6. 国王の初恋
オックスフォードでの興行を終え、旅芸人の一行はさらに北へ向かっていた。その中に一人、見慣れない少女が混じっている。儚げで幼い容姿に似合わず、少女の乳は不恰好なほど大きい。その豊満な胸に抱かれているのは、すやすやと眠る生後3ヶ月の女児。
他の者たちが徒歩なのにもかかわらず、少女は荷馬車に乗せられていた。石がごろごろと転がる田舎道に、スプリングのない荷馬車は酷く揺れる。なんとか座れているのは、野宿用の毛布が山と積まれた上だからだった。
腹を空かせた赤子が泣き出すと、少女は胸元の紐をほどき、青筋が立つほどに張った乳房に小さなの口を宛てがう。すると、もう一方の乳から迸った母乳が、着ている服を濡らした。この瞬間はいつも、周囲の男たちの目が彼女の胸元に集中する。
旅の途中で座長が拾った赤子。その乳母として雇われたのは、大学寮で女中をしていた少女だった。高貴な男の胤を宿したが死産。頼れる身寄りもなく途方に暮れていたときに、そのあり余る乳に目をつけた座長の女房に引き取られたのだった。
「ああ、いい乳だね。これだけ飲めれば、この子も満足だろ」
男たちの卑猥な妄想から少女をかばうように、座長の女房が荷馬車の横を歩く。他の女たちも何くれとなく少女を気遣っていた。13歳という若さで手篭めにされ、孕まされた挙句に捨てられた。しかも、子を亡くしたという話を伝え聞いて、皆の同情が集まった結果だった。
「あんたはまだ若いんだから。違う土地に行けばいい縁もあるさ」
そう言ってくる女たちに、少女はただ黙って頷く。自分が不幸であればあるほど、他の女たちが優しくなることを、彼女は本能的に知っていた。
授乳が終わると、座長の女房が赤子を抱き取った。次の休憩まで寝ておけという意味だ。昼夜問わずに乳を与える身には、その気遣いはありがたい。
しかし、眠ろうと目を閉じる度に、まぶたの裏に浮かぶ男の姿が少女を苦しめた。別れてからずいぶんたった今でも、愛する男の思い出だけは鮮やかに彼女の中に蘇る。
「国で、僕の成人祝いの式典があるんだ」
「お国では、13歳でもう成人になるのですか?」
全裸の少年と少女が横たわっているシーツは、すでに二人の汗と体液でぐちゃぐちゃになっていた。毎朝、このシーツを換えて洗濯するのが、女中としての彼女の仕事だった。
「お前のおかげで、男になれたからね」
「私と寝ているせい?」
オックスフォード大学にお忍びで滞在中だった少年は、毎夜飽きもせずに少女を抱いていた。身分を隠しての来訪中であっても、学寮で女中との著しい破廉恥行為に耽れば、それが噂にならないわけがない。当然、自国の人間の知るところとなった。
「ずいぶんと直接的な言い方だね。でも、体だけじゃなく、精神的にも大人になったろ?」
「あまり変わったようには見えませんが……」
身の回りの世話をすると挨拶をしたときも、お互いに初めての行為に戸惑ったときも。我を忘れて何度も愛し合った後ですら、少年のあどけない笑顔は同じだった。
「父親になるんだ。子が親を大人にする」
その言葉にを聞いて、少女は曖昧に笑った。女中は奴隷のようなもので、手をつけて子を産ませても、その子を認知する男はいない。それなのに、少年が彼女の妊娠を喜ぶのは、己の生殖能力を証明できたから。その事実が彼の地位を安泰にするせいだと、彼女は思っていた。
「一旦は国に戻ることになる。でも、必ず迎えに来るよ」
「旦那様……」
「ジェームズだよ。僕の名前はジェームズ」
「ジェームズ様」
少女がそうつぶやくと、少年は嬉しそうに微笑んで彼女を抱き寄せた。その仕草があまりに優しくて、彼女は彼に愛されていると錯覚しそうになる。
たとえば、彼の愛が真実だったとしても、彼の身分がそれを許さないと彼女は知っていた。そして実際は、彼は初めて知った女の体に溺れているだけ。彼女はそう思い込んでいたのだった。
そして、実際に少年が少女を迎えにくることはなかった。息をせずに生まれた子を弔ったのは、彼の元家庭教師と名乗る者。彼が何者なのかを彼女に教えた老学者だった。
男色の少年に女を教える。それがその老人に課せられた最後の授業。それを知らされたのは、既に少女が少年を愛してしまった後だった。
「お前は我が国の未来を救った。世の穢れを知らずに逝った子は、天国で神に一番近い場所に行く」
老人はそう言って産褥の少女を慰め、見たこともない金の硬貨を置いていった。彼女はそれを教会に渡して、子を墓地に埋葬したのだった。高貴な血を引く子が、やすらかに眠れるように。
そして、死んだ子の代わりに、少女は今、美しい女児に乳を含ませる。失ったものと得たもの。
彼女の喪失感を埋めるのは、その乳房を夢中で愛撫した男の性愛の記憶ではなく、その乳首に必死に吸い付く他人の赤子への情愛へと次第に変わっていく。
その年、スコットランドでは、13歳の国王ジェームズ6世が成人統治者となったことを祝う式典が行われた。その前年には、国王の家庭教師ジョージ・ブキャナンが宮廷を去っている。最後の著書「スコットランド史」の執筆にあたって、各地の大学を訪ねて蔵書を参考にするためだった。




