1話 コートの下に、人生が詰まっていた
街灯の下に黒いロングコートの男が立っていた。
乾いた音とともに、黒いコートが宙を舞った。
そこには黄金色に日焼けした、ビキニパンツ一丁の中年男が……。
その夜の空気は、まるでタンスの奥で何年も忘れ去られていた毛布みたいに、重く、じっとりしていた。
湿気が肌にまとわりつき、息をするたび、肺まで生ぬるくなる。
夏の終わりというには暑すぎて、秋の始まりというには湿度が高すぎる、そんな微妙な季節の、微妙な夜。
都会のネオンは今日も元気だ。
人の気持ちなんてお構いなしに、コンビニも居酒屋も、終電間際の駅前も、やたらと明るい。
その明るさに、三十路OL・杉野ことみは何度も救われ、そして何度も疲れさせられてきた。
「……はぁ……」
深いため息が、自然と漏れた。
残業。
それも"実りのない残業"という、最悪の部類だ。
「パワポ三回直しって何? しかも戻ってるし……。進化じゃなくて退化じゃん……っていうか昨日の方がマシだったし……!」
ぶつぶつと文句を垂れながら、ことみはコンビニ袋を腕に引っ掛け、駅から自宅マンションまでの夜道を一人歩いていた。
前髪は湿気でうねり、ファンデは崩れ、パンプスはもう限界。
心も体も、限界値をとっくに超えている。
バッグの中では、スマホが何度も震えた。きっとまたLINEだ。既読スルーしている友人たちからの「飲もうよ〜」とか「元気?」とか、そういう善意の重みが、今日は特にしんどかった。
(ごめん……今は無理……)
心の中で謝りながら、ことみはただ歩く。
足音だけが、アスファルトに響く。
疲れた。
本当に疲れた。
仕事も、人間関係も、自分自身も。
何もかもが、ちょっとずつズレていて、でも誰も悪くなくて、だからこそ疲れる。
(……帰ったら、とりあえず寝よう)
それだけを考えながら、ことみは夜道を歩く。
ふと顔を上げると、やけに星がはっきり見えた。
都会にしては、珍しいくらいだ。
(……星って、こんなにあったっけ)
オリオン座が見える。
北斗七星も見える。
子供の頃は、よく星を見上げていた気がする。
いつから見なくなったんだろう。
そんなことを考えた、その瞬間。
前方、街灯の下に、
明らかにこの季節に不似合いな「黒いロングコート」を着た人影が立っていた。
「……え?」
思わず足が止まる。
背は高い。180センチは超えている。
体格も、妙に横に広い。肩幅が異様だ。
(いやいやいや……この暑さで? そのコート?)
警戒心が、じわりと背中を這い上がった。
夜道。
女性一人。
不審者。
この三つの単語が揃った瞬間、頭の中で「逃げろ」という警報が鳴る。
(……やばい……?)
だが、足が動かなかった。
疲れすぎて、判断が遅れたのかもしれない。
それともどこか、現実感がなかったのかもしれない。
その時だった。
バサッ。
乾いた音とともに、黒いコートが宙を舞った。
まるでマジシャンがマントを翻すように、優雅に、そして大胆に。
コートは街灯の光を受けて、一瞬、黒い翼のように見えた。
「……っ!?」
声が出なかった。
出るはずだった悲鳴は、喉の奥で凍りついた。
そこに立っていたのは、
黄金色に日焼けした、ビキニパンツ一丁の中年男。
筋肉。
筋肉。
筋肉。
肩は丸く盛り上がり、まるでメロンを二つ埋め込んだかのような三角筋。
その三角筋は、前部・中部・後部がバランスよく発達していて、まるで三つの山が連なっているようだった。
胸板は鉄板のように厚く、息をするたびにわずかに動く。
大胸筋の上部から下部まで、均等に発達している。
鎖骨の下から肋骨の上まで、全てが筋肉で覆われていた。
腹筋はきっちりと八つに割れ、照明の角度によって影が変わる。しかも、ただ割れているだけじゃない。腹斜筋まで見える。まるで彫刻のような立体感。
太ももは丸太のようで、大腿四頭筋が四つのブロックに分かれて盛り上がっている。ふくらはぎはダイヤモンド型に発達し、アキレス腱が太く、力強い。
そして――血管。
腕にも、肩にも、腹にも、太ももにも。
まるで道路地図のように、血管が浮き出ていた。
体脂肪率、推定5パーセント前後。
これは、大会前の仕上がりだ。
まるで美術館から抜け出してきた「肉の彫刻」。
いや、彫刻よりも生々しく、リアルで、そしてなぜか神々しかった。
(……変態……!!)
頭では、確かにそう叫んでいた。
警察。
通報。
110番。
ダッシュ。
逃げる。
叫ぶ。
防犯ブザー。
そういう単語が次々と脳内を駆け巡る。
だが。
次の瞬間、男は静かに息を吸い、
すっと構えた。
ダブルバイセップス。
両腕を曲げ、力こぶを作る。
上腕二頭筋が、ぐんっと盛り上がる。
街灯の光が当たり、筋の一本一本が浮き出る。
影が入る。
長頭と短頭が、はっきりと分かれている。
肉の山脈。
それはもはや、芸術だった。
「……っ!」
ことみの口が、勝手に開いた。
「い、いい肩……!」
(え?)
自分で言って、自分で驚く。
(なんで私、実況してんの!?)
口は止まらなかった。
それは、ことみの"条件反射"だったのだ。
遡ること十年前。
大学二年生の夏。
友人に誘われて、うっかり見てしまったボディビル大会。
最初は「何これ……」と引いていたことみだったが、会場の熱気に飲まれ、気づいたら叫んでいた。
「仕上がってるー!」
「大胸筋パンパンー!」
「背中に鬼ー!」
それ以来、筋肉を見ると、掛け声が出る体質になってしまった。
止めようとしても、無駄だった。
脳が勝手に筋肉を解析し、口が勝手に評価を叫ぶ。
パブロフの犬ならぬ、パブロフの筋肉。
そして今、
その条件反射が、発動した。
男は、まるで褒められて嬉しそうに、次のポーズに移った。
片膝をつき、胸を張る。
サイドチェスト。
横から見た胸の厚み。
肋骨が見えない。全部筋肉で覆われている。
その厚みは――推定15センチ以上。
「胸、厚っ……! 鉄板! 胸板が鉄板! しかも上部から下部まで均等!」
(ちがうちがうちがう! 今それどころじゃない!)
心の中で自分にツッコミを入れるが、口は止まらない。
男は満足げに頷き、今度は背中を向けた。
バックダブルバイセップス。
広背筋が、まるで翼のように広がる。
幅、推定80センチ以上。
そして腰のくびれから背中にかけて、筋肉の盛り上がりが、まるで鬼の顔のように見えた。
クリスマスツリー。
ボディビル用語で、背中の筋肉が逆三角形にカットされた状態を指す言葉。
それが、目の前にあった。
「背中! 鬼! 鬼いる! クリスマスツリー! 血管浮いてる! 脊柱起立筋まで見える!」
完全に条件反射だった。
もう止まらない。
男は、さらに続けた。
モスト・マスキュラー。
全身に力を込め、あらゆる筋肉を一斉に収縮させる、最も迫力のあるポーズ。
首が消えた。
肩と首が一体化し、まるで肉の要塞と化している。
「首が……首がない! 僧帽筋が盛り上がりすぎて肩に埋まってる! これぞモスト・マスキュラー!」
ことみは、気づいてしまった。
自分が一歩、前に出ていることに。
(え、待って、私なんで近づいてんの!?)
だが体は正直だった。
筋肉に引き寄せられていた。
怖いはずなのに。
逃げるべきなのに。
でも、見たい。
もっと見たい。
もっと詳しく、この筋肉を見たい。
男は、最後のポーズを取った。
ヴァキューム。
息を吐き切り、お腹を限界まで凹ませ、肋骨を浮き上がらせる古典的なポーズ。
ウエストが、信じられないほど細くなった。
推定65センチ。
肩幅が120センチ以上あるのに、ウエストは65センチ。
まるで逆三角形の極致。
「ウエスト! 細い! っていうか肋骨見えてる! でも筋肉は残ってる! これがヴァキューム! 昭和のボディビルだ! アーノルド・シュワルツェネッガーのやつだ!」
ことみは完全に解説者モードに入っていた。
気づいたら、笑っていた。
怖いはずなのに。
変態のはずなのに。
楽しかった。
この筋肉を見ていると、なぜか心が軽くなる。
疲れが、少しだけ和らぐ気がする。
男は、にやりと笑った。
「……ありがとう」
低く、満足げな声だった。
そして男は、落ちたコートを拾い上げると、
何事もなかったかのように走り去っていった。
しかもその走りが、また筋肉質だった。
ふくらはぎがダイヤのように動き、太ももが躍動し、お尻の筋肉まで見えた。
大臀筋が、走るたびにダイナミックに動く。
「大臀筋ー! 走り方まで筋肉ー! ふくらはぎのカット! ハムストリングスの収縮ー!」
叫びながら、ことみはハッとした。
(私、何してんの!?)
足音が遠ざかる。
夜道に残されたのは、
街灯と、星と、立ち尽くすことみ一人。
「……何……だったの……今の……」
心臓が、遅れてドクドク鳴り始める。
怖かったはずなのに、なぜか手は震えていなかった。
むしろ温かかった。
(……変態だったよね?)
でも。
(……すごい筋肉だった……)
それに、男は何もしなかった。
ただポーズを取って、褒められて、去っていった。
まるで、それだけが目的だったかのように。
「……いや、それが一番怖いでしょ……」
自分にツッコミを入れながら、ことみはようやく足を動かし始めた。
家まであと五分。
その間、ずっと考えていた。
(なんで私、実況しちゃったんだろう……)
(っていうか、なんであんなに仕上がってたんだろう……)
(……っていうか、また出るのかな……)
最後の疑問が、妙に心に引っかかった。
そしてもう一つ。
(……私、なんで笑ってたんだろう)
そう、気づけば笑っていたのだ。
怖いはずなのに。
変態のはずなのに。
でも、なぜか楽しかった。
残業で疲れ切っていた心が、少しだけ軽くなった気がした。
星を見上げる余裕もなかった一日が、最後に、妙な形で救われた気がした。
(……変な夜だった)
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その夜、ことみは夢を見た。
街灯の下で、誰かがポーズを取る夢。
そして自分が、元気よく叫んでいる。
「仕上がってるー! 大胸筋パンパンー! 血管バキバキー!」
夢の中の自分は、とても楽しそうだった。
疲れた顔をしていなかった。
目が覚めたとき、枕が汗でびっしょりだった。
「……最悪……」
スマホを見ると、朝の6時。
あと1時間で起きなきゃいけない。
(……寝よう)
そう思って目を閉じたが、
まぶたの裏には、あの黄金の筋肉がちらついていた。
なぜか、また会いたいと思ってしまう自分がいた。
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翌日。
会社の給湯室で、ことみは同期の美咲に昨夜の出来事を話した。
「で、コート脱いだら筋肉?」
「そう。しかもビキニパンツ」
「……通報した?」
「してない」
「なんで!?」
「なんか……怖くなかった……」
「いや怖いでしょ普通!」
美咲は呆れた顔をしたが、ことみ自身も自分が理解できなかった。
なぜ怖くなかったのか。
なぜ実況してしまったのか。
そして、なぜ、また会いたいと思ってしまったのか。
「……ことみ、疲れてんじゃない?」
「……かもね」
そう答えながら、ことみはコーヒーをすすった。
彼女はまだ知らない。
この夜が、
筋肉と変態と優しさに侵食される日常の始まりだということを。
今夜も、あの男は現れるということを。
次回予告:
「翌日も出る筋肉。そして、ことみを襲う"筋肉フラッシュバック"。職場で、電車で、どこを見ても筋肉が見える条件反射は、止まらない!」
2話「翌日も出る筋肉、出社する恐怖」に続く
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