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黄燈の照明が夜を穏やかに照らす、ある高層レストラン。
深紅を基調にした鮮やかなカーペット。深茶のシックな色合いの木壁。空間を彩る音楽は生演奏のジャズ。大窓を通して広がるのは幾本もの摩天楼が天を突く都会の夜空だ。配置された円形のテーブルでは、着飾った男女がそれぞれの一時を楽しみ、談笑を繰り広げている。
大人の食事にはぴったりであろうその明るく落ち着いた雰囲気の中、
「いつもそうじゃない!」
1人の声が反響した。
男女が座っていた。
眼鏡をかけて髪をきっちりとなでつけた生真面目そうなスーツの男。ショートの茶髪、カーキのセットアップにアクセサリーが光る勝ち気そうな女。
男は唐突に立ち上がった女をじっと見つめている。テーブルには揃って手がつけられないままのデザートが崩れかけ、向かい合っている。男が好ましく感じていた彼女の決断力の象徴は、今は不快そうに歪められていた。
「あれも出来ない、行けないって!私と仕事どっちが大切なの!」
「……どっちかって言われても……」
ありきたりな言葉だ。半ば現実逃避で男は思い、口ごもる。チラリと周囲を見渡した。正直に言ってしまえば彼女の大声のせいで他人に迷惑をかけてはいないか、ということの方を彼は気にかけている。
「もういい」
しびれを切らした彼女はそう言い捨てると、バッグを手にガタリと椅子を引き払う。揺れる後ろ髪が次第に遠くなり、ついには見えなくなった。
客のざわめきとジャズの静かな雰囲気を取り戻したレストランの一角に、男は一人取り残される。
追いかけようか。彼は一瞬そう考えて、代わりに溶けかかったデザートをフォークで突き刺した。
これで終わりか。甘いチョコレートのクリームをスポンジ生地に絡めながらぼんやりと男は思う。以前までの女性と比べても不思議と上手くいっていただけに少し、ほんの少しだけ惜しく感じた。
フォークを指先で弄ぶ中。
唐突にジャズの曲調が切り替わる。
跳ねるようなピアノから始まるそのジャズに男はハッとする。隅で演奏を続ける3人組に目を向けた。
煽るドラムにハイセンスのピアノが応戦し、疾走感の溢れるフィルイン。一歩間違えれば曲が壊れそうなほどのハイスピードの掛け合いの中をベースが低く泳ぎ回り舵を取っている。アドレナリンの放出を誘う音のうねりに、男だけで無く次第にレストラン中の視線を集めていく。
「懐かしいな」
思わず呟きが漏れていた。
頭に浮かぶのはあるバーでの思い出。彼女との出会いの記憶だった。
仕事に疲れ切った彼は、行ったことなど一度も無い薄暗い店へふらりと足を運んだのだ。普段は飲まないウイスキーと雰囲気に早々に酔いを回らせた男は、ふと隣を見やった。「やっと気づいてくれた」と笑う彼女がそこにいた。快活で竹を割ったような性格。カウンターに肘を突き慣れた様子でグラスを揺らしながら、横顔で笑顔を見せる彼女が輝いて見えた。ハイテンポなジャズが気持ちを高め、いつの間にか男は彼女に連絡先を尋ねていた。
本当にこれで終わりか。
渦を巻きだした思考の中、気持ちを落ち着けるためにフォークを口に運ぶ。ウイスキーの効いた甘いチョコレートが口の中でほどけていく。
「よろしいのですか」
は、と言葉が漏れる。心臓が跳ねる。心の内を言い当てられた気がして、男は視線を言葉の方へとやった。
「お皿をお下げしてもよろしいですか」
いつの間にかそばに立っていた長身のウェイトレスが、淡々と言葉を繰り返した。俯いた男の顔はマスクで覆われて伺うことは出来ない。
「よろしいですか」
単調に繰り返される言葉。噴き出す思い出と感傷。どうしようもない衝動と焦燥。膝がカタカタと揺れる。リズミカルなドラムとピアノの流れが全てを巻き込み頭で渦巻き出す。
どうだろうか。
このままでいいのだろうか。
別にいいのかもしれない。男はこれまでもそうやって1人で生きてきたのだから。
しかし、どうにもフォークは離しがたいように思えた。
「…………いや」
逡巡の後、男は思い出した。
元々甘い物は好きではなかったのだ。
男は席から跳ね上がった。荷物もそのままに、ウェイトレスを置き去りにして、出入り口へと駆け出した。自分の中でいつの間にか途方もなく大きくなっていた存在を迎えに行くため。
クライマックスへと向かい徐々に激しさを増していくジャズが背中を押した。
男は女のいる場所が分かっている。
『A班、誘導完了』
”ウェイトレス”はマスクを外した。3人組は演奏を終え、客は席から立ち上がる。
女は道路を歩いていた。
オレンジの光を漏らすホテルとビル群。葉が枯れ落ち、寂しい姿になった街路樹。普段は多い車も人通りも何故か今日はまばらで、余計に染み入るような寒さに息が白く濁った。
これで終わりかしら。
そう感傷的になりそうになる自分に気づいた女は自嘲する。こうなるのも彼が初めてという訳では無い。結局はどうしてもこうなってしまうのだ。
女はプレートの上で崩れかかっていたチョコレートを思い出した。でもあれは食べたかったかも。
俯いた彼女の眼前をくしゃくしゃの紙切れが寒風に転がっていく。『花火大会』の鮮やかな文字が踊っているのが目についた。一緒に行こうと、彼がはにかみながら言ってくれたことを思い出す。去年の赤面した彼の姿も。
今年は、1人だろう。
「すいません。こちらは通行止めとなっておりまして」
「あっ……すみません」
いつの間にかそばに立っていた警備員の一言に、沈み込んだ思考が引き上げられた。背の低いその人物は、深くかぶった帽子で表情を伺うことは出来ない。止まりかけていた足の方向を仕方なく変え、暗い路地を踏み出していく。
『B班、誘導完了』
”警備員”は帽子を脱いだ。通行人が紙切れを拾い上げ、少なかった車はその流れを戻し始める。
2年近く前のことだった。勝ち気な性格を理由に女は突然別れを告げられた。ひどく落ち込んだ彼女は行きつけのジャズバーにふらりと足を運んだのだ。もともと大学からジャズの同好会に所属していた彼女は、失敗し落ち込むたびに、そこで流れる軽快な音楽に身を委ねリフレッシュするのが習慣になっていた。
男と出会ったのはそのときだ。
明らかに不慣れな様子でウイスキーを流し込む生真面目そうな男。最初はただからかってやろうと思っていただけだった。元彼へのつまらない意趣返しのつもりでもあった。だが会話を重ねる内、不器用な中にふと見せる柔らかな笑顔に、いつの間にか女は胸をときめかせていた。
その夜、女は顔を赤くする彼に連絡先を渡していた。
「あ……」
ふと気づくと、近くの公園へと着いている。
男と初めて行ったデートの場所だ。自嘲も通り越して、女は情けなく思う。
数年前に新しくなった都会の庭は公園というよりもどこかの城の庭園のようだった。きれいに整えられた生け垣が迷路のように女を囲い込み、白い灯りが暗闇を切り抜いている。
誰もいない暗闇の庭。そこに、1人の男が立っていた。
彼だ。
スーツを乱し髪は風に吹かれるままで、心配になるほどに息を切らしていた。
女は咄嗟に背を向けていた。顔を合わせたくない、という訳ではなかった。
「……ごめん」
男の言葉が寒空に散った。女は何も答えない。
男も、口ごもる。
冬の風が駆けた。人通りも無い深夜の庭園で、沈黙が2人の間を満たしていく。
―だが、
「……僕は、こんな時になんて言えばいいかが、どうしても分からない。どうすれば正解なのかも分からない」
男は再び口を開いた。『よろしいのですか』。ウェイトレスのその言葉が頭の中に散乱している。なにか言わなければ彼女が行ってしまうと思った。
「けど、これで終わりは嫌だと思った」
今まで言うことの無かった思いをもう一度その言葉に込める。
「今年も、2人で花火に行きたい」
男は顔を熱くする。女はついに泣きそうになっている。
返事をするべく、女はおずおずと振り返り…………
そして吹き出した。
突き抜けていく笑い声。しんみりとしていた空気はどこへやら、涙まで流しながらおかしそうに笑う女に、男は何か変なことを言ってしまったかと焦り、わたわたと手を動かした。
「あはははははは!それ、持ったまま走ってきたの?」
自身の手を指さす彼女に男はえ、と目をやる。
月光を受けて銀色に輝くフォーク。先にはチョコレートが絡まったデザート。
まずい。レストランの物を握って来たのか。
途端に慌てる男。再び笑う女。2人はその様子をひとしきり続け、そして彼女は一歩づつ彼に歩み寄った。
「あ」
小さく口を開ける。
「え」
「……まだ私デザート食べてないのよ」
顔を赤く染めながら迫る女。遅ばせながら女の意図を理解した男は、赤面しながらもぎこちなくフォークを口に近づけていく。
ウイスキーを纏わせた甘いチョコレートの香りが2人の間に広がる。
夜も深まる庭園に人影はなく、2人は指を絡めあった。
そしてその様子を―
「よしよし手にぎったにぎった」
ビルの屋上から騒がしく見つめている一団がいた。
あくまで人がいないのは、いや人を追い払ったのは、公園周辺だけである。
「いちゃいちゃしてるぅ。あれはハグまでいくね」
「見過ぎだって。……俺にも見せろ」
「はぁ。……HQ1、中央ガーデンへの目標の誘導および和解完了、目標達成しました」
『了解。プランBに変更。A班およびB班、D班は解散C班は所定のホテルまで誘導せよ。』
簡潔な返答を返したきり、インカム無線は音を立てて切れる。
ふー、と息をつくスーツの女。ニマニマと口元を緩める長身の男。赤面しながら匍匐の体勢で双眼鏡をのぞき続ける少年にしか見えない男。
「直帰か!いやーよかったね~。年を跨いでずっとやってたのにここで別れてたら全部パーだったところだ」
「想定の範囲内です。相性自体はいいと報告で上がってきてますからもう大丈夫でしょう」
いかにもなお調子者の男に、冷静な女はそう答えると手早く荷物をまとめていく。双眼鏡にインカム、変装用のカツラに様々な服装……。みるみる膨れ上がったリュックを担ぎ上げると女はさっさと階段へと足を向け、軟派なイケメンはその後を追いかける。
「荷物持つって。どう、この後飲みにでも」
「本省で報告書を仕上げる必要がありますから」
「おわー!ハグどころかキスしてるじゃん!!」
「お前も早く帰るぞー」
誘う男、断る女。そして鼻血を垂らす男。
騒がしいビルの屋上をよそに夜は更け、そして今日も一組の男女がいい感じになるのだった。
―少子高齢化が進行した日本。
人材不足、経済不況、年金問題、果ては外国人問題まで。人口減少の大波は日本全体を覆い尽くしていた。出会いの不足、対人経験の不足、男女間の対立、SNSの弊害……。政府が大手を振って結婚妊娠を強制する訳にもいかず、しかし補助金や控除といった金銭面の政策だけでは抜本的な解決には至らない……。
省庁の再編に伴う『こども家庭庁』設立を好機とみた時の総理大臣、石田湛山。彼の密命により庁管轄下にある組織が新設されることとなった。
通称『コウノトリ部隊』。
その任務は男女の成婚およびホテルへの誘導。
つまりは子作りの推進、である。




