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晴天ペトリコール

作者: Win-CL

       挿絵(By みてみん)

「――にしては強すぎるなぁ」


 土砂降りの雨の中、()()()()()()()()()()()()()、父さんが何かを呟いた。

 強すぎるって……この雨のことを言っているのかな?


 数分前まではとても良い天気だったのに、神社の境内の掃除をしている最中、雨が突然に降り始めた。――突然、というのは本当に前触れなくだった。


 その雨音にかき消されてしまい、呟きの肝心な部分を聞き逃してしまったけど、それを改めて聞き返すこともできずにいた。急にまとわりついてきたジメジメとした空気を追い払うように、シャツの裾を掴んでパタパタと扇ぐ。


 父さんは神社の宮司をしている。

 ひいお爺さん、お爺さんとずっと代を継いできたらしい。


 ただ、去年に足の骨を折ってしまって、仕事をなんとか続けることはできるけど、境内の掃除は定期的に町内会の人にも手伝ってもらっている状態。今日は、その神社の清掃活動の日だったわけだ。


 ジリジリと焼かれるような熱さの中での作業だったし、これで少しは涼しくなってくれたら……なんて思っていたのに、あっという間に大粒の雨がこれでもかと降り注いできたのだ。


「夏の匂いがしますね」「ですねぇ」


 父さんは時々、遠い目をして空を眺めることがある。

 それにつられるように、自分も空を見上げて何かを探してみようとした。


「変な天気……」


 雲一つない快晴なのに土砂降りという、摩訶不思議な光景。

 この雨はいったいどこから来ているんだ?


 雨が降る仕組みは理科で習った。雲にならなくても、雨って降るのかな。仮にそういうことがあるにしても、ここまで乱暴な雨が降るだなんて明らかに変だ。


「こんな雨の中じゃ掃除もできん。一旦中断しようや」


 そう言って、大人たちは作業を止めて集まり、道具を置いた人から待合所に入っていった。


 自分も持っていた竹ぼうきを社務所の脇に立てかけて、待合所に入ろうとした。そのとき――ふと、視界の端に白い何かが見えた気がした。


「……誰か雨宿りしてる?」


 境内の端にある大ケヤキの下。


 よく見てみると、和服を着た女の人が雨宿りをしていた。あれは確か……“白無垢”っていうんだ。それと、頭に被っているのは“綿帽子”。前に父さんに教えてもらったことがある。


 その恰好からして、町内会のボランティアの人じゃないことは確かだった。


 清掃作業をしている間にも、参拝に来ている人はちらほらいたし、その度に父さんが対応に向かっていたのを覚えてる。きっと、あの人もそのうちの一人だったんじゃないだろうか。


 たまに神社の人の真似をして案内することもあったので、いつもと同じようにその人にも声をかけてみた。


「あの……雨が強いから、こっちで雨宿りはどうですか」


「あ……――」


 綿帽子の内側から覗いた顔を見て、ほんの少しだけ混乱してしまう。


(大人のひと? それともお姉さん?)


 その服装の意味は知っているので、大人だと思って話しかけたのだけど――想像していた以上に女の人の見た目が若くて。ツヤのある黒い髪は短くて、毛先はやや内側にカールしていて。少し下がった目尻からどこか優しそうな雰囲気。


 こちらに気付いた女の人は、困ったような表情でこう答えた。

 静かで、落ち着いていて……どこか安心する声は、大人って感じがした。


「ありがとね。でも、ごめん、あまりゆっくりできないんだ。私、式を挙げる神社を間違えちゃったみたいで……ここからどう行けばいいのか教えてくれないかな?」


 神社の名前を聞いてみると、それは自分の知っている神社のものだった。しばらく歩くことにはなるけど、道筋はそんなに難しいものでもないし、山間の田んぼを越えさえすれば、あとは山を登るだけだ。


『この雨の中を歩いてでも』とお姉さんが言うので、一旦そこで待っていてもらって父さんに相談してみる。姿が見えないなと思ったら、待合所に入ってすぐのところに立っていた。


「あの女の人……田んぼ向こうの神社に行きたいみたいなんだけど」

「それは大変だ。案内してあげなさい、傘は持って行っていいから」


 父さんはお姉さんの姿を確認するなり、そう言って大きめの傘を出してくれた。大人用にしてもやけに大きな――それこそ、誰かにさしてあげるために作られたんじゃないかってぐらいに大きな傘だった。


「向こうに着いてまだ傘が必要そうなら、差し上げていいからね」

「そんなこと言ってると、うちの傘が無くなっちゃうよ」


 うちの境内は広いため、たまに参拝中に雨に降られた人に傘を貸し出したりしている。たまに持って帰ってしまう人がいるのではと思うのだけれど……いつだって自分の気づかないうちに傘の数が減っているのだ。


『はぁ……』とため息をついてから、大きな傘を開いて大ケヤキに向かった。






 出発しての会話なんて、目的に着くのにだいたい20分はかかるという話をして、それっきり。降り注ぐ雨の重たさが、そのまま口に封をしているような感じだ。


「ごめんね。そこの停留所で休もうか」


 そんな空気まで重たくなった状態で、お姉さんの方から遠慮がちに休憩を提案される。広がりに広がった田園地帯の中を通り過ぎようとしたところだった。

 

「ずっと傘をさしてくれていたんだし、腕が疲れちゃったでしょ?」

「全然、これぐらい平気だけど……」


 そう強がりはしたけれど――正直なところ、ずっと腕を上げ続けている姿勢は確かに辛かった。プルプルと震えていたのも、お姉さんからは丸わかりだったに違いない。


 ……いつも使うような傘よりも、大きくて重たかったせいだ。

 それでも、お姉さんの綺麗な服を濡らす訳にはいかないと必死だった。

 後半も任務をまっとうするために、仕方なくその提案に乗ることにした。


「…………」


 停留所のベンチは広く、それぞれが両端に座る。これだけの雨の中で少し湿っているかもと心配していたけど、服を濡らすほどじゃなくて安心した。


 雨足はさらに強くなった気がする。大粒の雨が、トタン屋根を叩いている。

 ドドドド、と重い音が響いて、なんだか滝の中にいるような感覚がした。


 何か話しかけた方がいいのかな。


 こんな状況にあまり経験がなくて、なんだか手持ち無沙汰な状態。なので、ぼんやりと目の前に広がる田んぼを眺めていた。青々とした田んぼと、その間を真っ直ぐに横断する道が何本か。そのうちの一本には小さな赤い鳥居が立っていたりもする。


 降り始めが唐突だったんだから、降り終わりも唐突にくればいいのに。

 雨が止んでさえくれれば、あとは歩いていくだけで楽なんだけど。


「……ホントはね――」


 おもむろに、横に座っていたお姉さんがぽつりと呟いた。


「――逃げちゃったんだ、私。場所を間違えた、なんて嘘」


 囁くように小さい声。雨の音はうるさいぐらいに大きかったのに、はっきりと何を言っていたのか聞き取れたのが不思議だった。思わずお姉さんの方を向いてしまってから、聞こえなかった振りをしてもよかったのにと後悔した。


 それでも、お姉さんの『逃げちゃった』という言い方が、なんだか気になって。『逃げる』なんて言葉、テレビゲームとか、ケードロとか、遊びの中でしか使わない。それ以外で『逃げる』と言ったのが不思議な感じがした。


 いったい、何から逃げたんだろう。


「なんで? 逃げてきたって、何から?」

「何からって……そうだなぁ、強いて言うなら、結婚をすることから?」


「結婚するのが嫌だったの?」

「ううん。嫌とかじゃないの。でもなんだか、よく分からなくなってきちゃって」


 なんだかぼんやりとした言い方だった。


「うちの親、私に何にも言わないから。早くどこかに嫁いで、身を固めて欲しいんだろうなっていうのは薄々感じるんだけど、だからどうしろとも言わない。……この結婚だって、本当に喜んでいるのかどうかも――ごめんね、いきなりこんな話しちゃって」


「……同じだ。うちの父さんも同じだよ。きっと神社の跡を継いでほしいんだろうし、今のうちにいろいろ勉強して欲しいと思っているんだけど、何にも言ってこないんだ」


 神社の跡取り問題っていうのを、最近ニュースでよく見かける。

 それによって、全国でも年々神社の数が減っていると。


 境内の掃除だって、昔はよく手伝ったりしていたんだ。けど、今はほとんどやっていない。それでも、父さんは俺にやれと命令したりせずに、町内会のボランティアの人たちに手伝ってもらっていた。


「神社の跡を継いだ方がいいと思うの?」

「だって……父さんだって、爺ちゃんの跡を継いでなったって言ってたし」


「それって、君がどうしたいって意思とは関係ないよね?」

「自分の先のことなんて全然分からないもの……」


 未来のことなんて、中学に入学するぞっていうので頭がいっぱいだし、高校のことだって何一つ考えていない。大人になった時のことなんて、わかりっこない。


「それじゃあ、決めるのはまだ先でいいんじゃない。お父さんだって、きっとそう思っているんだよ。……少なくとも、嫌いになってほしくはなかったんじゃないかな」「嫌いって、何を嫌いになるのさ」


「神社のことだったり、それこそお父さんのことだったり」

「…………」


 嫌いになってほしくなかった?

 だから、あれこれしろって言ったりしなかった?


「それとも、もう嫌いになっちゃってる?」

「ううん、別に。でも――」


 嫌いになんてなったりはしない。物心ついた頃から、父さんと自分の二人っきりだったし。母さんが病気で亡くなったのも、自分がまだ生まれたばかりのこと。


 他の家と比べたりして寂しくなることもあったし、大変なこともあった。でも、最近は喧嘩をするようなこともない。神社だって、居心地が悪かったことなんてないし、嫌いになんてなるわけがない。でも――


「……昔は、もっとちゃんと好きだった気がする」


 小学校の高学年になるまでは、そういうのが当たり前だとずっと思っていた。そのうち、父さんは毎日頑張っているんだということを感じ始めて、自分もあまり楽しそうにしていたらいけないような気になっていた。


 あまり遊びに行かない方がいいのかな。

 神社の手伝いとか、した方がいいのかな。

 でも、逆に父さんの仕事の邪魔になりそうで……。


 いろいろと考えるようにはなったけど、何をすれば正解なのかなんて分かるはずもなくて。家の中で話す機会があっても、当たり障りのないようなことしか話していなかった気がする。


 それでも、父さんに嫌われているわけじゃないとは思う。

 神社のことと同じぐらい、大切にされているのは感じているから。

 もしかしたら、どこの家の“お父さん”だって――


「そっちのお父さんも、俺のお父さんと同じなのかも」


 お姉さんの話を聞く限りでは、悪いお父さんというわけでもなさそうだし。

 ポツリとそう呟いたところ、お姉さんはキョトンとした顔をした。

 そ、そんなに変なことを言ったかな……。


「あの、その、嫌いになってほしくないって意味でというか……」

「そっか……」


 そうして、納得したように小さく頷いていた。


「私もただ答えが分からなくて、それで逃げていたのかもなぁって。別に、近くにいる人に聞いてみたっていいのに。……逃げ続けてちゃ答えは出ないし、そろそろ終わりにしないとね」


「逃げるのをやめるって、つまり――立ち向かうとか?」


「プッ。立ち向かうって……別に敵じゃないんだから」


 そう言って、お姉さんは軽く吹き出していた。

 ちゃんとした笑顔を見たのはこれが初めてで、少しドキッとしてしまう。


「こういうのは、“向き合う”って、言うんじゃないかな」

「向き合う……」


 なんだか、変な響きだった。そんなことを話している間に、雨足は少し弱まってきたみたいで。丁度よかったと言わんばかりに、お姉さんはゆっくりとベンチから立ち上がる。


「――頑張らないとね」


 小さく呟いてから、こちらを見た。それは、お父さんと自分のことでもあったのだろうし、残り半分の道のりのことでもあったんだと思う。


 自分も小さく頷いてから、小学生が持つにしては大きすぎる傘を開いた。







 田園地帯を抜けて、目的の神社のある山のふもとに到着した。ここからの道はあまり詳しくないけれど、迷う心配もなさそうだ。なぜなら、神社の入り口まで続いていることを示す看板が、山道の入り口に立っていたから。


「あまり……整備されてないみたいだね」

「うん……」


 山の中へどんどんと入っていく。あちこちから伸びている竹林も、あっという間にその密度を増して、視界を埋め尽くしてしまう。


 雨の音も気づかないうちにバタバタという重いものから、パラパラという軽いものに変わっていた。依然として降り注いでいた太陽の光は、山の中までは届いてこないようで、大変だったけど思っていたよりも快適な道中だった。


「――やっと着いたー!」


 10分ほど登り続けて、神社の入り口に辿り着いた。山道はずっと一本道で、導かれるように鳥居を潜り抜ける頃には、雨足もすっかり小雨といった感じだった。


「ここもお稲荷さんの神社なんだね」


 境内に入る鳥居の先には、狛犬ならぬ一対の狛弧が凛と立っている。


「このあたりは稲荷神社ばっかりだから、慣れてない人はよく間違えちゃうんだ」


 それにしたって、式を挙げるにしては人影が見当たらなかった。中で準備をしているにしても静かすぎる気がするし、お婿さんだけじゃなくてお姉さんの家族もいないのはおかしい。


『誰か人を呼んで確認した方がいいかな?』と聞いてみると、お姉さんは何かを見つけたようで『ううん、大丈夫みたい』という答えが返ってきた。境内の端に向けられたその視線の先には――倉庫として使われているであろう小屋があり、その手間に立てられた小さな鳥居の脇には、紋付き袴を着た男の人が立っていた。


 背はお姉さんと同じぐらいで、頭には帽子を被っていた。顔は少し丸っこくて、ふさふさとした髭が生えている。……お姉さんの反応からして、あれがお父さんらしい。ずっと外で待っていたのか、大きな傘をさしていた。


「あっ、あの傘……」


 自分の持っているものと同じ傘だ。

 とても古いものなのか、あちこちが傷んでいるみたいだった。


「娘を連れてきてくれてありがとう。感謝しています」


 帽子を外して深々と頭を下げられ、焦ってしまう。

 そうして返事もできないうちに、こちらの傘を見て何やら気づいたようで。


「私の父がその昔、神社の方にお世話になったときに頂いたという傘でして……」


 聞けば、こういった記念の日にだけ出して、大事に使い続けているらしい。お姉さんのお父さんの、そのまたお父さんということは、うちの神社だったらお爺ちゃんが宮司をやっていた時代かな?


 今日のお姉さんの神前式でもその傘を使うつもりなんだ、とぼんやりと思ったところで――自分たちを送り出すときに言っていた父さんの言葉を思い出した。


『必要そうなら、差し上げていいからね』


「……この傘、よかったら使ってください」


 そう言って、傘の下にお姉さんを入れたまま、濡れないように注意を払って差し出す。『是非とも新しい傘を使ってほしい』と伝えると、向こうも了承してくれ、ちょうどお互いの傘を入れ替える形になった。


 自分がさしていた新しい傘には、お姉さんと彼女のお父さんが。受け取った古い傘には自分が入っている状態。こうして、送迎の任務は無事に達成した。


「ありがとうございます。お父様にも、大変感謝していたとお伝えください」

「今日は本当にありがとう。お互いに頑張ろうね」


 手を振り、別れる。境内から出る時にチラリと振り返って様子を確認してみると、何やら向かい合って真剣に話をしているようだった。


 一瞬、喧嘩になっているんじゃないかと心配になったけど、表情はどちらも穏やかなものだったので、気を取り直して山を下ることにした。






 これぐらいの小雨なら、と帰り道は傘をささずに帰った。


 お姉さんのことを気にしながら歩いた、行きの景色と違って、帰りは視界を遮るものはなにもない。遠くの山のてっぺんも、その先にある青空も見通せて、とても気持ちがいい。


 田んぼでは、恵みの雨ですっかり元気になった蛙たちが大合唱を始めていた。遠くからはアブラゼミがジワジワと鳴いているのが聞こえる。


 ただ、雨が弱くなった分、照り付ける日差しの強さが増していて――ちょうど行きで休憩に使った停留所が見えてきたので、日陰に逃げるようにその中に入った。


 あの時と同じように、ぼんやりと畑の向こう側を眺める。

 この雨だと、父さんたちはもう作業を再開しているだろうか。


「“向き合う”、かぁ……」


 父さんだって、何か考えていることがあるんじゃないか。目的の神社にお姉さんを送り届けて帰る際にちらりと振り返って見えた、あの真剣な表情を思い出す。


 雨はまだ、ぱらぱらと降り続けている。遠くの方には虹が出ていた。


 いずれこのあたりの雨も、通り過ぎるように消えていくんだろうな――と視線を下げると、なんだか景色が霞んで見えづらい。最初は陽炎かなにかだと思っていたけど、それは次第に濃くなっていく。……おかしなことに、霧が出てきたみたいだ。


「ん……」


 見通しが悪くなりつつある中で、畦道の上に誰かの人影が見えた。

 一人や二人じゃない。もっとたくさんの人の列だ。

 ……いや、もしかしたら別のものかもしれない。

 みんな、人間にしては異様に背が低かった。


 目を凝らして観察してみると、みんな似たような服装をしていた、鼠色の着物に袴を履いている。持っているものは様々で、提灯だったり、傘だったり。


 ただ先頭の二人はきっと主役の男女なのだろう。服装がはっきりと違う。

 片方は黒い紋付袴で、もう片方は白無垢だ。


 女の人は頭をすっぽりと隠しているのでよく分からないけど、他の人をよくよく見れば、顔が面長で、耳が生えていた。それに、習字筆のようにふっくらした、しろい尻尾も生えている。まるで――というより、狐が二足で歩いているとしか言いようがなかった。


 見たことのない光景に、あいた口が塞がらない。

 ただ、その中にただ一つだけ、自分のよく知る物があった。


「あっ――」


 いくつも傘がさされている中で、花嫁を守るように雨を遮るその傘だけは色が違っていた。他はどれも赤くて派手なのに、それだけはとても地味な色だった。今まさに自分抱えている傘と同じ灰色だ。


 もしかして、と思ったのと同時に、ふと白無垢の中の狐と目が合う。

 その眼差しが、どこかあの女の人と似ていて――


『――特別だよ』と、そう視線で語り掛けられた気がした。


 いつの間にか、近くにあった蛙の鳴き声も、遠くにあった蝉の音も消え、あたりは白い霧に沈んでいる。その中で、和装に身を包んだ狐たちの行進というこの世の物とは思えない光景。


『――にしては強すぎるなぁ』


 霧の中、田んぼの間に立っている鳥居を潜った狐から姿を消していく。そんな幻想的な光景を見終えたところでふと、あの女の人を送りに行く前、空を見上げながら父さんが何を呟いていたのかに思い当たった。


「そうか――」


 だから、強すぎるって言っていたんだ。

 空が晴れているのに降ってくる雨のことを、この地域では昔からこう呼ぶ。


「――“狐の嫁入り”だ」






 きっと、いま見たことを学校の友達や近所の人に話しても、信じてはもらえないかもしれない。『本物の狐の嫁入りを見た』だなんて。それでも――なんだか父さんだけは、『そんなことがあったんだね』と真っ直ぐ聞いてくれる気がした。


 大きな傘を抱えて、父さんの待っている神社へ走り出す。

 早く帰って話したいと、そう思ったから。


 霧を抜けると、ぱらぱらと振っていた小雨もすっかりと止んでいる。真っ直ぐに降り注ぐ太陽の熱に空気中の湿気が炙られて、むせ返るほどに暑かった。その湿気だけが、さっきまで雨が降っていたことを証明している。


 ……今日あったことは、きっと一生忘れないだろう。


 忘れかけていたとしても、ふとしたことをきっかけに思い出すに違いない。


 たとえば――そう。


 太陽が輝く青空の下、どこからか、雨の匂いがしてきたときに。






(了)

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