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1話



リーリエ・エトワイレ・ド・ブランは雪に囲まれながらもその雪解け水が齎す豊かな実りに恵まれた広大な土地と、卓越した魔法技術により栄華を誇るブラン王国の王女だった。


男系の血筋であるブラン王家の中で王女という存在は極めて稀であり、父である王もその誕生を椅子から転げ落ちるほどに喜んだ。

その喜びは名前にも表れており、リーリエという名の他に星を意味するエトワイレの名を与え誕生を祝う式典においてブラン王国に輝く星であると国民へと宣言したのだ。

そもそもブラン王国にはリーリエに先んじて双子の王子が生まれており、一人は至高の王と呼ばれる父譲りのカリスマ性から王太子に、もう一人は元聖女の王妃から受け継いだ神聖魔法力から次期大司教になる事が決まっている。

高度に発達した魔法技術による発明と引き換えに築いた周辺国との同盟は国を安定させ、誇り高く在りながらも民に寄り添う誠実な姿勢は民からの支持も厚い。


醜く後継を争う事もなく親愛に満ちながらも、けしてそれに胡坐を欠かず各々の成すべきことへの覚悟を持ち合わせた歴史に残るだろう偉大なる王とその家族達。

そこに生まれた意味と、役割を、リーリエの心は知らずの内に理解していた。


王太子が決まっている時点で王女としてリーリエに与えられる政治的役割は他国の王族や有力な貴族と婚姻を結び礎となること、あるいは自国の貴族へと降嫁し王家と貴族達の間をより強く結ぶこととなる。

どちらにせよ生まれ育った王家を離れる事が決まっていたリーリエは一流講師陣による淑女教育だけでなく自国・他国の歴史や各地の言語をはじめとする文化を全て学ぶ事を義務付けられていた。


小さな少女に課すにはあまりに重い義務ではあったが、幸いにも元々の素養のせいか少々の無理はしつつもおおよそ体調を崩す事もなく順当に身に着け、淑女としての成長を遂げていく。


優秀でありながらも傲慢にならず、常に暖かな笑みを浮かべる天使のような王女。

王家特有の夜空のように青みがかった黒髪と、母親譲りのガーネットの瞳…ブラン王国の国名の由来になった新雪のような白い肌を持つリーリエは正しく国王夫妻の愛から生まれた娘であり、兄王子達はもちろん貴族や民からも愛されるまさしく星のような存在であった。


しかし勿論、そんなリーリエを妬む者もいた。

驕りから立場を見誤った貴族令嬢や、彼女の努力を知らずに恵まれすぎだとひがむ平民…同世代の少女からすれば憧れよりも妬みの方が勝ってしまうのだろう。

しかしれっきとした王族であるリーリエに表立って敵対心を向ける者はそう居らず、ごく稀に現れた場合は国王ではなく彼女自身が『対処』をする事で不心得者への牽制とした。

それもあってか、殆どの貴族家は王女と言えど侮る事はなく敬意をもって接している。



そんな生来の王女であるリーリエの嫁ぎ先が発表されたのは十二歳の誕生式典。

相手はブラン王国貴族の中でも忠臣の家系として知られるデュラン侯爵家の嫡男ビゴットだった。


縁談自体はかねてよりデビュタント前にも関わらず国内外から申し込まれていたものの、妹王女を溺愛する兄王子達による選別でその多くは脱落していった。

国を離れる縁談は真っ先に除外され、国内貴族には内偵による調査が入り少しでも後ろ暗い事があれば除外され、残った中で選ばれたのがデュラン侯爵家だった。


デュラン侯爵家は褒賞としての領地拡大を辞退し続けた為にごく小さな領地を治める貴族ではあるものの、代々王国騎士団の団長を務め王国の歴史にその名を刻む名家であり、嫡男であるビゴットも年若い内から騎士団へ身を置き研鑽を積んでいる。

王家の決定に反対意見が出る事はなく、リーリエとビゴットは恙なく婚約を結びその四年後に惜しまれながらも王城を離れ侯爵家へと嫁いでいった。



あれほどの忠義を持つ家ならば王女の嫁ぎ先に相応しい、きっと幸福になれるだろう。


そう、誰もが思っていた。







「………」


リーリエは一年間毎日使っているにもかかわらず新品と大差ないほど清潔に整えられた柔らかなベッドの上で一人座っている。

美しい夜空の髪はリーリエのしるしである白百合の香りの香油でいっそう艶めき、控えめに施された化粧は可憐な少女から麗しい女性へと変化しつつあるその一瞬の、清らかでどこか危うい美しさを引き立てている。



侯爵家に嫁いだものの未だ義父である侯爵が現役で爵位を譲ることなく騎士団長を務めている為、リーリエには特になんの肩書も権限もない。

ただ若奥様と呼ばれるだけではあるが、侯爵家で暮らす家族や使用人達とも積極的にコミュニケーションをとりいずれの女主人として屋敷の中での立場は盤石と言えるだろう。


夫であるビゴットも体こそ少々鍛えすぎのきらいがあるがそれを差し引いても十分美男子と言えるほどに整った容姿をしているため、婚約から婚姻までの間にリーリエの心も自然とビゴットに惹かれていた。



だが、結婚して一年

その短いようで長い期間に味わった思いはリーリエの恋心を掻き消すには十分なものだった。



「…やっぱり無駄だったわね」


触り心地のいい生地のナイトドレスに触れながらリーリエは一人呟く。

貴族の中でも一番人気のブティックで仕立てた薄手ながら品のいいナイトドレス。

それに包まれた柔らかな曲線を描くリーリエの身体も、侍女たちによって時間と手間を惜しむことなく磨き上げられている。


それに触れる事ができる人間は一人だけだが、その人物が寝室の扉を開ける事はない。


リーリエは一年間毎日この寝室でたった一人で眠り、たった一人で目を覚ましている。



しかしそれも今夜まで…


リーリエは決意を新たにするため一度深く息を吐き、頷いた。








「ビゴット様」


一夜明けた朝、まだ日が昇りかけの薄ぼんやりとした時間に愛馬と共に屋敷を出ていくビゴットへ声を掛ける。

惹かれていた筈の男性的魅力に溢れる整った顔立ちを見ても、リーリエの心はもう僅かも動かない。


「いかがなさいましたか、殿下」


見送りに来る事はあっても呼び止める事はなかったリーリエの行動にビゴットは馬の脚を停め、振り向いた。

そんなビゴットに、リーリエは微笑みを向けることなく真正面から見据える。


「昨日で私共が婚姻を結んで丁度一年と相なりました。

 つきましては本日中に離縁の手続きを致しますので、後ほど騎士団詰め所の方へ署名をいただきに参ります。ご了承くださいませ」

「は、了解いたしました」


寸でを置かずに返された了承の意にリーリエはその表情にほんの一瞬だけ、自嘲の笑みを浮かべてしまいそうになった。

勿論、淑女としての振る舞いを完璧に身につけた手前表面上は何も変わらないが。


「…では、一年間ありがとうございました。

 私は侯爵夫妻への報告をいたしますので失礼いたします…本日の訓練でもどうぞお励み下さい」

「はっ!」


くるりとワンピースの裾を翻し屋敷へと戻るリーリエの頬に涙はなかった。

一年かけて擦り減った恋心は欠片も残っていない。

あるのは親身になってくれた侯爵夫妻へ真実を告げなければならないというプレッシャーだけだった。











丁度一年前

結婚式当日の夜、親族や交流のある貴族への挨拶もそこそこにリーリエは初夜へ挑むべく入念に体を磨いた。

褥での作法も恥らいながら何度も繰り返し教本を読んで、少女らしくドキドキと胸を高鳴らせながらベッドの上でビゴットが寝室を訪れるのを待つ。


…が、その夜の内に寝室の扉が開く事はなかった。



緊張と困惑に襲われながら眠る事も出来ず扉と時計を見つめ続けたリーリエは、翌朝扉を開けた侍女の顔を見て涙を零した。


乱れのないベッドとハラハラと涙を溢れさせるリーリエの姿に侍女が慌てふためき侯爵夫人へと報告すると、すぐにビゴットへと連絡がなされた。

聞けばビゴットは夜の間中ずっと侯爵家の屋敷の警備をしていたのだという。

結婚当日の夜に警備をする花婿がどこにいる、と夫人はビゴットに対し怒りを露わにしたがビゴットは何故自分が怒られているのか理解できず逆によくわからない理論を夫人に滔々と語った。


曰く、『王女殿下の御身を護るのが騎士たる我が役目』であり『宴席の後は不埒な輩が現れる確率が最も高く』、『王家より預かった殿下の身の安全を最優先にした』とのことだった。


夫人は痛む頭を押さえながら初夜の重要性を説き、その上でリーリエに心から謝罪し再度初夜を申し込むように言いつけた。

夫人自身もかつて侯爵家へ嫁入りした身であるため、この件に関しては同じ女として我が子よりもリーリエに肩入れするのは当然だと言えるだろう。

初夜をすっぽかされるなど女として屈辱でしかなく、家によっては今後の立場にも響きかねない…幸いにも侯爵邸で働く者達は教育が行き届いておりリーリエを軽んじる事は一切なかったが。



そしてビゴットは母からの説教を受けた後、その足でリーリエの部屋へ赴き王城での儀礼と同じように既定の回数扉を叩くと自身の騎士団員たる身分と共に謝罪の為に来た、と堂々名乗りを上げた。


…が、この屋敷は王城ではなくデュラン侯爵邸である。

嫡男であるビゴットが名乗りを上げる必要などない。それどころか夫婦である以上最悪ノック無しでも然程問題にはならない。


「……どうぞ」


やがてリーリエから小さな声で入室を促されると、ビゴットは騎士として相応しい所作で部屋に入り謝罪の言葉を口にした。


「昨晩は我が失態により不安を抱かれたと伺いました!御身を守護する栄誉を賜った身でありながら誠に申し訳ありません!」


もしそこに侯爵夫人がいれば、見当違いも甚だしいと顔を真っ赤にした事だろう。

それほどに立派で、実直で、場違いな謝罪だった。


例えばそっと頬に触れ、すまなかったと微笑んでくれればリーリエも仕方がない人と微笑み返すこともできたというのに、目の前の男は夫としてではなく騎士としてその折り目正しい姿勢を崩さないまま王女としてのリーリエに謝罪をしたのだ。


「………許し、ます」


困惑と動揺の中、口をついて出たのは王女としての言葉だった。

その謝罪の意味を問いただす事も理解を強いる事もできないほど、空しさだけがリーリエの心を埋めていく。


王女としての自分に不満を持ったことはない。

かつて一人の娘として自由になりたいと思う事はあったが、それは心が成長する過程に生じる一瞬の迷いだとわかっている。

生まれを嘆くつもりも、別世界に強い憧れを抱く事もなかった。


けれどもう自分は王女ではなくなった筈。


元王女であり次期侯爵夫人である以上何もかも放り出せるような立場ではないが、それでも大きな変化があった筈なのに、違うのか。

ただ一人の女として、恋した夫に愛される筈ではなかったのか。


これが不貞であったならまだよかった。

他に好いた女性がいて、自身とは望まぬ結婚だったと言うのならまだ気持ちの行き先はあった。

絶望でも屈辱でも、何もないよりはマシだったというのに…ビゴットの中に王女以外の自分はいないのだと、どこにもぶつけようがない名前のない感情が、重く圧し掛かってきたようだった。





「…以上で、すべてですね」


リーリエの離縁は特に何の問題もなく進んだ。

前々から侯爵夫人にだけは相談していた事もあり、詳細な説明をする必要もなく確認しながら互いに書類に必要な事項を記入していく事務的なやり取りだけ。

その途中で何度か侯爵から引き留めようとする気配はあったが、隣に座る夫人の無言の圧力に封じられ言葉になる事はなくすべての書類が整った。


「今回の離縁で慰謝料や公の謝罪を求める事は致しません。

 ただ…私にはいずれ別の縁談が持ち上がる可能性がある為、戻り次第純潔審判を受けるつもりです。

 その際に夫であるビゴット様の立ち合いが必要となりますので追って日にちを通達させていただきます」


純潔審判とは白い結婚や婚前交渉の無い事を証明する為の物で、国を代表する研究機関が作成した専用の魔導具を使って行われる。

王家へ輿入れする女性には義務付けられているものの他の女性が受ける事は少なく、婚家がよほど厳しいか…或いは事情があり男女の営みがないまま離縁する事となった場合にのみ受ける事がある程度だ。


純潔審判と魔導具は周辺諸国にも広がっており、その証明は国を出てからも有効なものとなる為いずれ政略の為結婚する事になるだろうリーリエの価値を守る大切な手段だった。


「では、荷物をまとめてまいります」


夫の欄以外を埋めた書類をまとめ自室に戻ったリーリエを専属の侍女達が出迎えた。


「若奥様」

「掃除が終わったところで申し訳ないけれど、私物をまとめてほしいの。

 城から持ってきた物だけで、それ以外の物はちゃんと箱に収めてちょうだい」

「かしこまりました」


侍女達は恭しく頭を下げるが、実際の所もう荷造りの殆どは終了していた。

離婚を見据え少し前から社交を控えていたリーリエの意図を汲み取った侍女達は季節から外れたものや日常的に使わないものから整理を始めていたのだ。


「…ふふ、新しい部屋みたい」


私物を引き上げた部屋は、一年間過ごしたというのに初めて足を踏み入れた時とあまり変わらない。

ビゴットからは節目節目でアクセサリーやドレスを贈られてきたが、それらが全て侯爵夫人が選んだものである事も知っている。

髪の色や目の色に合わせ流行を取り入れた上等な贈り物は既に侍女によって箱に詰め直され、クローゼットに収めてある。

ビゴット自身が選んだものが何一つとしてない以上、持っていく気にはならなかった。


必要なものを馬車に積み込み次第、後は自身がここから出ていけばいい。


侯爵夫人と過ごした温室や侯爵と国の歴史について楽しく討論した書斎、真面目だけど暖かな使用人達と言葉を交わした廊下…思い出のどこにも夫の姿はない。

当然だ、彼と家族として過ごした事は一度もない。


「……一年間、本当にお世話になりました。

 デュラン侯爵家のますますの隆盛を心からお祈りします。

 お義父様もお義母様も、どうか健やかにお過ごしください…僅かな間でもお二方の娘であったことは私の誇りです」

「素晴らしい娘と共に過ごせた一年、生涯忘れる事はない。

 どうか体に気を付けるよう…貴方の行く末に良き道があらんことを」

「本当にありがとう…そして、ごめんなさいね、リーリエさん」


今日の内に書類を提出し、明日にはもう家族ではなく王女と臣下に戻る事になるがそれでも一年間同じ屋敷で暮らした間柄だ。

お互いに涙が滲むのを堪えながら家族としての最後の言葉を交わし、そうしてリーリエは侯爵家を後にした。


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