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ある冬の日。
古びたアパートの二階、その一室。赤く錆びついたドアが軋んだ。ひょっこりと中から出てくるのは長身の男。もう日は高く上っているというのに、たった今起きたかのようだ。彫りの深い顔は無精ひげに覆われて髪はぼさぼさのままだ。
白い息を漏らしながら男はグッと伸びをした。凍えるような空気が染み入り、灰色のジャージに包まれた身体がポキポキと音を立てる。
やがて足を階段へと向けた。鉄製の錆びついたパイプには結露が滴っている。
「あら、冬樹さん、ずいぶん遅いお目覚めね?仕事に遅れるんじゃないの」
「っ!」
歯抜けになった階段をサンダルで踏みふみ、慎重に足を下ろしていた『冬樹』は、唐突な声に足を踏み外しそうになる。
「おばちゃん、もう冬だぜ?冬眠だよ冬眠」
「まあ、クマみたいに?」
目をやると一人の女性が箒を片手に冬樹に笑みを向けていた。
おばちゃん、といっても背筋もシャンと伸びていてボケている気配もない。目にかけた小さな丸眼鏡や泰然とした立ち振る舞いはどこか優雅な雰囲気を感じさせた。いわば老齢の貴婦人、といった風だ。このアパートの大家でもある。
冬樹が「これだよ」と腰を叩く仕草をすれば老婦人は納得したように微笑む。「貴方でも疲れるんですねぇ」「オンボロアパートじゃ疲れが取れないんだよ」
会話を交わしつつも歩は緩めない。
「あんまり無理はしないようにね」
「どういう風の吹き回し?」
「年金の足しが無くなると困るでしょう?」
冬樹はまたこけそうになる。
「いってらっしゃい」
悠々とした穏やかな笑顔を背に、顔をしかめた長身の男は『クリニック』へと向けて歩き出す。
冬の陽が傾き始める頃。
肉屋、八百屋、魚屋……。多くの人で賑わう今時珍しい商店街。オレンジ色で染まる通行人に紛れ込んだ小さな男は、その端に位置するクリニックのガラスドアに身を滑り込ませた。
「お名前が呼ばれるまでお待ちください」
「ありがとう」
鷹揚のない声と平坦な表情の受付の女性にお礼を言うと、近くのソファに腰を下ろした。白一色の待合室には他に誰もいない。
ふう、と男は息を吐いた。
低い身長と丸っこい童顔。そしてそれを際立たせるオーバーサイズの上着と耳元に巻かれた長いマフラー。ぶらぶらと足を揺らすような仕草も一つ一つが幼い。
「春さん、どうぞ」
数分も待たずして名前は呼ばれた『春』は診察室へと向かった。
「おめでとうございます」
開口一番に『医者』は言う。好々爺然とした顔や、膨らんだお腹を白衣に包んだその外見はどこかサンタに似ている。白く染まった長いひげや髪の毛もそれを引き立たせていた。
「『悪性の腫瘍』は治ったようですね」
「まあ、おかげさまで」
「6か月間の『闘病』でしたからね。よく頑張りましたよ」
医者は笑う。
「それで今回はどうですか」
「厄介なのが1つ」
げ、と春は顔を歪ませた。
「またですか」
「根気よく、ですよ。身体には数え切れないほどの細胞がありますから」
「ちなみに同じ症状の方って」
「もう来られましたよ」
じゃ僕が最後か、と春は思う。いつもはあいつのほうが遅いのに。
「詳しいことはいつも通り『診断書』に。『お薬』も一緒に」
話すべきことは終わったのだろう、手元のファイルに目線を落とした医者を横目に、回転いすから立ち上がった
「お大事に」
受付カウンターにはもう誰もいない。
ガラス戸を押し開けると寒風が身を包み込む。人はいまだ絶えず商店街を行きかっている。肩を縮めて、袋状の処方箋から診断書を取り出した。
『重病の恐れあり。温かくして映画館等で精神を和らげること』
クリスマスも近い冬の夜空に三日月が浮かんでいる。
光る無数の摩天楼が凍えるような空を突き、煌びやかな街頭やネオンが人々にスポットライトを当てる。街路樹には美しくライトアップがなされ、この人肌恋しい季節を温めようと男女が肩を寄せ合い歩いている。
「今年の花火も君と見れて良かった」「もう……私も」そんな甘い言葉があちこちから聞こえてくるようだ。
着飾り、寄り添い、人々の愛が寒さを埋めていくその中―。
―女は睦言を交わす男女を避けつつ、ひとりで歩いている。
風にたなびくコートと艶やかな黒髪、そして鋭い眼がみせる冷たい美しさに男女を問わず人が振り返る。白のワイシャツ、上下黒のスーツ、それに同色のコート。会社員のようなありきたりな服装、しかしそれでもスタイリッシュに見えるのは本人の魅力故だ。
彼女は立ち止まるカップルたちとは対照的に足早に風を切り、そして道を折れる。
「あんたあーゆう女が好きなわけ?」「違うって……ちょ、待ってよ……」
道路を一本脇にはずれてしまえば、狭く入り組んだ路地が目の前に現れる。女は躊躇せずにそこに歩を進めた。迫る雑居ビルや飲食店が影を落とし、大通りの明るさが徐々に遠くなっていく。凹凸な路面に溜まった汚水を飛び越え、行く手をふさぐ段ボールをパンプスで蹴とばす。痩せた猫が驚いて前を横切った。
右へ3回、左へ4回、2回上って、そして1回下る。いつも通り無人の道を折れ曲がると、先の行き止まりに光が差している。彼女の目的地だ。
『THEATER』。唐突に現れる明るい文字。電球を並べて造られた看板の頭のTはもはや周りの暗闇に溶け込んでいる。オレンジ色に染まる赤レンガの壁にはツタが巻き付き、綺麗に輝くガラスの回転ドアが場違いに壁に埋め込まれている。
レトロ、を通り越して不気味な気配。
彼女はドアを押す。一瞬ドアが戸惑うように固まるが問題はない。仕掛けられたセンサーが仕事をしているだけだ。少し時間をおいてから押せば、今度は滑らかに彼女を受け入れる。
看板の通り、中は映画館の内装。一面の赤い絨毯に黒い木製の壁、ささやかな間接照明はシックな雰囲気を演出する。まあ全て古ぼけ埃を積もらせてはいるが。
広くも狭くもないその部屋の奥には薄暗い通路が口を開けている。そしてそれを塞ぐように長いカウンター。そこに頬杖を突く、白い長髭を生やした老人が一人。それ以外に人はいない。
色が薄れた絨毯に足を沈ませながら女は老人の前に辿り着く。
「すいません」
男は見向きもせずに雑誌のページをめくる。『あの大物女優が一般男性と結婚⁉』2年前に女の班が達成した成果を今更、雑誌が嗅ぎつけたらしい。
「すいません」
チッと老人が舌を弾いた。イラついた目で女を見つめる。椅子に腰かけたままの老人は、女よりも目線が低い。
「ポップコーンと飲み物は?」
今日は赤の丸薬1つと青のカプセルが2つだった、と女は思い返す。
「キャラメル味とほうじ茶ラテ」
男はぎょっと目を剥いた。椅子から勢いよく立ち上がる。立ち上がっても女より目線が低い。
「で、ではチケットを拝見」
ごほん、と取り繕うように咳ばらいを一つ。わざとらしいほど恭しく差し出された手に、女は半券を乗せた。
男はバーコードリーダーにも似た小さな機械を半券にかざす。一瞬ののち甲高い機械音。「完了しました」
「3番シアターへどうぞ」
唇を横一文字に引き締めながら発される男の声に、女はもう薄暗い通路へと歩き出していた。背後にぶつかる「失礼いたしました」の呟き。
手前から左右の壁に一定間隔で1から10の表示が突き出ている。一つ一つにシアターがあり、時間が来ればそれぞれ『映画』が上映されるのだろうが、今はどこもその時ではないようで、番号は暗く沈んでいた。
唯一電灯が光る『3』の扉を女は押す。
途端に騒がしいほどの音が耳を聾した。通路よりも暗いそのなかを漏れ出してくる光の方向へ進む。十数歩歩けば、すぐに眼前を光の壁が埋めた。
音楽と共に広告が流れる巨大なスクリーン。前方に向かって斜面のように配置された無数のシート。古い映画館にしては場違いのように綺麗に整った、不自然に大規模な設備。
『―この冬、あなたはきっと涙する……』
「泣かないよな」
「泣いたことないよね」
『映画『余命1週間の恋』……『ヨメ恋さいこ~!!』』
「どんどん短くなってるよな」
「スリリングだよね」
そしてそこにいるのは彼女を含めて3人だけだ。
「あ、夏月さん」
「やあ」
「冬樹、春、久しぶり」
広告に茶々をいれて暇を潰していたらしい。シアターのちょうど中心部分を陣取っている2人に挨拶を返して『夏月』も合流した。
ほら、と自分の隣の席を笑顔で勧める冬樹を無視して、距離を開けて腰を下ろした。冬樹は気にしていないようにおどけ、春は声を上げて笑う。ほかに誰もいないから声を抑える必要もない。
「聞いたか?今回も重病だってさ」
荷物を下ろすのを待ってから冬樹はそう切り出した。スクリーンにはまだ広告が流れている。
「また長い治療になるのかな」
「もう嫌だぜ。ずっと休暇も取れなかったのに」
「どうせ休暇取っても冬樹さん北海道行くだけじゃん」
「春、北海道は何回行ったっていいんだ」
冬樹は言い返した。「いいぞぉ、北海道は」彫りの深い顔がうっとりと静まる。「美味しい食べ物、雄大な自然」
「冬樹さんは人が嫌いなだけじゃん」
「人なんていらない。適当に増えて、適当に生きて、環境を乱す」
春が愉快そうに笑う。
「まるで自分が人間じゃないみたいだ」
まるで自分が人間を増やす仕事をしてないみたいだ、と夏月は心の中で呟く。
「理想と現実のギャップってやつさ」
クマにでもなりたかった、と真面目に話す冬樹に春がまた笑う。
長いCMが終わると一瞬静寂が生まれる。
と、すぐに音楽がポップに変わり、今度は上映中の注意が流れ始めた。なにかの動物をデフォルメしたようなかわいらしいキャラクターがぽてぽて画面を跳ね回り、『お静かに』『撮影は禁止』『飲食の持ち込みはNG』と言葉をテンポよく音楽に乗せていく。
夏月は頭をひねった。馬ともトラともつかない、奇妙なその動物は……
「……麒麟?」
「そう、キリン君」
思わず疑問を口にした夏月に、冬樹が目を輝かせて答える。
友達のクマ君と協力しながら魔王の討伐を目指すという、笑いあり涙あり、最近人気の子供向けアニメの主人公らしい。「元は絵本なんだけど、作者がわからないんだ」
ぜひ一度会ってみたい、と冬樹はまたうっとりと目を閉じる。夏月はまだ見ぬ作者に同情する。こんな人に気に入られてしまって。
そのキリン君が画面の外に引っ込むと、スクリーンが横に広がり一層大きくなる。かちり、と金属音がシアターに響く。出入口がロックされたのだ。これで誰一人入ってくることはできない。
三人は口を閉じるとスクリーンに向かって姿勢を正す。
一瞬の静寂の後、シアターを満たす暗闇を大音量が破る。三人は一斉にため息をついた。
アメリカの某スパイ映画の迫力のある音楽、の口笛だ。伴奏も一切ない中、著作権を避けるためか所々音程が外れている。
「頭痛くなるよね」
「成長を感じないな」
「これだけは譲らないのよね」
テレ~、と引きの音を盛大に高音に飛ばす。ただ下手なだけかもしれない。
黒の画面が一転して白一色に染まる。流れるのは『所長』の声。さっきまで口笛を吹いていたとは思えないくらいの厳かな口調だ。
『さて、 班の諸君、先の任務ご苦労だった。例のターゲットは先日結婚をゴールインした。いや、ホールインと言うべきか。なにせあの日から二人で毎日毎日ズッコンバッコン……』
「ちょ、なになに!聞こえないって!」
「お前は聞かなくていい」
夏月が顔をしかめ、冬樹は春の目と耳を塞ぎ、春は何とかして耳にしようともがいている。
『その働きに免じてしばらくは休暇を……、と言いたいところだが知っての通り次の任務ができた。例のごとく、映像を流すのでよく見るように』
ぱちん、と即座に映像が切り替わる。白地に浮かび上がるのは黒い文字だ。
『東京第一管区、コウノトリ計画第八十七組目A班事前準備映像』
ジャズの壮大な音楽が流れ出す。
『男性側ターゲット、熊野吾郎。年齢25歳、結婚経験なし』
やがて女性の機械的なナレーションに合わせて、写真がスライドショーのように右から左へと置き換わっていく。川でわんぱくに遊ぶ半袖の大きな少年、制服で柔和な笑顔を見せる恰幅のいい学生、スーツを着込んだ気の良さそうな青年。
『千葉県出身。大学卒業後、出版社の東京本社に勤務』
「いい人そうだね」
「まあ名前にクマが入ってるからな」
いい人に違いない、と冬樹が得意げに胸を張る。
その隣で夏月は腕を組んだ。診断では『重病』だったはずだ。コウノトリの情報部が間違えることはめったにない。こういうのは大抵、性格に難があるもので……。
ドドン、とドラムを合図に転調する。
『女性嫌い』
男性―熊野の写真が切り替わり、文字へと変わる。SNSのスクリーンショットのようだ。
『やっぱり女はダメだわ』
あぁ、と春が呻いた。
『女の部下まじで使えね~』
冬樹は目を閉じた。
『結婚とか、死んでもしたくねえわ』
一文字一文字、丁寧に読み上げられたその言葉に、夏月は天井を見上げた。
空気が沈む。
『女性側ターゲット、浅川希林。年齢25歳、結婚経験なし』
しかし映像はこちらの状況など知ったことではない。淡々と情報を吐き出し続ける。
次いで流れ始めるのは女性側の情報だ。
『千葉県出身。大学院在籍』
「このままこのまま……」
「お願いします!」
「大丈夫だって……名前にキリンが入ってるし……」
まるで負ける寸前のスポーツチームを応援しているようかのだった。「大丈夫!チャンスはまだありますよ」
祈るように両手を合わせる三人に……
『見下し癖あり』
あざ笑うかのように情報が殴り掛かる。頭の中の審判が旗を振っている。「うーん、これはチャンスはありませんねぇ」
三人の肩ががっくりと落ちる。
もはや直視できないスクリーン。音声とともに流れるSNSの文章。
『やっぱ図体ばっかでかいやつはだめだね』
熊野は恰幅が良かった。
『やっぱ院には進んでないとね~』
熊野は就職していた。
『結婚とか、死んでもしたくない』
「なんでそこの息は合ってんだよ……」
冬樹の声が呆然と流れでた。
『明日12月18日13時から、○○区○○番地、A番カフェ前にて決行。過程は”好感触の出会い”から”初めての食事”』
『諸班の健闘を祈る』
絶望的な映像が終わる。
なおこの音声は~秒以内に……とふざける所長の声は3人の耳に届かない。
ここまでの流れを逆にするように、シアターを出て、通路の番号標識をさかのぼる。間接照明が光る中、『3』の電光が暗く転じるのを背に、ロビーに逆戻りした。
「……作戦会議でもどうよ?」
沈黙のなか、冬樹の言葉と同時に、こちら特典のキーホルダーです、と威勢のいい声が響く。カウンターの老人が屹立して、何かを差し出していた。
デフォルメされたかわいらしい動物の形。
「すみません。車を借りないといけないので」
受け取ったキーホルダーを冬樹に見せつけるようにくるくると回す。「俺も欲しいなぁ」「こちら1つだけでして」
いつもごめんね、と頭を下げる春に夏月は手を振る。もし中学生のような容姿の春が車を借りるとなれば余計に注目されてしまうだろう。視線を向けると冬樹は肩をすくめる。「クマは免許を持たないんだぜ」
夏月は呆れる。
「なんでこんなに手順がややこしいんだろうね。スマホに送ってくれるかすればいいのに」
おそらくはリスク分散のためだろう。決定的な証拠データを入手されるより、断片では意味が掴みにくいものを複数に分けたほうがいい、ということだろうか。
春の言葉にそこまで考えた夏月の頭に、ふと映像が浮かぶ。……『ブツを渡したら入れるようにしようぜ!』『いいじゃん!かっけ~!』『ユーザビリティ?なんだよそれ』『おい!財務省から予算引っ張ってこいよ!』『任せとけ!』……現実性を多分に含んだその妄想に、夏月はぶんぶんと頭を振った。
ちゃんと考えているはずだ、たぶん。
「じゃ、また」
「おう……まあ、頑張ろう」
「気楽に行こうね」
路地を抜けた先にある、蛍光灯が輝くレンタカー屋。大通りに面したここも、例に漏れず古びている。
「車を借りたいんですが」
手首に下げたストラップをカウンターに置いた。2メートル近い大男はそれを手早く機械にかけると、その場で握りつぶす。ミシャリ、と鳴る音と零れ落ちる破片に顔を引きつらせそうになった。
やっぱり春にはやらせられない、と夏月は思う。冬樹は怒るだろうし。
「白のピックアップトラック」
「ありがとう」
映画館と違い、即座に済んだやり取りに感謝しつつ、夏月は隣に併設された駐車場へと向かう。大小色とりどりの様々な車種の中、隅に目当てのトラックがたたずんでいる。白シートで覆われた荷台には、三人分の無線やかつら、様々な服装が巨大なリュックに放り込まれていた。
よし、と指さし確認をしてから車に乗り込む。
もう夜も更け、道行くカップルの数も少なくなっている。背を丸めて外を歩くスーツ姿の人々を、夏月はガラス越しに見つめた。同情と仲間を見るような気持ちだ。残業が作り出す光り輝くビルに、右へ左へとハンドルを切って、やがて辿り着いた地下駐車場へと車を入れる。
エンジンを切れば途端に一人の車内は静まり返った。ふう、と息をつきひとり気合を入れる。
「まずは運命の出会いから」
案外出会わせたら、どうにかなったりするものだ。
いや、どうにかなってくれ。




