10話 会議室で始まるポージング論争
議題:筋肉は資料か否か
その会議は、あまりにも異様だった。
ホワイトボードの前。
プロジェクター起動。
円卓に並ぶ、いつものメンバー。
総務、営業、企画、人事
普通の、平日の、午後二時。
ただ一つ違うのは――
「……なんでスクリーンに、上腕二頭筋が映ってるんですか?」
誰かが、震える声で言った。
スクリーンには、ドアップの筋肉写真。
照明の陰影まで計算された、完全に"作品"。
血管が浮き出ている。
筋繊維が見える。
そして、美しい。
「これは参考資料だ」
桐谷課長は、真顔だった。
「何の参考ですか」
「説得力」
(会社で一番いらない単語きた)
ことみは、机に突っ伏しそうになった。
我慢した。
ここで倒れるわけにはいかない。
黒川は、会議室の隅に立っていた。
なぜか壁際。
なぜか影が深い。
まるで、控えめな刺客。
「では説明します」
桐谷課長が、レーザーポインターを持つ。
赤い点が、スクリーンをなぞる。
上腕二頭筋のピークを、ゆっくりとなぞった。
「ここが上腕二頭筋。この盛り上がりを見てください」
赤い点が、筋肉の山を登る。
「長頭と短頭、二つの筋肉が合わさって、この形を作ります」
(解説が本格的)
「そして、この厚みがあると――」
レーザーポインターが止まる。
「人は安心する」
「しません」
即ツッコミ。
営業の田中が、勇気を出して言った。
だが、止まらない。
「なぜ安心するか。それは、力強さを視覚的に認識できるからです」
スライド切り替え。
次は、大胸筋。
これもドアップ。
鎖骨の下から肋骨の上まで、びっしりと筋肉。
「ここが大胸筋。この厚みがあると、人は安心する」
「同じこと言ってる」
ことみが、小声でツッコんだ。
桐谷課長は真剣だった。
レーザーポインターが、大胸筋の溝をなぞる。
「この溝の深さ。これが重要です」
(何が重要なの)
「このカット、見てください」
スライド切り替え。
背中。
広背筋。
翼のように広がる、筋肉の芸術。
「――広背筋が翼のように広がる。これは"包容力"の象徴だ」
会議室、ざわつく。
「え、ちょっとわかる」
「怖いけど……安心?」
「洗脳では?」
女性社員たちの反応が、三分裂し始めた。
第一グループ:怖い派
「いや、無理。筋肉、怖い」
「なんでこんなに盛り上がってるの」
「人間の体じゃない」
第二グループ:笑う派
「無理、笑う」
「レーザーポインターが腹筋なぞってる」
「会議じゃなくて鑑賞会じゃん」
第三グループ:安心派
「……なんか、安心する」
「わかる。守られてる感じ」
「筋肉、悪くないかも」
ことみは、机に突っ伏した。
(始まった……)
(職場が筋肉に侵食されてる……)
その時だった。
黒川が、ゆっくりと前に出た。
「……異議あり」
空気が、ピンと張りつめる。
全員が、黒川を見た。
「筋肉は、見せるものではない」
(まとも枠!?)
(黒川さん、まとも枠になってくれるの!?)
ことみの期待が、一瞬だけ膨らんだ。
「動きの中で語るものだ」
そう言って。
静かに、一歩。
ただ立っただけ。
ポロシャツの下で、背中がうねった。
広背筋が、わずかに動いた。
それだけで、存在感が爆発した。
「うわ……」
「今の、なに?」
「動いてないのに、動いて見えた……」
ことみの口が、勝手に開いた。
「はい来ました! ナチュラル・バックエクスパンション! 静止なのに筋肉が動いて見えるやつ! これは上級者の技! 日常動作に溶け込ませる高等テクニック!」
「翻訳ありがとう」
営業の田中が、メモを取り始めた。
(翻訳じゃない)
桐谷課長が、腕を組んだ。
その動作だけで、上腕三頭筋が浮き出た。
「つまり、写真派と実演派の違いか」
「そうだ」
「なら――」
脱ぐな。
ことみが、心の中で祈った。
祈り虚しく。
桐谷課長は
ジャケットだけ脱いだ。
(ギリセーフ!?)
Yシャツ姿。
袖をまくった。
前腕が露出する。
軽く、ダブルバイセップスのポーズ。
「ジャケットオフ状態のビジネス・フロントダブルバイ!」
「そんな技名ない」
ことみが、即ツッコミ。
「今作った」
「作らないでください」
社員たちの反応は、予想外だった。
「おお……」
「すごい……」
「Yシャツ越しでも、筋肉の形が……」
特に、第三グループ:安心派の反応が強い。
「……かっこいいかも」
「守られてる感じする」
「筋肉、いいかも」
ことみは、頭を抱えた。
(感染が広がってる……)
社員たちの反応は、さらに三分裂。
第一グループ:怖い派
「いや、やっぱり怖い」
「会議中にポーズ取らないでほしい」
「仕事してください」
第二グループ:笑う派
「無理、笑う」
「ビジネス・フロントダブルバイって何」
「課長、真面目な顔でやってるのがもう面白い」
第三グループ:安心派
「……元気出る」
「なんか、頑張ろうって思える」
「筋肉、パワーもらえる」
そして、問題の人物。
早苗。
企画部の、筋肉嫌い女子。
腕を組み、冷たい目で見ている。
「……くだらない」
冷たい声。
会議室が、静まった。
「筋肉なんて、非効率の塊です」
早苗は、桐谷課長を睨んだ。
「仕事に何の関係があるんですか?」
「……」
「時間の無駄。労力の無駄。会議室の無駄使い」
桐谷課長は、言い返さなかった。
黒川も、黙った。
代わりに。
ことみが、ゆっくり顔を上げた。
「……非効率、ですか」
全員が、ことみを見た。
「でも」
彼女は、深呼吸して続けた。
「この筋肉、誰も傷つけてません」
レーザーポインターの赤い点が、
スクリーンの腹筋で止まる。
「むしろ、空気が悪くなる前に、全部笑いに変えてます」
沈黙。
早苗が、ことみを見た。
「……それは、詭弁です」
「詭弁かもしれません」
ことみは、立ち上がった。
「でも、この会議室、笑ってますよね」
「……」
「怖いって言ってる人も、笑ってます」
ことみは、レーザーポインターを取った。
スクリーンの筋肉を指した。
「この筋肉は、誰かを攻撃するためじゃない」
赤い点が、大胸筋をなぞる。
「誰かを守るためでもない」
赤い点が、広背筋をなぞる。
「ただ――存在してるだけ」
赤い点が、腹筋をなぞる。
「でも、それを見て、笑えるなら――」
ことみは、早苗を見た。
「それは、無駄じゃないと思います」
沈黙。
数秒後。
「……それは、わかるかも」
誰かが、ぽつりと言った。
第二グループ:笑う派の一人だった。
「確かに、笑ったし」
「元気出た」
「課長、真面目にやってるのが面白かった」
早苗は、何も言わなかった。
小さく、ため息をついた。
会議は、結論が出ないまま終わった。
確実に何かが残った。
筋肉という、厄介で無害な概念。
退室間際、桐谷課長が小声で言う。
「杉野さん」
「はい……」
「次は、健康セミナーだ」
(次がある前提!?)
「強制参加で」
(強制!?)
「黒川さんも来る」
(もちろん来る)
ことみは天井を見上げた。
(会社が……会社が……)
だが、不思議と。
ちょっとだけ、
明日が気になってしまう自分もいた。
会議室を出る時、
第三グループ:安心派の一人が、
ことみに囁いた。
「杉野さん、ありがとう」
「え?」
「筋肉、擁護してくれて」
「いえ、あの……」
「私、元気もらえました」
そう言って、笑った。
ことみは、少しだけ笑った。
(……まあ、いっか)
筋肉は、会社に侵入した。
確実に、広がっている。
怖い、と言いながら。
笑う、と言いながら。
安心する、と言いながら。
みんな、少しずつ、筋肉を受け入れ始めていた。
ことみは、そう思いながら、
自席に戻った。
明日は、健康セミナー。
強制参加。
筋肉、確定。
きっと、また笑える。
次回予告:
「女性社員の反応、さらに分裂!? 怖い派、笑う派、安心派――そして第四の派閥が誕生する!? 筋肉は、職場をどこまで侵食するのか……!」
11話「女性社員の反応『怖い』『笑う』『なぜか安心』」に続く
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