筋肉いない!」


 なのに、脳内では勝手にポーズが始まる。

 胸を張る幻のマッチョ。

 背中を見せる幻のマッチョ。

 太ももが躍動する幻のマッチョ。


「肩にメロン……」

「腹筋、板チョコ……」

「大腿四頭筋、丸太……」


 全部、声に出ていた。


「やばい……完全にやばい……」


 ことみは洗面所で顔を洗いながら、自分の異変を自覚する。

 筋肉を見ると、掛け声が出る。

 止めようとすると、逆に出る。

 しかも的確。


(なにこの条件反射……犬? 私、犬なの? パブロフの犬ならぬ、パブロフの筋肉?)


 鏡の中の自分が、やけに疲れて見えた。

 クマが濃い。

 前髪もうねっている。

 でも一番怖いのは、目が妙に生き生きしていることだった。


「……嘘でしょ……」


 心のどこかで、また会いたいと思っている自分がいた。



 ---



 会社に行く準備をしながらも、不安は消えなかった。

 怖いのは、夜道の変態マッチョじゃない。

 今日一日、筋肉を見ないでいられるかどうかだ。


 スーツを着た男性。

 腕まくり。

 階段を上る営業。

 つり革を掴む通勤客。


(見ない、見ない、見ない……)


 電車に揺られながら、ことみは必死に視線を下に固定していた。

 だが、視界の端に入る。

 半袖Yシャツの二の腕。

 スーツの上からでも分かる肩幅。

 立っている人のふくらはぎ。


(……見えちゃう……!)


 心の中で悲鳴を上げながら、ことみは必死に下を向いた。

 床。

 床を見よう。

 床には筋肉がない。

 と思ったら、目の前に革靴があった。


 その持ち主の足首が見える。

 ふくらはぎが見える。

 スラックスの裾から、わずかに覗く筋肉質な脚。


(アキレス腱、太い……! ヒラメ筋、発達してる……! 第二の心臓が機能してる……!)

「っ……!」


 口を押さえた。


(ダメだ……もう無理……世界が筋肉に見える……)


 ---


 出社。

 オフィスはいつも通りだった。

 コピー機の音。

 キーボードの音。

 平和。


(よし……今日は普通……普通に仕事……筋肉なんて見ない……)


 席に座り、パソコンを立ち上げた、その時。


「杉野さん、おはよう」


 隣の席の営業・田中が、軽く手を上げた。

 その瞬間、

 シャツ越しの上腕二頭筋が、視界の端に入った。


「……っ」


 喉が鳴る。


(ダメ、見ちゃダメ……)


 脳はすでに解析を始めていた。


(張り、あり……無駄な脂肪、なし……でもビルダーほどじゃない……日常的な運動による自然な発達……恐らく週二回程度のジム通い……もしくは学生時代の部活の名残……)


「……日常使いの筋肉……!」


 出た。


「え?」

「す、すみませんっ!!」


 ことみは全力で誤魔化した。


「い、今のはその、えっと……健康診断の話です! 日常使いの……筋肉って……大事……ですよね……?」

「??? まあ、そうっすね。俺、週末フットサルやってるんで」

「あ、やっぱり……!」

「やっぱり?」

「あ、いえ! 何でもないです!」


 田中は首を傾げつつも、「健康第一っすよね」と言って去っていった。


(危ない……危なすぎる……)


 ことみは悟った。

 職場は安全地帯ではない。

 筋肉は、どこにでもある。



 ---



 午前中の会議は、地獄だった。

 プロジェクターの前に立つ部長。

 腕を組む先輩。

 書類を配る総務。

 ペンを回す同期。

 コーヒーカップを持ち上げる人事。

 目に入るたび、脳内実況が始まる。


(部長の肩幅、広め……スーツのサイズ、ちょっとキツそう……つまり肩が育ってる……!)

(先輩の前腕、使ってる……キーボード打つ指の動き……前腕筋群、活動中……握力も強そう……!)

(姿勢いい人、だいたい筋肉……総務の佐藤さん、脊柱起立筋がしっかりしてる……体幹トレーニングしてる……!)

「……」


 口を噛みしめて耐える。


(出るな……出るな……)


 だが、ついに限界は訪れた。

 部長が腕を伸ばしてホワイトボードに図を描いた。


 その瞬間。


 スーツの背中が、わずかに引っ張られた。

 広背筋の形が、うっすらと浮かんだ。


「背中、意外とあるー……! 広背筋が発達してるー……!」


 静まり返る会議室。


「……」

「……杉野さん?」

「ち、違うんです!!」


 何が違うのか、自分でも分からなかった。


「あ、あの……背中って……大事ですよね……姿勢……! 姿勢が……猫背防止には広背筋……!」

「……まあ、確かに姿勢は大事だが……」


 部長は困惑した顔で頷いた。

 同期の美咲が、小声で囁いてきた。


「ことみ……大丈夫……? さっきから変だよ……」

「……全然大丈夫じゃない……」

「昨日の変態、まだ気にしてるの?」

「気にしてるっていうか……筋肉が……頭から離れなくて……」

「え、筋肉?」

「そう……見るたびに……実況しちゃうの……止められないの……」

「……病院行く? マジで」

「行った方がいいかも……精神科? 脳神経外科?」


 会議が終わり、自席に戻る途中。

 廊下ですれ違う男性社員の腕。

 階段を上る営業の太もも。

 給湯室でコーヒーを入れる先輩の肩。

 全てが、ことみの目には筋肉情報として入ってくる。


(上腕三頭筋……大腿四頭筋……三角筋……僧帽筋……)


 心の中で唱えながら、必死に口を閉じる。


(言わない……言わない……言わない……)


 ---


 昼休み。

 机に突っ伏しながら、ことみは小さく呻いた。


「私……どうしちゃったんだろ……」


 怖いのは、変態マッチョじゃない。

 筋肉そのものでもない。

 それを見て、喜んでしまう自分だった。


 何より

 今夜の帰り道。


(……また、出るよね……あの人)


 予感だけは、妙に当たるのだ。

 食堂で昼食を取りながら、美咲が心配そうに言った。


「ねえ、今日は誰かと帰ったら? 一人で帰るの危ないよ」

「うん……そうする……」

「っていうか、警察に相談した方がいいんじゃない?」

「……でも、何もされてないし……」

「いや、十分ヤバいでしょ! 夜道でコート脱いでビキニパンツとか!」

「……そうなんだけど……」


 言えなかった。

 また見たいという気持ちがあることを。

 あの筋肉をもう一度見たいという欲求があることを。


(私、完全におかしくなってる……)


 午後の仕事は、全く手につかなかった。

 書類を見ても、文字が頭に入らない。

 代わりに入ってくるのは、


 黄金の筋肉。


 街灯の下のポーズ。

 ダブルバイセップス。

 サイドチェスト。

 バックダブルバイセップス。

 モスト・マスキュラー。

 ヴァキューム。


(……やばい……完全に筋肉に侵食されてる……)


 時計を見ると、午後三時。

 あと二時間で定時。


 そして夜。

 心臓がドキドキし始めた。

 期待なのか、恐怖なのか、自分でも分からなかった。



 ---



 その時、背後から声がした。


「杉野さん」


 振り向くと、桐谷課長が立っていた。

 四十代、長身、スーツ姿。

 いつも通りの姿。

 だが


(……あれ?)


 ことみは、初めて気づいた。

 課長のスーツ、妙に肩がパツパツじゃない?

 袖も、二の腕のところが少しキツそうじゃない?

 そして首が太い。

 いや、太いというより筋肉質。


「今日も遅くなりそう?」

「あ、はい……多分……」

「そうか。昨日の話、もう少し聞かせてくれないか」

「昨日の……話……?」

「筋肉変態の話」


 課長の目が、妙に真剣だった。

 いや、キラキラしていた。


「ポーズの順番、もう一度教えてくれないか。最初がダブルバイセップスで、次がサイドチェストで……」

「え、ええっと……」

「それで、バックダブルバイセップスの時の広背筋の張りはどうだった? クリスマスツリーは見えた? 血管は? カットは?」

「か、課長……」

「すまん、気になって仕方ないんだ」


 課長は、まるで少年のような目をしていた。


(……この人、絶対普通じゃない……)


 そして、ことみは気づいてしまった。

 課長の腕。

 スーツの袖から、わずかに見える前腕。

 血管が浮いている。

 しかも太い。


(……これ……トレーニーの腕だ……!)

「……っ!」


 口が開きかける。


(ダメ、言っちゃダメ……!)


 だが、


「前腕、血管バキバキ……! 前腕筋群、発達してる……! 握力も相当……!」


 出た。


「……ん?」


 課長が、自分の腕を見た。


「ああ、これ? まあ、ちょっとトレーニングしてるから」

「トレーニング……」

「うん。週六で」

「週、六……」


 それ、もう趣味じゃなくて生活じゃないですか。

 ことみは、絶句した。


(この人……ガチ勢だ……)

「杉野さんも興味ある?」

「え、いえ……」

「筋肉、いいぞ。裏切らない」


 課長が、にこやかに笑った。

 だが、その笑顔の裏に何かが見えた気がした。

 筋肉への情熱。

 止められない欲求。

 そして同志を求める目。


(……この人、危険だ……)


 直感が、そう告げていた。



 ---



 定時を過ぎ、残業が始まった。

 周りの社員が次々と帰っていく中、ことみは一人パソコンに向かっていた。

 美咲が帰り際に言った。


「ことみ、気をつけてね。何かあったらすぐ電話して」

「うん、ありがとう」


 オフィスが静かになる。

 時計の音だけが響く。


 窓の外は、もう暗かった。


(……今夜も……出るのかな……)


 心臓がドキドキし始める。

 怖いのか。

 期待しているのか。

 自分でも分からなかった。


 荷物をまとめ、オフィスを出る。

 エレベーターに乗り、一階へ。

 ビルの外に出ると、夜風が頬を撫でた。

 湿気は昨日よりマシだったが、それでも重い。

 駅に向かって歩き出す。

 街灯の光。

 コンビニのネオン。

 居酒屋の看板。

 全てが、昨日と同じ。


 今夜は、何かが違う気がした。

 予感。

 胸騒ぎ。

 期待と恐怖が混ざった、奇妙な感覚。


 駅前の、あの街灯の下。

 黒いコートの人影が、また立っていた。


「……!」


 ことみの足が、止まった。

 心臓が、激しく鳴る。

 来た。

 また来た。


 バサッ。


 コートが舞った。

 黄金の筋肉が、再び夜道に現れた。


「……っ!」


 ことみの口が、勝手に開いた。


「仕上がってるー! 昨日よりパンプしてるー! 筋肉が張ってるー!」


 叫びながら、彼女は思った。


(……私、もうダメだ……)


 男は、満足げに笑い、ポーズを取り始めた。

 ダブルバイセップス。

 サイドチェスト。

 バックダブルバイセップス。


 ことみの実況は、止まらなかった。


「肩ー! 胸ー! 背中ー! 全部仕上がってるー!」


 夜道に響く、彼女の声。


 もう、逃げられない。

 筋肉沼が、ことみを飲み込もうとしていた。




次回予告:

「課長の正体が明らかになる! スーツの下に隠された、衝撃の筋肉。そして、ことみは知る、この世界には、もっと深い"筋肉の闇"があることを……!」

 3話「筋肉オタク上司・桐谷の正体」に続く


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