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14話 早苗 vs 筋肉思想戦争

 

 その日から、会社はおかしくなった。


 正確に言えば――

 早苗が、本気を出した。


「検証案件、共有します」


 朝イチで流れる社内メール。


 件名:筋肉有効性検証①

 内容:重たい書類の運搬

 条件:筋肉自慢、対応してください

 備考:時間厳守・私語禁止

 開始時刻:10:00

 場所:倉庫


「……業務連絡として正しいのが腹立つ」


 ことみは、胃を押さえた。

 形式が完璧すぎる。

 反論の余地がない。

 そして、強制参加。



 ---



 倉庫。

 段ボールの山。

 黒川と桐谷課長が、無言で立っている。


 普通のYシャツ姿。

 だが、袖をまくっている。

 前腕が露出している。

 血管が浮き出ている。


 早苗が、クリップボード片手に現れた。

 黒いスーツ。

 短い髪。

 鋭い目。

 そして、無表情。


「説明は?」


 黒川が聞いた。


「持つだけです」


 冷たい。

 感情がない。

 まるで、機械のような声。


「筋肉で、どうぞ」


 黒川が、段ボールを持ち上げた。

 軽々。

 重量、推定20キロ。

 だが、まるで羽のように。

 静か。

 安全。

 誰も傷つかない。

 桐谷課長も、同じように持ち上げた。

 軽々。

 しかも、片手。

 ことみの口が、開きかけた。


(ダメ、我慢……)

(実況禁止って言われた……)

「……次」


 早苗、即切り。

 クリップボードに、何かを書き込む。

 表情は、変わらない。



 ---



 検証②

 長時間デスクワーク後の体調

 全員、椅子に座る。

 早苗が、タイマーをセットした。


「三時間、座ってください」

「三時間!?」


 ことみが、思わず叫んだ。


「業務時間内です」


 早苗は、冷静だった。


「問題ありません」


 黒川、背中を少し伸ばす。

 桐谷課長、肩を回す。

 三時間後――

 全員、疲れている。


 黒川と桐谷課長は、姿勢が崩れていない。

 背中が、ピンと伸びている。

 肩も、下がっていない。

 ことみ、実況が漏れる。


「はい今、疲労物質リリース動作入りました! 脊柱起立筋が姿勢を維持してる! 体幹が安定してる!」

「黙って」

「すみません」


 早苗、無言でメモ。

 眉一つ、動かさない。

 クリップボードに、何かを書き込む。

 その手が、わずかに震えている。


(……何を書いてるんだろう……)



 ---



 検証③

 精神的ストレス耐性


「はい?」


 桐谷課長が言った。


「どうやって?」


 早苗、にっこり。

 怖い笑顔。

 まるで、獲物を見つけた猫のような笑顔。


「クレーム対応、お願いします」

「筋肉関係あるか?」

「逃げないで」


 電話。

 理不尽な客(役:早苗)。

 長い。

 重い。

 胃にくる。

 早苗の演技が、リアルすぎる。


「お前らの会社、どうなってるんだ!?」

「誠意を見せろ!?」

「責任者を出せ!?」


 黒川、受話器を握る。

 声は、低く、安定している。


「……大丈夫です。対応いたします」


 深呼吸。

 一つ、また一つ。

 桐谷課長、横で深呼吸。

 ことみ、横で震える。


(早苗さん、怖すぎる……)

(演技なのに、本当に怒ってるみたい……)


 ことみの口が、また開いた。


「今の呼吸、副交感神経優位! 筋肉、落ち着いてます! ストレス耐性、高い! これは日常的なトレーニングによる精神安定効果!」

「黙って!」


 早苗の声が、裏返った。

 電話、切れる。

 通話終了。


 静寂。

 早苗、ペンを止めた。

 クリップボードを見つめている。

 何かを、考えている。


「……以上です」


 全員、拍子抜け。

 桐谷課長が、聞いた。


「結論は?」


 ことみも、恐る恐る聞く。


「筋肉、役に立ちましたか?」


 早苗は、少しだけ間を置いた。

 長い、長い間。


「筋肉は」


 冷静に。

 感情を殺して。


「使い方次第」


 それだけ。

 誰も、勝った気がしない。

 誰も、負けた気もしない。

 何かが、変わった気がした。



 ---



 昼休み。

 給湯室。

 ことみが、早苗を見つけた。

 一人で、コーヒーを淹れている。

 背中が、少しだけ丸まっている。


「……怖かった?」


 ことみが、小声で聞いた。

 早苗、少しだけ目を逸らす。


「怖くない」


 即答。

 だが、声がほんの少しだけ弱い。

 いつもの、鋭い声じゃない。


「私は」


 小さく続ける。

 カップを握りしめながら。


「守られるのが、苦手」


 ことみ、言葉を失う。


(……え?)

(……守られるのが、苦手……?)

「筋肉って」


 早苗は、カップを見つめている。

 湯気が、ゆっくりと立ち上る。


「守るって顔してるでしょ」


 沈黙。

 ことみは、何も言えなかった。


「だから」


 一拍。

 深呼吸。


「……嫌い」


 その言葉の後。

 小さく。

 本当に小さく。

 ほとんど聞こえない声で。


「でも」


 ことみが、息を呑んだ。


「……昨日のセミナー、腰は楽だった」


 それだけ言って、

 早苗は、カップを持って立ち去った。

 ことみは、しばらく動けなかった。


(……ずるい)


 冷酷で、正しくて。

 理詰めで、容赦なくて。

 ちょっとだけ、可愛い。

 ちょっとだけ、寂しそう。

 ことみは、コーヒーを淹れながら、

 小さく呟いた。


「……嫌いになりきれないじゃん」



 ---



 その日の夜。

 街灯の下。

 桐谷課長と黒川。


「……嫌われてるな」


 桐谷課長が、小声で言った。


「嫌われていい」


 黒川が言った。

 穏やかに、でも確信を持って。


「届いてるなら」

「……届いてるのか?」

「腰が楽だった、って」

「……聞いてたのか」

「聞こえた」


 桐谷課長は、笑った。


「筋肉は、耳も鍛えられるのか」

「いや、たまたまだ」


 二人で、笑った。

 ムキムキ猫が、にゃあ(低音)と鳴いた。

 まるで、「届いてるぞ」と言わんばかりに。 



 ---



 ことみは、自宅で布団に入りながら、

 今日のことを思い返していた。

 早苗の冷酷な検証。

 でも、最後に見せた本音。


(守られるのが、苦手……)

(……どういう意味なんだろう)


 ことみは、天井を見つめた。

 筋肉は、まだ答えじゃない。


 誰かの壁を、少しだけ溶かしていた。

 早苗の壁も、

 ほんの少しだけ、

 ひびが入った気がした。

 ことみは、そう思いながら、

 眠りについた。


 明日は、もう少しだけ、

 早苗が笑うかもしれない。

 ことみは、そんなことを考えながら、

 眠った。


 夢の中でも、

 きっと筋肉を見るのだろう。


 筋肉は、人を繋ぐ。

 冷酷な早苗も、

 優しい黒川も、

 真面目な桐谷課長も、

 みんな、少しずつ繋がっている。


 明日も、きっと繋がる。



次回予告:

「ことみ、完全に筋肉通訳に! 筋肉語を日本語に、日本語を筋肉語に――彼女の奇妙な才能が、ついに開花する!?」

 15話「ことみ、筋肉通訳になる」に続く


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