7. アンとアグネス
旅芸人の娘に、将来有望な若者が骨抜きにされている。そういう噂が広まったのは、少女が寝泊まりする農場の納屋から、夜中に睦声が聞こえるようになったからだった。
清潔な服に上等な皮の手袋と靴。十代の半ばの青年は、田舎には似合わない端正な容姿をしていた。市会議員の父と中産階級の出身の母を持つ。裕福な商人の家庭に育つ彼が通っているのは、地方の秀才を集めた有名なグラマー・スクールだった。
「ほんとに上玉じゃないか。あんた、学生を誑かす才能あるんじゃないかい」
お楽しみの邪魔にならないよう、青年がいる間は座長の女房が赤子を預かる。そのときに彼が必ずシリングを手渡すので、女房も今ではすっかりその収入を当てにするようになっていた。
青年が納屋に入ると、すぐに中から卑猥な物音や淫らな喘ぎ声が響く。
若者は性急で堪え性がなく、獣のように自分勝手に貪るだけ。女を満足させる技を知らない。少女は藁の上に横たわり、唇を噛んでその時間をやり過ごす。
彼女が何よりも辛かったのは、青年が吐息と共に彼女の名を漏らすこと。その声に愛しい男の記憶が呼び覚まされるからだ。それでも、これは避けられないことだった。少女はじっと動かずに目をつぶって、こうなった経緯を思い出していた。
「あんた、アンっていうの?」
旅芸人の一座に宿所を貸したのは、町から少し離れた村にある小さな農場。そこには薹が立たった嫁き遅れの娘がいた。人の寿命が短い時代、子を産んで育てる時間を考慮すると、二十歳を過ぎた女は市場価値が無くなる。
「私もアンって呼ばれてるの。その子、あんたの?」
少女の胸に吸い付く赤子を見つめながら、アグネスは怪訝な顔をする。答えあぐねる少女の側で、座長の女房が代わりに答えた。
「この娘はね、上流さんに弄ばれたあげく捨てられたんですよ。産んだ子は死んだけど、乳は出るんでね。うちの孫の乳母に雇いました。そのうち、いい人の後妻にでもなれたらいいんですがねえ」
「ふうん、若いっていいわね」
農家の娘は憎々しいといった目をしてから、何かを思いついたように顔を輝かせた。そして、さっきとは態度を変えて、急に気味の悪い猫なで声を出す。
「ねえ、母屋にいらっしゃいよ。使っていない納屋があるの。小さいけど、あんたと赤子くらいは眠れるわよ。同じ名前のよしみで使わせてあげる」
「まあ、お優しい。ほら、あんたも礼を言いな」
座長の女房が少女にそう促す。確かに野営よりは雨風の防げる納屋のほうが、赤子が風邪を引く心配が減る。ほんのちょっとした病気でも、この時代の乳幼児には命取りになった。
「お心遣い、感謝いたします。ハサウェイ様」
「アグネスよ。アグネス・ハサウェイ。あんたは? アン・何なの?」
「親は、ウェイトリーと名乗っていました」
「アン・ウェイトリーか。名前は立派ね」
流行り病で死んだ両親は、貧しいけれど信仰の篤い人たちだった。今の自分を見れば、彼らはどれほど恥ずかしく思うだろう。もう知る人もない姓を口にしたことを、少女は深く後悔した。
すぐにアグネスの案内で、少女と赤子は納屋に入った。使っていないはずなのに、中はきれいに掃除されている。干草の上にはシーツと毛布があって、今すぐにでも横になれそうだ。十分に乳を飲んでウトウトし出した赤子を、その上にそっと横たえた。
「ねえ、あんたに頼みがあるのよ。聞いてくれたら、食べ物をあげるわ。お腹空いてるんでしょ」
少女はいつも空腹だった。育ち盛りの体と赤子への授乳。最近は乳の出が悪くなり始めて、密かに心配していたところだった。
「怖がらなくていいわ。ちょっと協力してくれればいいのよ」
「何をすれば?」
「たいしたことじゃないわ。ここを貸してほしいの」
「ここはアグネス様のお家です。ご自分で自由にお使いになれば……」
「それじゃ、ダメなのよ。父にバレたら困るの」
アグネスには男がいる。厳格な父親に知られないように、こっそりこの部屋で情事を重ねたいということだった。
「あんたがいれば、誰も私がここを使っているなんて思わないわ」
「じゃあ、アグネス様が必要なときは、外に出ます」
「それじゃ意味ないの。誰かに見つかったらどうするのよ」
「でも、お邪魔では……」
少女が躊躇すると、アグネスが声を出して笑った。その声がかなりヒステリックに聞こえたのは、少女の気のせいではない。
「生娘じゃあるまいし、別に恥ずかしくないわ」
「でも、お相手の方が……」
「気にしなくていいのよ。あの子は女の体に興味があるの。他の女を知らないうちに、身も心も私の虜にしてみせるわ」
アグネスには、成熟した女の色香がある。その胸や腰つきを見れば、相当数の男と寝てきたのは明らかだった。女性経験のない男を嵌めるのは、至極簡単だろうと思われる。
「ここで?」
「ええ。彼と寝てるのは、あんたってことにするの。あとは、私が妊娠すればいいだけ。彼と結婚したいのよ」
妊娠すれば結婚できる。何を根拠にそう言い切れるのか、少女には全く分からなかった。でも、ここで断れば、自分の宿どころか旅芸人の一座も野営地を失うことになる。他に選択肢はない。
それから、青年が夜に訪ねてくると裏口からアグネスが入ってくるようなった。二人は少女の隣で睦みあったあげくに、濃厚な性の臭いを残して去る。
そして、少女はかつて自分に囁かれていた言葉を、その青年の声で聞き続けることになった。
「アン、愛してる」
少女にそう言った男は、もうどこにもいない。その事実に胸をえぐるような痛みを感じながら、アグネスが自分のようにならずに済むことを、少女は毎晩そっと祈るのだった。




