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17話  マッチョが、ことみにだけ優しい理由

 

 会社がなんとなく元に戻り始めた頃。


 ヨガマットは片付けられ、

 ダンベルは「誰の私物かわからない箱」に封印され、

 ホワイトボードの《強制筋肉セミナー》は、《姿勢改善勉強会(任意)》に修正された。

 ムキムキ猫も、元の場所に戻っている。

 いや、元の場所がどこか、誰も知らないのだが。


 平和。

 ……のはずだった。


「杉野さん」


 昼休み、ことみは呼び止められた。

 振り返ると、黒川。

 今日は脱いでいない。

 ポロシャツ姿。


 だが、脱いでいなくても圧がある。

 肩幅が、廊下の幅の三分の一くらいある。


「な、なんですか」

「これ」


 差し出されたのは、

 温かい缶コーヒー。


「……え?」

「ブラックです。砂糖は筋肉の敵だから」

「それ、優しさじゃなくて思想ですよね」


 とは言いつつ、受け取ってしまう。

 温かい。

 手のひらに、じんわりと熱が伝わる。


「疲れてるでしょう。今週、ずっと走り回ってた」

「……見てたんですか」

「見てた」


 黒川は、それだけ言って歩き去った。

 後ろ姿が、やけに広い。

 広背筋が、ポロシャツを押し上げている。


(……見てたって言った)

(ちゃんと、見てたって言った)


 ことみの口が、開きかけた。


(広背筋、今日も……)

(ダメ、実況は今じゃない)


 その様子を

 早苗が遠くから見ていた。

 腕を組み、目を細めて。

(……なに、この距離感)



 ---



 午後。

 コピー機の前で、紙が詰まった。


「う、取れない……」


 ことみが苦戦していると、

 すっと影が差した。


「無理に引っぱらないでください」


 黒川だ。

 いつの間に来たのか。


「繊維が傷みます」

「コピー用紙にも繊維があるんですか」

「あります」


 当然のように言う。

 彼は、ことみの横に立ち、

 ゆっくりと、壊さない力で詰まりを解消した。


 近い。

 めちゃくちゃ近い。

 黒川の腕が、ことみの視界に入る。


(筋肉……近い……)

(前腕筋群、血管バキバキ……)

(ダメ、今は実況じゃない……)


 コピー用紙が、するりと出てきた。


「……はい」


 用紙を差し出す指が、やけに丁寧。

 大きな手。

 厚い指。

 だが、触れ方が優しい。


「ありがとうございま――」

「お礼は必要ありません」


 黒川が、ことみを見た。

 目が合う。

 一瞬、彼の表情が柔らぐ。

 いつものポーカーフェイスが、ほんの少しだけ崩れる。


「……は、ちゃんと周りを見てる」


 ことみの胸が、

 ドクンと鳴った。


(え、今の何)

(何?)

(筋肉と全然関係ない何かが来た)


 黒川は、それだけ言って立ち去った。

 ことみは、コピー用紙を抱えたまま、

 その場に立ち尽くした。


(……ちゃんと周りを見てる)

(私を……見てたってこと)

「……杉野さん?」


 後ろから、美咲が声をかけてきた。


「コピー、終わった?」

「あ、はい……」

「顔、赤いけど大丈夫?」

「大丈夫です」

(大丈夫じゃないかもしれない)



 ---



 その日の夕方。

 桐谷課長が、なぜか袖をまくって仕事をしていた。

 前腕が露出している。

 血管が浮き出ている。


(……課長、なんで袖まくってるんだろう)


 ことみが不思議に思っていると、

 桐谷課長が、ことみの方を見た。


「杉野さん」

「はい?」

「黒川さんと、何か話してたか?」

「あ、はい。コピー機が詰まって、助けてもらって」

「……そうか」


 桐谷課長は、視線を戻した。

 なぜか、前腕に力を入れた。

 血管が、さらに浮き出た。


(……何で力入れるの)


 ことみは、首を傾げた。

 だが、

 気づかなかった。



 ---



 その夜。

 帰り道。

 街灯の下。

 いつもの場所。

 ことみが、一人で歩いていると、

 後ろから足音がした。


「遅い時間ですね」


 黒川だった。


「あ……黒川さん」

「送りましょう」

「え、でも……」

「この時間、一人は危ないですよ」


 有無を言わせない。

 だが、強引じゃない。

 ただ、そこにいる。

 並んで歩く。

 夜風が、二人の間を抜けていく。

 ことみは、思い切って聞いた。


「あの……」

「どうした」

「なんで……私にだけ、優しいんですか?」


 言ってから後悔する。

 直球すぎる。

 恥ずかしすぎる。


 黒川は、怒らなかった。

 少しだけ黙った。

 街灯の光が、彼の横顔を照らす。


「君は、怖がらなかった」

「え?」

「筋肉を見て、笑って、叫んで、実況して、それでも"人"として見ていた」


 ことみは思い出す。

 最初に叫んだ夜。


「仕上がってるー! 大胸筋パンパンー!」


 条件反射の掛け声。

 あの夜、黒川は走り去った。

 だが――振り向いていた。


「筋肉は、逃げ場でもある」


 低い声。


「怖がられれば、ただの変態だ」

「……」

「だが、理解されれば」


 一拍。

 長い、長い一拍。


「人に戻れる」


 街灯が、二人を照らす。

 ことみの胸が、

 じんわり熱い。


(この人、夜中に街灯の下で筋肉を見せてた)

(変態だと思ってた)

(ただ、誰かに分かってほしかっただけ)

「……それ、優しくしてくれてる理由としては、かなりズルいです」

「そうか」

「はい」


 沈黙。

 なのに、居心地がいい。

 街灯の光の中、二人で歩く。

 風が、心地よかった。


「ことみさん」


 黒川が、名前を呼んだ。


「……はい?」

「これからも、実況して欲しい」

「え?」

「ことみさんの実況、好きだ」


 ことみの口が、開いた。


(好き……)

(好きって言った……)

「……好き?」

「ああ。的確で、正直で、面白い」

(筋肉実況が、好き……)

(私じゃなくて、実況が……)


 ことみは、複雑な気持ちになった。

 なぜか、嬉しかった。


「……わかりました。これからも実況します」

「頼みます」


 黒川は、そう言って、マンションの前で立ち止まった。


「着いた。気をつけて」

「はい……ありがとうございました」


 ことみは、マンションに入った。

 エレベーターを待ちながら、

 胸に手を当てた。


(……ドキドキしてる)

(筋肉のせいじゃない)

(この人のせいだ)


 それは、条件反射じゃない。

 確かな、鼓動だった。



 ---



 翌日。

 朝一番。

 桐谷課長が、なぜか筋トレ量を増やしていたらしかった。


「……課長、腕太くなってません?」


 ことみが、不思議そうに聞いた。


「気のせいだ」


 目を逸らす。


「でも、昨日より……」

「気のせいだ」


 断言。

 袖がパツパツになっている。

 明らかに、昨日より太い。


(何があったんだ……)


 ことみは、首を傾げた。

 桐谷課長が、黒川の方を一瞬だけ見て、

 また視線を逸らした。


(……?)


 その奥で、

 早苗が腕を組み、じっと見ていた。

 桐谷課長を。

 黒川を。

 そして、ことみを。


「……なるほど」


 小さく、つぶやく。


(これは――思想戦争じゃない)

(恋ね)


 早苗、気づいてしまう。

 ちょっとだけ、顔が赤い。


(別に、羨ましいとか、そういうわけじゃないけど……)

(……でも)

(黒川さんも、たまに優しいし……)

(違う違う違う)


 早苗は、首を振って、

 仕事に戻った。

 ことみは、まだ気づいていない。

 自分の胸の中の、小さな炎に。


 筋肉は、もう逃げ場じゃない。

 ときめきの入り口だった。

 街灯の下、

 今夜も星が瞬いている。


 ことみの心は、静かに、

 でも確かに、

 揺れ始めていた。





次回予告:

「桐谷課長、筋トレ量が倍増!? 無自覚な嫉妬が、筋肉という形で爆発する――ことみは、気づかない。でも早苗は、全部見ている……!」

 18話「桐谷、無自覚嫉妬で筋トレ増量」に続く


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