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9話 筋肉、会社に侵入する

 

 平日の朝に一番いらないもの、それは上腕二頭筋


 その朝、杉野ことみは会社の自動ドアの前で立ち止まっていた。


(……行きたくない)


 理由は明確だった。


(だって昨日の夜、あの人たち――)


 筋肉二名。

 街灯の下。

 ポージング。

 実況。

 そして、一人は上司。


「おはよー、杉野さん」


 背後から声をかけられ、ことみは条件反射で肩をすくめた。


「お、おはようございます……」


 振り向くと、そこにいたのは桐谷課長。

 スーツ姿。

 一見、完全に「いつもの上司」。

 だが。


(……スーツが、悲鳴を上げてる)


 ジャケットの肩が、妙に盛り上がっている。

 三角筋の丸みが、布を押し上げている。

 袖口も、二の腕のところで少し引っ張られている。

 ボタンが、今にも「限界です」と言い出しそうだ。


「どうした? 顔色悪いぞ」

「いえ……僧帽筋が、今日も元気だなって……」

「お、わかるか」

(わかりたくなかった)


 桐谷課長は、嬉しそうに笑った。


「今朝、ショルダープレスを50キロでやってきた」

「朝から!?」

「ああ。朝五時から一時間半」

「出社前に!?」

「当然だろう」

(当然じゃない)


 エレベーター内。

 密室。

 筋肉密度、急上昇。


「昨日は楽しかったな」

「え、あ、はい……夜道、平和でしたね……」

「黒川さんの大円筋、仕上がってただろ」


 ことみは、目を閉じた。


(だめだ、朝から筋肉会話だ)

(しかも会社で)

(しかも上司と)

「特に、背中のカットが深かった」

「はい……」

「君の実況も良かった。『脊柱起立筋の縦ライン、美しい』って」

「……覚えてるんですか」

「全部覚えてる」

(やめて)


 そのとき。

 エレベーターが止まり、

 ドアが開いた。


「おはようございます!」


 元気な声とともに、後輩女子・田中美咲が乗り込んできた。

 空気が、救われる。


「課長、おはようございます! 杉野さんも!」

「おはよう」


 普通の会話。

 平日の会社。

 安心。


 ……の、はずだった。


「課長、今日の会議資料なんですけど――」


 美咲が、タブレットを見せようとした。

 その時。


「その前に」


 桐谷課長が、軽く腕を上げた。

 それだけ。

 それだけなのに。

 スーツの袖が、ピチッと引っ張られた。

 上腕二頭筋の形が、くっきりと浮かんだ。


「――っ!?」


 美咲が、固まった。


「……なに、その腕」

「え?」

「中に……何か入ってます?」

「筋肉だが」


 沈黙。

 そして。


「ちょ、ちょっと触っていいですか」

「いいぞ」


 美咲が、恐る恐る桐谷課長の腕に触れた。

 目を見開いた。


「硬っ!?」

「週六で鍛えてるからな」

「週六!?」

「ああ。今朝も行ってきた」

「今朝!?」


 社内感染、発生。

 美咲が、ことみを見た。


「杉野さん、これ……」

「知ってます」

「知ってるの!?」

「はい……」

「なんで黙ってたの!?」

「言えるわけないでしょう!?」


 エレベーターが、オフィスフロアに着いた。

 ドアが開く。

 桐谷課長が、普通に歩き出した。

 だが、その後ろ姿。

 スーツの背中が、わずかに引っ張られている。

 広背筋の形が、うっすらと浮かんでいる。


(……バレる……絶対バレる……)



 ---



 午前中。

 ことみは、必死に仕事に集中しようとしていた。


 視界の端に入る。

 桐谷課長の肩。

 腕。

 背中。


(見ないようにしても、見えちゃう……)


 口が動きそうになる。


(僧帽筋……三角筋……広背筋……)

(ダメ、言っちゃダメ……)


 その時、美咲が囁いてきた。


「ねえ、杉野さん」

「何?」

「課長、いつからあんな体に……?」

「……ずっとです」

「ずっと!?」

「はい。二十年以上、週六でジムに通ってるらしいです」

「二十年!?」

「しかも朝五時から」

「朝五時!?」


 美咲は、絶句した。

 小声で言った。


「……ちょっと、かっこいいかも」

「え?」

「だって、そこまで続けられるって、すごくない?」

「……まあ、そうかもしれませんけど……」

「触らせてもらったけど、本当に硬かったよ。石みたいだった」

(感染してる!)



 ---



 昼休み。

 ことみは、給湯室で現実逃避していた。

 コーヒーを淹れながら、深呼吸。


(お願いだから、今日は何も起きないで)


 その願いは、秒で砕かれた。


「杉野さん」


 振り向く。

 ――いた。

 黒川誠(昼の姿)。

 地味なポロシャツ。

 穏やかな笑顔。

 完全に「近所のいいおじさん」。

 だが。


(中身が、夜)

(中身が、変態マッチョ)

「え、えっと……どうしてここに……」

「桐谷課長に誘われて。"会社、見学してみないか"って」

(何を見学させる気!?)

「あの……黒川さん、ここ、私の会社なんですけど……」

「ああ、大丈夫です。受付で許可もらいました」

「許可!?」

「『筋肉指導のボランティア』ということで」

(何それ)


 その瞬間。

 黒川が、無意識に背伸びをした。

 ポロシャツ越しに浮かぶ広背筋。


 ことみの口が、勝手に動いた。


「はい出ました! 日常動作に潜むラットスプレッド! 広背筋が伸びてる! これは本人無自覚型! 厄介!」

「え、なに? 実況?」

「クセです」


 給湯室のドアが開いた。

 社員が一人、また一人と集まってくる。


「なにそれ」

「見たい」

「怖いけど見たい」

「課長の友達?」

「筋肉すごくない?」


 黒川は、穏やかに微笑んだ。


「初めまして。黒川と申します」


 軽く会釈した。

 その動作だけで、ポロシャツの背中が引っ張られた。

 僧帽筋の盛り上がりが、くっきりと浮かんだ。


「うわ……」

「背中、すごい……」

「何やってる人?」

「ボディビルダー?」


 社員たちの囁きが、ざわざわと広がる。

 桐谷課長が、満足そうに現れた。


「よし」


 嫌な予感。


(やめて)

「午後イチ、会議室空いてるな」

(やめて)

「筋肉、説明しよう」

(やめて!!)


 ことみの悲鳴は、心の中だけに響いた。



 ---



 午後一時。

 会議室B。

 なぜか、社員が二十人ほど集まっていた。

 ことみは、最前列に座らされていた。

 桐谷課長が、プロジェクターの前に立つ。

 黒川も、隣に立った。


「では、始めます」


 桐谷課長が、マイクを握った。


「テーマは――『筋肉と健康』」

(まともだ……)

(意外とまともだ……)


 スライドが映し出された。

『筋肉と健康~デスクワークによる筋力低下を防ぐために~』

(まとも……!)


 ことみは、少しだけ安心した。

 だが


「では、まず実演から」


 桐谷課長が、上着を脱いだ。

 Yシャツ姿。

 袖をまくった。

 前腕が露出する。

 血管が浮き出る。


「これが、前腕筋群です」


 ことみの口が、開きかけた。


(ダメ、言っちゃダメ……)


 桐谷課長が、ことみを見た。


「杉野さん、解説を」

「え?」

「君が一番詳しい」

「いや、でも……」

「お願いします」


 黒川も、頷いた。

 ことみは、諦めた。


(……もう、いいや)


 立ち上がり、

 前に出て、

 桐谷課長の腕を指差した。


「えっと……これが、前腕筋群です。主に、手首や指を動かす筋肉です」


 社員たちが、メモを取り始めた。

「特に、デスクワークでキーボードを打つ時、この筋肉が使われます」

「なるほど……」

「そして――」


 ことみは、少し躊躇したが、

 続けた。


「課長の場合、前腕屈筋群が特に発達しています。握力も、推定70キロ以上」

「すごい……」

「握力70キロって、普通の男性の倍くらいじゃない?」


 社員たちが、ざわつく。

 黒川が、前に出た。


「では、私も」


 ポロシャツの袖をまくった。

 前腕が露出する。

 桐谷課長に負けないくらい、血管が浮き出ている。

 ことみの口が、また開いた。


「黒川さんの場合、前腕の筋密度が高いです。体脂肪率が低いので、筋肉の形がくっきり見えます」

「へえ……」

「握力は、推定75キロ」

「すごい……」


 こうして。

 筋肉は、ついに

 会社に侵入した。


 それが、

 平和な日常をじわじわ侵食する始まりだと、

 このとき誰も気づいていなかった。

 ただ一人、ことみを除いて。


(ああ……次は会議室で何が起きるんだろう……)


 彼女の胃が、静かに悲鳴を上げていた。

 不思議と、嫌じゃなかった。

 社員たちの目が、輝いている。

 興味津々で、筋肉を見ている。


 笑っている。


(……まあ、いっか)


 ことみは、小さく笑った。

 筋肉は、会社に侵入した。


 それは、きっと悪いことじゃない。

 たぶん。

 きっと。


 ことみは、そう思いながら、

 実況を続けた。

 午後の会議室。

 筋肉セミナー。


 笑顔。

 平和な侵食が、始まっていた。





次回予告:

「会議室でポージング論争!? 筋肉派vs非筋肉派、社内を二分する大論争が勃発! そして、ことみは板挟みに……!」

 10話「会議室で始まるポージング論争」に続く


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