18話 桐谷、無自覚対抗心で筋トレ増量
朝。
会社の自動ドアが開いた瞬間、
社員全員が思った。
(……狭くなった?)
物理的に。
廊下が、昨日より狭い気がする。
天井が、昨日より低い気がする。
空気が、昨日より薄い気がする。
原因はすぐ判明した。
「おはようございます」
桐谷課長である。
昨日より明らかに、肩が分厚い。
スーツの縫製が人生の選択を間違えた顔をしている。
ジャケットの肩線が、完全に本来の位置を見失っている。
袖のボタンが、今にも「もう無理」と言い出しそうだ。
「……課長」
杉野ことみが、恐る恐る声をかける。
「その……肩幅、成長期ですか?」
「違う」
即答。
「これは"調整"だ」
「調整で壁に当たらないでください」
実際、桐谷課長は廊下を歩くたびに、肩が壁をかすめていた。
すれ違う社員たちが、本能的に壁に張り付く。
「課長、こちら通っていただければ」
「問題ない」
問題しかない。
ことみは、桐谷課長の肩幅を見つめながら、
脳内で計算した。
(昨日が……推定120センチで……今日は……130センチ……?)
(一夜で10センチ増えてる……)
(人間の筋肉って、そんなに早く育つ……?)
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午前の会議。
桐谷課長、着席。
ギギギ……
椅子が嫌な音を立てる。
「……課長、立って話します?」
「問題ない」
次の瞬間。
バキッ
椅子、静かに崩壊。
脚が、一本折れた。
会議室、沈黙。
全員が、桐谷課長を見ている。
桐谷課長は、落ち着いて言った。
「……筋力が想定を超えただけだ」
「課長は椅子じゃなくて自分を心配してください」
フォローになってない。
総務が、新しい椅子を持ってきた。
強化型の。
その奥で、
コートを腕にかけた男が静かに頷く。
黒川である。
今日も、穏やかなポロシャツ姿。
だが、その肩幅は、桐谷課長に負けず劣らず。
「無理をすると、日常に支障が出ますよ」
穏やかな声。
家庭を大事にしていそうな声。
妻子に優しそうな声。
「……」
桐谷課長、無言でネクタイを締め直す。
その動作で、前腕の筋が浮き出た。
ことみの口が、開きかけた。
(ダメ、今は会議……)
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昼休み。
給湯室。
ことみがコーヒーを入れていると、
桐谷課長が横に立った。
近い。
筋肉的に。
「杉野さん」
「は、はい」
「……黒川さんは」
来た。
「はい?」
「……家庭は、円満らしいな」
「はい。奥さんとお子さん大好きですよ。先週も、家族で公園に行ったって言ってました」
即答。
桐谷課長、なぜか咳払い。
「……そうか」
「娘さんが、パパの筋肉が好きだって」
「……そうか」
「息子さんも、一緒にトレーニングしてるって」
「……そうか」
(何の確認だったんだろう)
ことみが首をかしげていると、
当の黒川が現れた。
「杉野さん、昨日の実況、的確でしたね」
「えっ」
反射的に、
「外旋きれい! 肩峰下スペース確保! 回旋筋腱板、しっかり機能してる!」
出た。
条件反射。
黒川、満足げ。
「ありがとうございます。参考になります」
「い、いえ……」
そこへ桐谷課長。
「……俺の肩も、見てほしいのだが」
急に。
「え?」
「黒川の筋肉を理解できるなら、俺の筋肉も理解できるはずだ」
理屈が雑。
「い、いや、それは……」
「見てくれ」
桐谷課長が、さらりとジャケットを脱いだ。
Yシャツ姿。
袖をまくった。
前腕が露出する。
「前腕屈筋群、解析頼む」
「給湯室でやることじゃありません!」
ことみは、全力で止めた。
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午後。
なぜか始まる。
筋肉ディスカッション会議(非公式)
発案者:不明。
場所:大会議室。
参加者:全社員(強制ではないが、なぜか全員いる)。
黒川が、穏やかに説明する。
「筋肉は見せるものではなく、生活を支えるものです」
スライドが映し出される。
日常動作の写真。
重いものを持つ。
子供を抱っこする。
椅子から立ち上がる。
「これら全てに、筋肉が関わっています」
女性社員A「安心感ある」
女性社員B「普通にいい人」
女性社員C「家族思い感」
一方、桐谷課長。
「筋肉は鍛え、極めるものだ」
スライドが映し出される。
限界重量のバーベル。
大会のポーズ写真。
血管が浮き出た前腕のアップ。
「これが、筋肉の真髄だ」
早苗(筋肉アンチ)、腕組み。
「……暑苦しい」
黒川と桐谷課長が、
同時に背筋を伸ばした。
空気、変わる。
(……圧)
まるで、二つの筋肉が語り合っているような。
言葉はない。
だが、確実に何かが交差している。
早苗、視線を逸らす。
「……チッ」
ことみの口が、勝手に開いた。
「はい! 両者、広背筋を張り合ってます! これは"筋肉語による対話"! 言葉なき交渉! 素晴らしい!」
「杉野さん、今は黙って」
桐谷課長が言った。
「すみません」
だが、ことみには分かった。
この二人、ライバルになっている。
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夕方。
ジム。
桐谷課長が、過去最高重量に挑戦中だった。
バーベル、150キロ。
春日井トレーナーが、横で見ている。
「なぜ今日は、そこまで追い込むんですか」
妖精みたいな目で、全てを見抜いている顔で聞く。
「理由はない」
桐谷課長、即答。
「ただ……」
バーベルを持ち上げながら、
「……あの男は、使える筋肉をしている」
春日井トレーナー、理解。
「ああ。ライバル心ですね」
「違う」
即否定。
「私はただ、筋肉の在り方を……」
「めちゃくちゃ対抗してます」
「……否定はしない」
桐谷課長は、バーベルをラックに戻した。
そして、静かに言った。
「あの男の筋肉は、守る筋肉だ」
「……はい」
「家族を守る。日常を守る。優しさの形をした筋肉だ」
「……はい」
「だが、俺の筋肉は」
春日井トレーナーが、耳を傾ける。
「……何のための筋肉なんだ」
沈黙。
春日井トレーナーが、にやりと笑った。
「それ、大事な問いですね」
「答えは、まだない」
「では、筋トレを続けながら考えましょう」
「そうする」
桐谷課長は、再びバーベルを握った。
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夜。
帰り道。
ことみが会社を出ると、
黒川がコートを羽織っていた。
夜のコートマッチョ、登場。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。奥さんによろしくです」
「ありがとうございます。子供たちも元気で」
ほっこり会話。
黒川は、こちらに微笑んだ。
「今日も、実況ありがとう」
「あ、はい……昼の件、すみませんでした。止められなくて」
「止めなくていい。おかげで、桐谷さんとのやりとりが分かりやすかった」
「……え、あれ、分かりやすかったですか?」
「二人が何を言い合ってるか、言語化してくれた。助かった」
ことみは、首を傾げた。
(あれ、言い合いだったの……)
(私には、筋肉ライバル心にしか見えなかったけど……)
少し離れた場所で、
桐谷課長が見ている。
残業帰りに、たまたま。
いや、たまたまではないかもしれない。
(……円満か)
(……家庭持ちか)
(……なのに、あの筋肉)
桐谷課長は、拳を握った。
「……鍛えが足りない」
そして、踵を返した。
方向は、ジム。
「課長! もう夜ですよ!」
ことみが叫んだ。
「夜の筋肉は裏切らない」
「意味分かりません!」
黒川が、静かに言った。
「……止めなくていい」
「え?」
「あれが、桐谷さんの筋肉語だ」
「……どういう意味ですか」
「焦ってる。でも、逃げない」
黒川は、夜空を見上げた。
「嫌いじゃない」
ことみも、空を見上げた。
星が、いつもより多く見えた。
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翌朝。
桐谷課長の肩幅、さらに更新。
自動ドア、ついに反応しなくなった。
「……課長」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです」
「センサーが古い」
「課長が新しすぎるんです」
手動でドアを開けて入ってくる桐谷課長。
社員たちが、左右に分かれる。
まるで、モーゼの海割り。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
ことみは、桐谷課長の肩幅を見ながら、
ため息をついた。
(……恋ではない)
(……嫉妬でもない)
筋肉としての尊厳をかけた戦いである。
桐谷課長には、はっきりと分かっていた。
自分が黒川に対抗している理由が、
恋でも嫉妬でもないことを。
あの男の筋肉が、悔しい。
守る筋肉。
使える筋肉。
日常に溶け込んだ筋肉。
自分の筋肉は、何のためにある。
その問いが、バーベルを重くする。
ことみには、分かっていなかった。
まだ。
春日井トレーナーには、全部見えていた。
「……面白くなってきたわ」
ジムの窓から、にやりと笑う妖精。
ムキムキ猫が、隣でにゃあ(低音)と鳴いた。
次回予告:
「ことみ、筋肉でドキドキしてしまう! でもその理由は、物理的迫力だから――たぶん。きっと。……本当に?」
19話「ことみ、筋肉でドキドキしてしまう」に続く




