12話 筋肉健康セミナー開催(強制)
その張り紙は、圧が強すぎた。
全社員向け・健康セミナー
テーマ:今日から使える筋肉
講師:桐谷課長/黒川誠氏
日時:本日15時~16時
場所:大会議室
※途中退席は「体調不良」のみ可
※欠席理由は事前提出必須
「筋肉、使う場面あったっけ……」
誰かのつぶやきが、虚空に消えた。
会場は大会議室。
椅子がずらり。
五十脚。
逃げ道、なし。
ドアは一つ。
窓は開かない。
完全密室。
最前列。
腕組み。
無表情。
早苗、陣取る。
(殺気すご)
その隣。
なぜか。
ムキムキの猫が、ちょこん。
前脚が太い。
後ろ脚も太い。
しかも、なぜかプロテインシェイカーを抱えている。
「……猫?」
ことみが、恐る恐る聞いた。
「社員です」
ジムの妖精みたいなトレーナー・春日井が、即答した。
小柄で華奢。
だが、目が全てを見抜いている。
(会社の定義とは)
開始五分前。
ことみは、すでに疲れていた。
(今日、実況しないって決めたのに)
(絶対、我慢する)
(条件反射に負けない)
心の奥底では、分かっていた。
(……無理だろうな……)
---
15時、ちょうど。
桐谷課長が、マイクを握った。
「では始めます」
全員、身構える。
早苗は、腕組みしたまま動かない。
「筋肉は――」
全員、息を呑む。
(来る)
(筋肉は裏切らない、来る)
「裏切りません」
「出た」
即ツッコミ、早苗。
会場、笑い。
だが、桐谷課長は真顔だった。
「今日は脱ぎません」
拍手。
安心。
特に、第一グループ:怖い派からの安堵のため息。
「よかった……」
「まともだ……」
「普通のセミナーだ……」
……のはずだった。
「代わりに」
桐谷課長が、リモコンを操作した。
スクリーン点灯。
映し出されたのは
筋肉のイラスト。
しかも、妙にかわいい。
デフォルメされた大胸筋。
目がついている。
笑顔。
「キャラ化!?」
ことみが、思わず叫んだ。
「筋肉は、キャラにすると理解しやすい」
桐谷課長が、真顔で言った。
(理解させる気満々)
「これは"大胸筋くん"」
スクリーンのイラストが、ぷるんと動いた。
アニメーション。
しかも、なぜか声がついている。
『やあ! 僕、大胸筋くん! 胸を支えてるよ!』
会場、静まり返る。
「……なにこれ」
「声、誰がやってるの」
「まさか課長?」
「こちらは"広背筋さん"」
スクリーンが切り替わる。
翼のような形をした、イラスト。
こちらも目がついている。
しかも、ちょっとクール。
『私は広背筋。背中を守っている』
声が、なぜか渋い。
ばさっと翼を広げるアニメーション。
笑いが、漏れる。
第二グループ:笑う派が、もう我慢できない。
「無理、笑う」
「大胸筋くん、かわいい」
「広背筋さん、渋い」
早苗だけ、笑わない。
目が、わずかに泳いでいる。
(……キャラ化って……)
(……ずるい……)
---
「では実践です」
黒川が前に出た。
普通のポロシャツ姿。
穏やかな笑顔。
「椅子に、座ったままでいいです」
全員、警戒しながら従う。
「まず、肩をすくめて――」
全員、すくめる。
肩が、ぎゅっと上がる。
「そのまま、三秒」
全員、固まる。
「はい――ストン」
肩を、落とす。
全員、ストン。
「今のが、僧帽筋のストレッチです」
静か。
……だが。
「ちょっと待って」
第三グループ:安心派の一人が言った。
「……肩、軽くない?」
ざわっ。
「え、私も」
「なんか、呼吸しやすい」
「首が楽」
早苗の眉が、ぴくり。
(……効いてる……?)
「次」
黒川、続行。
「背もたれに、背中を預けてください」
全員、やる。
背中が、椅子に触れる。
「そのまま、胸を張って」
全員、胸を張る。
「はい、今」
背中が、自然に伸びる。
背筋が、ピンと立つ。
その瞬間
ことみの口が、勝手に開いた。
「――ナチュラル・ポスチャー・リセット! 脊柱起立筋が自然に働いてる! これは日常動作に溶け込む高等テクニック!」
「実況しないって言ってただろ」
桐谷課長が、ツッコんだ。
「無理でした」
ことみは、諦めた顔をしていた。
(条件反射には勝てない)
早苗、無言。
椅子に深く座り直している。
背中が、ピンと伸びている。
(……気持ちいい……)
(……くっ……)
---
「最後」
桐谷課長が、真顔で言う。
「笑ってください」
「は?」
全員、困惑。
「笑うと、腹筋が動きます」
「雑すぎる!」
ことみが、ツッコんだ。
「でも、効果的です」
桐谷課長は、真剣だった。
「笑いは、最高の腹筋運動です」
「理論が適当すぎる!」
その瞬間。
ムキムキ猫が、
椅子の上に立ち上がった。
そして、
にゃあ(低音)と鳴いた。
しかも、ダブルバイセップスのポーズ。
前脚が、ぐっと曲がる。
上腕二頭筋(猫)が、盛り上がる。
会場、崩壊。
笑い。
拍手。
腹筋、動く。
「無理、笑う」
「猫、ポーズ取ってる」
「しかも低音」
「にゃあ(低音)って何」
第一グループ:怖い派も、笑っている。
第二グループ:笑う派は、もう床を叩いている。
第三グループ:安心派は、涙を流して笑っている。
早苗が、口元を押さえている。
「……っ」
震えている。
笑いを、必死に堪えている。
「……反則」
小声で、呟いた。
堪えきれなかった。
「……ふっ」
笑った。
小さく、でも確かに。
春日井トレーナーが、にやりと笑った。
「計算通り」
小声で呟いた。
「猫を投入したのは、正解だったわね」
(妖精、黒い)
---
セミナー終了。
拍手、多め。
ことみは、椅子にぐったり。
「……終わった」
腹筋が痛い。
笑いすぎた。
早苗が、立ち上がった。
無言で、前に出る。
全員、息を呑む。
桐谷課長と黒川を、真正面から見る。
「……一言だけ」
静かに。
全員、固唾を呑む。
「……今日のは」
間。
長い、長い間。
「悔しいけど、効いた」
どよめき。
拍手。
笑い。
早苗は、少しだけ照れくさそうに言った。
「でも、筋肉は嫌いです」
「それでいい」
桐谷課長が、頷いた。
「筋肉は、好かれる必要はない」
「……」
「役に立てばいい」
黒川も、頷いた。
「今日、少しでも体が楽になったなら――」
穏やかに微笑んだ。
「それで十分です」
早苗は、何も言わなかった。
小さく、頷いた。
桐谷課長と黒川、顔を見合わせる。
「勝ちか?」
「いや」
ことみが、ぼそっと言った。
「引き分けです」
ムキムキ猫が、にゃあ(低音)と鳴いた。
まるで、「その通りだ」と言わんばかりに。
春日井トレーナーが、猫を抱き上げた。
「よくやったわね」
プロテインシェイカーを差し出した。
猫が、ごくごくと飲む。
(猫、完全に社員だ)
---
筋肉は、
今日も世界を支配しなかった。
ちょっとだけ、
健康にした。
ちょっとだけ、
笑顔にした。
ことみは、椅子に座ったまま、
天井を見上げた。
(……筋肉、すごいかも)
(……いや、やっぱりおかしい)
(……でも、悪くない)
矛盾した感情が、渦巻く。
それでいい気がした。
早苗も、笑った。
桐谷課長と黒川も、満足そうだった。
ムキムキ猫も、プロテインを飲んでいる。
春日井トレーナーも、にやりと笑っている。
全員が、少しだけ幸せそうだった。
それだけで、十分だった。
ことみは、そう思いながら、
立ち上がった。
明日も、きっと筋肉がある。
明日も、きっと笑える。
明日も、きっと早苗が噛みつく。
筋肉と、笑いと、ちょっとした健康。
それが、この職場の日常になっていた。
次回予告:
「筋肉健康セミナー、予想外の大成功!? だが、新たな刺客が現れる筋肉嫌い女子・早苗、本格参戦! そして、筋肉思想戦争が勃発……!」
13話「早苗vs筋肉思想戦争」に続く
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